2023年11月21日火曜日

【GHQ占領と日本】10.GHQの占領政策と、日本の政治の再編成

【GHQ占領と日本】10.GHQの占領政策と、日本の政治の再編成

 終戦時に日本を占領することになった連合国は、日本に軍政をしいて「直轄統治」する方針を示した。これに対して、終戦処理にあたった東久邇宮内閣の重光葵外務大臣は、日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱するとして、マッカーサーGHQ総司令官に強く抗議し、その結果、占領政策は日本政府を通した「間接統治」となった。

 これにより、「GHQ」が「日本政府」に指令を出し、それに基づいて政府は内政を実施する間接統治形式をとった。もちろん、GHQ要員の大半を占める「アメリカ政府」がその背後にあって、GHQに指示を発する。

 事実上アメリカの単独統治となったが、他の戦勝国の意思をも反映するため、各国代表による「極東委員会(FEC)」がワシントンに設置され、その極東委員会の出先機関として「対日理事会」が東京に設置されて、GHQ最高司令官と協議するとされた。

 1945(S20)年10月、GHQは幣原喜重郎内閣に憲法改正を指示した。日本政府側から出された憲法改正案は、旧憲法を一部文言を変えた程度で保守的であるとして、GHQ はこれを拒否し、GHQ独自の改正案を作成した。政府はあらためて憲法改正草案を作成し、帝国議会での審議を経て、1946(s21)年11 月「日本国憲法」として公布、翌年5月3日から施行された。

 新憲法では、民主主義を担保する「国民主権」を前面に打ち出すために、旧憲法での主権者であった天皇の位置づけが最優先事項となった。当初は、天皇を戦争犯罪人として廃位、天皇制を抹消する方針であったが、GHQ細工司令官マッカーサーが直接面談するなどして、日本の占領と日本国民の統治のためには、「天皇制の存続」が有効であると考えた。

 かくして、日本国憲法の第一章で「象徴天皇」と定め、政治には関わらない存在とした。日本国憲法の制定にもとづき、多くの制度が改革された。「国民主権」や「基本的人権」の根幹とするために、選挙制度や政党制が確立され、あらたな民主主義政治が始まった。

 終戦直後に、「東久邇宮内閣」・「幣原喜重郎内閣」と短期の内閣が続くが、これはいわば終戦処理内閣であり、GHQの指揮のもとに緊急の措置を行った。1946(s21)年4月10日、戦後最初の「第22回衆議院議員選挙」が、初めて女性参政権を認めた「男女普通選挙」として実施され、39名の女性議員が誕生した。

 選挙では日本自由党が第一党となり、自由党総裁の鳩山一郎が首相指名を待つが、その直前にGHQから公職追放に指定された。そのため、代わって旧憲法下の貴族院議員であった吉田茂が「第1次吉田内閣」を組閣する。

 第1次吉田内閣は、労働関係や農地改革の法整備などを行うが、吉田自身は長らく外務官僚であり政治基盤が弱く、1947(s22)年4月、「日本国憲法」の下で最初の「第23回総選挙」で、与党日本自由党は「日本社会党」に第一党を奪われた。

 社会党は日本民主党・国民協同党と連立して、最初の革新政権となる片山内閣を誕生させるが、予算審議で行き詰まり1年ももたず瓦解する。引き続き同じ連立で民主党総裁の芦田均が首相に任命され、芦田内閣が誕生するが、昭電疑獄で内閣要職者らが逮捕され、芦田内閣は総辞職に追い込まれた。

 自由党と民主党の一部が合流して「民主自由党」が結成され、それを率いる吉田茂が後継と目されていたが、吉田の保守性を忌避するGHQ民生局(GS)が、民自党幹事長の山崎猛を首班とした民主党・日本社会党・国民協同党との連立内閣の成立を画策した。

 芦田内閣の崩壊原因となった「昭電疑獄」は、日本の「逆コース」を担ったGHQ参謀第2部(G2)が仕掛けたとされ、その後任に超保守主義者「吉田茂」を推していた。それに対して、リベラルな急進政策を推進していたGHQ民生局(GS)が、この「山崎首班工作事件」仕掛けたといわれる。

 この動きを察した吉田は、直接マッカーサーに掛け合いその支持を取り付けたため、一転して山崎への非難が高まりこの工作は失敗する。これにより「第2次吉田内閣」が発足した。占領初期に急進的な民主化政策を推進した民生局(GS)に対して、日本を強化して自立させ、共産主義への防波堤にしようとするGHQ参謀第2部(G2)が発言力を強めていた。

 この時期に「逆コース」が本格的になりG2が優勢になりつつあったが、1950年6月朝鮮戦争が始まると、いよいよ日本の保守化が決定的になる。第2次吉田内閣は野党に不信任案を可決されるが、それを受けた1949(s24)年1月の「第24回衆議院議員総選挙」で民主自由党が大勝し、1949(s24)年2月から1952(s27)年10月にわたる「第3次吉田内閣」が発足した。

 この第3次吉田内閣は、「サンフランシスコ平和条約(単独講和)」の締結で、日本の独立を回復するという敗戦後を画期する出来事を為し遂げた。吉田首相は、GHQの指揮に従いながら、その下で日本の利益を得るという政策を一貫した。

 1951(s26)年9月、講和条約を締結すると、その脚で目立たない陸軍施設に向かい、単独で「日米安保条約」に調印する。これはGHQ撤退にともなう軍事的空白を埋めるために、引き続き米軍の駐留を認めることを主眼とし、日本が米側の駐留などの権利を認めるだけの片務的条約であった。

 とはいえ、はれて独立を得た日本国は、米国の傀儡と言われながらも新たな戦後日本として立ち上がっていく。講和条約直後には内閣支持率60%近くに達し、吉田茂は頂点を極めた。しかし吉田は、周りの勇退の奨めにも関わらず政権を続投した。

 事実上、政治課題を達成してしまった感が強い吉田政権は、組閣解散を繰り返し、弱体化してゆく。1954(s29)年12月に内閣総辞職すると、公職追放から復帰していた鳩山一郎が「第1次鳩山一郎内閣」を組閣する。

 1955(s30)年以降、保守合同で「日本自由民主党」となった与党は、左右合同した「日本社会党」と競い合いながら「55体制」を展開してゆく。一方で、戦後の成長軌道に乗った日本経済は、経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言されて、「高度成長」を展開してゆく。

2023年11月20日月曜日

【GHQ占領と日本】09.GHQの占領政策と、その後の日本

【GHQ占領と日本】09.GHQの占領政策と、その後の日本

 戦後日本に対してGHQがおこなった経済面の三大改革は、「財閥解体」「農地改革」「労働改革」だと言われる。これらのGHQの狙いは、日本の軍国主義を復活させないための、徹底した経済の民主化および自由化であった。これらの政策改革を通じて、戦中に破壊された生産設備の回復と復興を為し遂げ、やがて高度経済成長の軌道に乗っていった。

 「財閥解体」においては、三井・三菱・住友・安田の四大財閥のみならず、富士産業(旧中島飛行機)などの軍需国策企業や中小地方財閥までもが解体され、「持株会社制度の禁止」と株式の分散という形で、「資本の分散と民主化」が図られた。

 さらに「公職追放」では経済界においても、財界重鎮や企業の幹部層が一気に職から追放されたため、財界や企業の中心にそれまでの中堅管理職や若手官僚が抜擢され、一気にトップが若返ることになった。産業界には進取の機運がみなぎり、アメリカなどから最新の手法を取り入れるなど、経済界が一気に改変され活発な企業活動が始まった。

 「農業界の民主化」は、「農地改革」という形で展開された。産業界の改革は「資本所有の民主化」に始まったが、農業分野においては、それに相当する「農地所有の民主化」という形で着手された。戦前の「大地主制」が農業の発展を阻害しているとの認識のもと、それまでの「小作農」などに、ほぼただ同然に分割所有させた。

 これによって多数生まれた自作農は、当初は農業の政策拡大に多くの寄与を果たすことになった。しかし分散された農地は、その後の農業機械の導入や大きな資本導入による大土地農業による効率化を阻むようになった。米作中心に据えた食管法などの農業政策も矛盾を露呈し、やがて日本の農業の衰退を招くようになった。

 「労働改革」は、まずGHQによって、労働者の権利を守るために「労働組合」の結成が推奨された。しかしこれらの組合は、共産党や社会党などの革新政党によって指導されることによって、経済的な活動よりも政治的な急進的イデオロギーを前面に出すようになった。そのため、GHQや日本政府は「労働運動」に抑圧的な政策に転換していく。

 戦後に誕生した労働組合は、欧米のような産業別労働組合ではなく、その多くが「企業別労働組合」として組織されたため、やがて「企業内組合」として経営側に組み込まれて行った。その中で唯一、戦後も長くその影響力を残したのが「教職員組合」であった。その原因は、教職員組合がその学校制度の形態から、必然的に「産業別組合」の性格をもったことが大きい。

 GHQは教育の民主化を意図したが、直接担当する民生局(GS)は急進派が主流を占めていたため、極端な急進改革を進め、一方で共産党の合法化や労働組合の推奨など政策と相まって、教育の左傾化をもたらした。その後、逆コースなど方針転換があったものの、教育現場の左翼的傾向は長らく温存されることになった。

2023年11月18日土曜日

【GHQ占領と日本】08.宗教政策・言論統制・文化政策

【GHQ占領と日本】08.宗教政策・言論統制・文化政策

1.宗教政策

 GHQの宗教政策は、「信教の自由の確立」「政教分離」「宗教界からの超国家主義・軍国主義的思想の除去」という三大原則を明示し、日本の戦後社会を安定的に進展させることを目指した。

 そのためGHQは、1945(s20)年12月、日本政府に対して「神道指令」を発令した。GHQは、「軍国主義・超国家主義」を生み出した悪の源泉こそが「国家神道」であり、日本を戦争に導いた原因であると確信し、「信教の自由の確立」「政教分離の徹底」「軍国主義の排除」の実現を具体的に指示した。

 神道指令の内容は次のとおりである。
・国家神道の廃止
・政治と宗教の徹底的分離
・神社神道は民間宗教として存続
・国家指定の宗教による強制から国民を解放
・公的機関による神社への資金援助を禁止

 これにより公的な神社への支援が禁止され、国家神道、軍国主義的・超国家主義的とされる用語の公文書における使用も禁止された。


2.言論統制

 GHQは日本の民主化自由主義化を目指したが、一方で言論の統制も行った。一つは、戦前の軍国主義的な日本を肯定するようなもの。そしてもう一方では、戦時中を含む連合国軍の行為を批判するものや、戦後のGHQの政策を非難する行為や言論を禁じた。

 GHQの言論統制は、1945(s20)年9月に発した「プレスコード」などで示され、それによって軍国主義的、戦前から戦中の日本を肯定、連合国軍の行為を批判、原子爆弾や無差別空襲の被害などをラジオや新聞、雑誌、一般市民発行の本などが厳しく検閲された。

「掲載禁止、削除理由の類型」には、占領軍批判、検閲への言及、本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目もあった。
・連合国兵の暴行事件
・連合兵の私行に関して面白くない印象を与える記事
・連合国軍将校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事
・食糧事情の窮迫を誇大に表現した記事
・連合軍の政策を非難する記事
・国内における各種の動きに連合国司令部が介在しているように印象づける記事
などであった。

3.文化の誘導

 日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、さまざまなアメリカ文化の推奨がはかられた。

・「アメリカ映画普及」のための配給窓口会社「CMPE(Central Motion Picture Exchange)」を東京に設立した。一方の国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。
・子供たちに人気の「紙芝居」では、「黄金バット」の「髑髏怪人」というキャラクターを、あめりか白人に変更させている。しかしこれは全く支持されることなく無視された。
・非軍事化の一環として、「日本国内の武道」を統括していた「大日本武徳会を解散」させ、関係者を公職追放した。また、全国に日本刀の提出を命じる刀狩りが行われた。
・映画界では「チャンバラ映画が禁止」されて、時代劇のフィルムも廃棄された。

 進駐軍の兵士が利用する「進駐軍クラブ」により、「最新の英米の文化」がもたらされた。当時のアメリカで流行の「スウィング・ジャズ」がもたらされ、進駐軍兵士相手に歌う日本人ジャズシンガーなどが売れっ子となった。また、クラブで提供される酒類は「ビールやウィスキー」の洋酒であり、日本酒や焼酎にとって代わり、これらが急激に普及した。

 戦後の食糧困窮時期に、GHQにより「学校給食への食糧援助」が行われた。これらには、アメリカでの余剰品や家畜飼料用の小麦や脱脂粉乳が充てられ、小学生時代から「パンを主食」とする食習慣が導入され、一般にも食事の洋風化が浸透した。

2023年11月17日金曜日

【GHQ占領と日本】07.教育の民主化

【GHQ占領と日本】07.教育の民主化

 占領軍の占領体制が整うと、GHQは「4大教育指令」を発令し、戦時教育の処理についての方針を示した。その内容は、
1 軍国主義、極端な国家主義的思想の教育並びに軍事教育の禁止
2 教育関係の軍国主義者、極端な国家主義者の追放、旧軍人の教職従事の停止
3 神道を国家から分離し、学校での神道教育を排除
4 修身・日本歴史及び地理の授業の停止と教科書の回収

 これらの方針を踏まえて、日本政府に教育改革の基本方針を策定させるために、米国より教育専門家の教育顧問を招聘するよう計画し、ジョージ・ストッダードを団長とする「米国教育使節団」が来日すると、それに協力するための日本側に「教育家委員会」が組織された。

 使節団の報告書は、日本教育の目的及び内容、国語改革、初等及び中等段階の教育行政、教育活動と教師教育、成人教育、高等教育の六章から成り、全体として日本の過去の教育における問題点を指摘しつつ、これに代わるべき民主的な教育の理念、方法、制度などを提言している。

 その提言を受けたGHQの指示のもとで、日本政府の文部省は、占領下における教育の民主化方針を具体的にまとめた。
1.民主化の理念の下、憲法および「教育基本法(s22)」の制定
2.機会均等の理念の下、6・3・3・4の単線型学校体系の導入(「学制改革」-学校教育法/s22)
3.義務教育の年限延長と無償制度の実施(義務教育は小学6年・中学3年の9年に)
4.教育委員会制度の創設(教育の地方分権)

1.教育基本法

 戦後の民主化された教育は、1947(s22)年3月に施行された「教育基本法」に基づいて行われることとされた。戦前の教育の基本とされた「教育勅語」が、結果的に国家主義・軍国主義に国民を従属させるために用いられたことを反省とし、あらたに制定された「日本国憲法」でうたわれた自由で民主的な国家の理想実現のためには、教育の力によるところが多大であり、それを具現化するためにあらたに「教育基本法」が定められた。

 この民主社会の教育実践のために、この教育基本法のもとに「学校教育法」「社会教育法」「教育委員会法」などが立法され、これらが戦後教育の体制をつくりあげる基本規定となった。

2.学制改革

 戦後の新社会に適した学制に改編することを目的として、戦前の「複線型教育」からあらたに「単線型教育」に改変され、それまで複雑だった学制を「6・3・3・4制」に一本化し、さらに義務教育を小中9年間へ延長することとされた。これは「教育の平等」を実現するものとして定められた。

 義務教育の小中学校に加えて、新制高校に関しては「小学区制・男女共学・総合制」という「高校三原則」が打ち出された。「小学区制」とは、同一地域に住む就学希望者は同一の公立学校に就学する制度である。これは進学生徒の平準化をはかるもので、学校格差を無くそうとする方向で進められた。

 「男女共学」は、それまで男女別々の教育制度だったものを、男女平等の精神の基づいて共学とするもの。そして「総合制」は、大学進学を前提にした旧制高等学校やその他実業学校などが別建てだったものを、新制公立校では普通科と商業科や工業科などを併設することである。

 「男女共学」は言うまでもなく、今ではそれが当たり前のように定着している。「総合性」は、「普通科」の希望者が圧倒的に多く、すべての公立校に職業科を設けることが出来なかったことと、その後の時代変化とともに、同一校に併設する不効率さが目立ち、現在では職業科単独の公立校が設けられるようになっている。

 「小学区制」は、地域の実情を反映していないため反発が多く、また学校選択の自由を奪うという批判も多かった。そして旧制の伝統校へ進学させるため、住所を移して旧制伝統校などに越境入学させるケースなども多発した。そのため小学区制を実現した地域はわずかで、多くは複数の高等学校を含む「大学区制」であった。

 当方の育った京都府では、最も「高校三原則」が徹底された。早くから革新府政が続き、しかも教職員組合の活動が活発であったため、「高校三原則」を支持する勢力が強かった。「男女共学」はそのままで問題なかったが、「総合性」では、普通科に10クラスで職業科が1クラスというような偏った生徒数で、職業科の生徒が肩身の思いをするなどの不都合で、やがて一校だけに職業科がまとめられるようになった。

 その中で小学区制は、どの他府県よりも長く続けられた。「十五の春を泣かせない」というスローガンで高校全入を目指し、学校格差をつけないという平等教育を徹底した。小学区制の下で、府全体での総合選抜で合格した生徒は、住んでいる地域で自動的に割り振られる。

 そのため新入学生徒の学力差は平準化し、旧制からの伝統校も戦後の新設高校も、ほとんど学力格差が見られなくなった。このことの良し悪しは一概には決められないが、問題は公立高校の学力が「平等に、低下した」ことにあった。

 具体的には、全国的にも難易度が高い京都大学の合格者数に、上位には京都の府立高校が登場せず、むしろ大学区制を取っていた大阪府立高校が軒並み上位を占めるというありさまだった。そして自由に選択できる中高一貫性の私立高校が、圧倒的な強みを見せるようになった。

 かくして公立高校の優越性は失われ、その後いくつかの改変が行われたが、かつてのような公立信仰は無くなったといってよい。大都市を抱える他府県でも、同様な傾向はあるだろうが、それが徹底されたのが京都府だといってよいだろう。

3.義務教育

 戦前は、「尋常小学校」を卒業するまでの「義務教育6年」と規定されていた。戦後になると、GHQ占領下で1947(s22)年の学制改革・学校教育法が施行され、新制の小学校6年間・中学校3年間が義務教育期間とされ、6歳から15歳までの「義務教育9年」と定められた。日本国憲法には、「教育を受ける権利」と「(保護者に)教育を受けさせる義務」が明記されている。

4.教育委員会

 「教育委員会」は、「教育基本法」に基づいてに、1948(s23)年7月に公布・施行された「教育委員会法」によって規定された。教育委員会は、都道府県に設置される「都道府県委員会」と「市町村」に設けられる「地方委員会」と大別された。

 当初の教育委員会は、公選で選ばれる「教育委員」で構成され、委員会の代表者である「教育委員長」は教育委員から互選で選ばれた。この「公選制教育委員会」は、「米国教育使節団」の提言をうけたGHQの指示の下で、教育の民主化と政治からの独立を強く意識したものであった。

 しかしこの理想は、いまだ確立していない地方自治や、戦前からの町内会などの地縁を無視したものであり、公選の住民意識は低く、一部の派閥的なつながりで選ばれるなど、うまく機能しなかった。そこで1956(s31)年「地方教育行政法」によって、地方公共団体の首長による「任命制」に変更された。

 教育委員会そのものは、5~7人の教育委員の合議制で運営されるが、これは基本方針のの決定などの決定機関であり、具体的な実務は「事務局」が実行することになる。事務局には「教育長」がおかれ、その下で具体的な実務を執行する。事務局には、地方公共団体からの出向員が派遣され、実務場所も役所内に設けられていることが多い。なお「教育委員長」と「教育長」は権限関係も紛らわしく、2015年の改正地方教育行政組織運営法の施行により、首長の任命による「(新)教育長」に統合された。

 これらの諸改変により、「教育委員会」の独立性は形骸化し、事実上は、地方行政府の一部に近い状態となっており、教育委員会の活動も、住民には分かりにくいものになっている。当初の住民に身近な組織ではなく、政府の教育政策を担う「教育委員会」と、それに対抗する革新系に支持される労働組合である「教職員組合」との、せめぎ合いの下で教育行政が運営されているというのが実態に近い。

5.教職員組合

 日本の民主化政策を推進するGHQは、その一貫とする学校教育の改革政策として、1945(s20)年12月「教員組合の結成」を指令した。各地に教員組合が生まれ、それらの全国組織「全日本教員組合協議会」や「教員組合全国同盟」や「大学専門学校教職員組合協議会」などが結成されたが、1947(s22)年6月奈良県の橿原神宮外苑で、これらを一本化する「日本教職員組合(日教組)」の結成大会が開かれた。

 大会では、「日教組の地位確立」「教育の民主化」「民主主義教育の推進」という3つの綱領が採択された。現在は「全日本教職員組合(全教)」や「全日本教職員連盟(全日教連)」などが分立しているが、ここでは歴史的にもっとも大きな影響を及ぼした「日教組」を中心に解説する。

 GHQの施政下で民生局(GS)が行政全般を担当し、教育も急進的な民主化が進められた。さらに労働組合も推奨され、教職員にも組合が結成された。それらが統合され1947(s22)年には、全国組織として「日本教職員組合(日教組)」が結成された。

 日本教職員組合は、戦後の社会党や共産党の支援の下、かなり過激な政治活動を展開する。しかし急進的なGHQの方針は、日本を取り巻く共産主義国の脅威から、日本を「反共の砦」として強化する、「逆コース」と呼ばれる保守回帰的な政策に転換された。

 その後、朝鮮戦争や日本の主権回復とともに、日本政府は、「日の丸」「君が代」「道徳教育」の導入など、戦前復帰的な教育政策を志向し始めた。戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は1951年1月の中央委員会で、教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」とのスローガンを掲げ、文部省の方針に対立する運動を開始した。

 また、1951年11月第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=「全国教研」の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催し、教育研究のみならず政治的なイデオロギーをも、全国教員にアピールすることになった。

 「教育の国家統制」や「能力主義教育政策」に反対する立場を取り、1950年代から60年代にかけて、ことあるごとに政府(文部省)の方針と対決する姿勢を強めた。この過程で、「教育委員会」は本来の独立性を失い、「文部省」の方針を受け売りするだけで「日教組」のやり玉にあげられた。

 GHQが撤退し日本の主権回復後には、日本政府も独自性を持ち始め、政治・経済・文化の方面では、当初の極端な民主化政策を修正していったが、教育界だけは日本国憲法にもられた民主化・自由化・平和主義・人権などの解釈で、極端な反政府的姿勢を貫きつづけた。その最先端に立ったのが日教組だった。

 日教組の組織率は結成直後には90%近くで、教職員全員加入かと思われるような数値だったので、政府文部省の教育政策はことごとく反対でつぶされるありさまだった。日本経済の復興とともに組織率は50%台まで低下したが、60年代後半から80年代の高度成長時代には緩やかな低下に転じる。

 1987年に、それまで日教組が属していた「総評」が、「日本労働組合総連合会(連合)」発足ために合流したため、共産党支持グループが日教組から離脱して、1991年の日教組の組織率は30%台となった。そのため日教組の発言力も低下し、文部省との力関係は逆転した。

 以下、日教組が国の方針に反対した事案を箇条書きにする。

*1950(s25)年以降 「教育の国家統制」に反対する立場から「国旗掲揚と国歌斉唱」の強制」に反対。
*1956(s31)年 教育委員会の「公選制から任命制」への移行に反対。
*1957(s32)年~1958(s33)年 教員の「勤務評定」を実施することへの反対。
*1961(s36) 日本の「全国統一学力テスト」実施への反対。
*1965(s40)年 「歴史教科書問題」をめぐる裁判(家永教科書裁判)の支援。

2023年11月16日木曜日

【GHQ占領と日本】06.公職追放

【GHQ占領と日本】06.公職追放

 終戦直後、アメリカ政府は「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、「軍国主義の排除」のために、日本の「政治・経済及び社会生活」にから一掃されなければならない」とし、それぞれにおける「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。

 その方針に基づいて、1946年1月4日、GHQから日本政府に「公職追放令(第1次)」が通達された。その中で「公職に適せざる者」を規定し追放することとなった。追放の該当者は、A項が「戦争犯罪人」、B項が「陸海軍軍人」、C項は「超国家主義・暴力主義者」、D項は「大政翼賛会指導者」、E項は「海外金融・開発機関の役員」、F項が「占領地の行政長官」、G項は「その他の軍国主義者や極端な国家主義者」とされた。

 その後も公職追放令の改正が行われ、より公職の範囲が広げられ、戦前・戦中の有力企業や軍需産業、思想団体の幹部、多額寄付者なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。公職追放者は、公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために、政府から動静が観察されていた。

 公職追放によって政財界の幹部が急遽引退することになり、中堅層が幹部になることで日本の中枢部が一気に若返ったため、組織が活性化して、その後の高度成長時代を支えることになった。しかし、官僚に対する追放は不徹底で、旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、裁判官や公安警察では旧来の人脈が活動し、政治家は追放された議員に代わって、世襲候補や秘書など身内が継承して、保守勢力の議席が守られた。

 GHQによる改革は、内政を担当する民生局(GS)を中心に進められたが、民生局は局長コートニー・ホイットニー准将、その部下に次長のチャールズ・ケーディス大佐など、リベラリストや社会民主主義志向の人材が多く、日本軍国主義の解体と民主化政策を急進的に進めた。

 そのため、社会党の片山哲、民主党の芦田均ら革新政党・進歩主義政党の政権が誕生し、共産党を合法化し、労働組合の結成を推進した。とりわけ教育界、言論界などでは、左派勢力や共産主義者が大幅に伸長した。さらに公職追放で、各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、社会主義的運動が急激に活発となった。

 しかしその後社会情勢の変化が起こり、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化すると、GHQの占領方針は転換し、チャールズ・ウィロビー少将率いるGHQ参謀第2部(G2)など保守派の発言力が高まり、「逆コース」と呼ばれる保守政策への方向変化がはじまった。

 その上に、中華人民共和国の誕生や朝鮮戦争などで共産主義勢力が拡大したため、日本を強化して共産主義への防波堤にしようとする流れが強まった。これによって、「公職追放指定の解除」とその逆の「レッドパージ」により、保守勢力の勢いが増した。この逆コース転換には、米本国でのロビイスト団体「アメリカ対日協議会」の活動が大きく影響したといわれる。

 そして1952年4月の「サンフランシスコ平和条約」の発効と同時に、「公職追放令廃止法」が施行され、すべての公職追放は解除となった。岸信介や鳩山一郎という政界の重鎮は、この時やっと解除され、1954(S29)年、造船疑獄などで第4次吉田政権が倒れると、やっとのことで鳩山政権が誕生し、ソ連との国交回復をなし遂げ、その後の1956(s31)年には岸信介が首相となり、60年安保改定を実現した。

2023年11月15日水曜日

【GHQ占領と日本】05.農地改革(農地開放)

【GHQ占領と日本】05.農地改革(農地開放

 1945(s20)年12月9日、GHQ最高司令官マッカーサーは、日本政府に「農地改革に関する覚書」を送り、数世紀にわたって封建的社会のもとで継続されてきた「地主制度」を解体し、農地の所有制度の根本的改革を指示した。

 元来、日本の政治家や官僚の間には、農村の疲弊を打開するために地主制度を解体する案はあった。しかし、財界人や皇族・華族といった地主層の反対が強く、戦前には実施できなかったが、財閥解体と同様に「農地改革」も、GHQの強権のもとで一気に実現する運びとなった。

 第一次農地改革法は国会を通過するが、GHQの意に沿っていなかったため、その後日本政府はより徹底的な第二次農地改革法を作成、1946(S21)年10月に成立した。具体的には「農地調整法(1938年)の改正」と、「自作農創設特別措置法(1946年)」及び「関連法の特別会計法」などである。

 このようにして、長年続いてきた大地主による「小作制度」は廃止され、地主が所有していた小作地は、いったん農林省が土地所有者として登記されてから小作人に分割されるなどした。この法律のもと、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

・不在地主の小作地の全て
・在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
・所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等
 また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

 農地の買収譲渡は1947(s22)年から1950(s25)年にかけて実施され、最終的に193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

 譲渡された小作地は、終戦直後の小作地の8割に達し、農地に占める小作地の割合は46%から10%に激減し、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。この農地改革は、GHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれる。

 日本の農地改革は、「専業的家族経営(中農)」を創出し、自営農による「生産力の向上」を目指したもので、改革当初は農業労働意欲を高め「農産物の増産」に寄与した。また、この農地改革は、日本の有権者の約半数が農業従事者であり、その大部分が自作農として耕地を私有財産として持つようになり、その多くが「保守支持層」となって、戦後の政治運営を安定化させた。

 農地改革は、敗戦後の雇用や食料供給の安定化に多大な貢献したが、その後、日本経済が高度成長の軌道に乗ると、小規模自営農に細かく区分された土地所有は、農業機械の稼働能率が低く、しかも大規模化・効率化が遅れるようになった。小規模零細経営や米優先農政により、次第に日本農業は競争力を低下させ、戦後の食料自給率を大幅に低下させていった。

2023年11月13日月曜日

【GHQ占領と日本】04.経済の集中排除と経済制度民主化(財閥解体)

 【GHQ占領と日本】04.経済の集中排除と経済制度民主化(財閥解体)

 アメリカを中心とする連合国側は、日本の財閥が日本軍国主義を制度的に支援したとの認識から、これを解体する事で軍国主義を壊滅できると考えた。そして連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1945(s20)年10月11日「経済の集中排除と経済制度の民主化」を指示。そして「過度経済力排除政策」の中核を「財閥解体」と定め、日本政府にその解体を指示した。

 当初、日本政府は財閥解体には消極的だったが、GHQ経済科学局長レイモンド・クレーマーは10月16日に声明を発し、財閥解体に当たっては日本側の自発的な行動に期待するが、日本側に積極的な動きがない場合には、GHQが直接に実施に乗り出すとした。

 これにより、日本政府や各財閥は「財閥解体やむなし」と考え、政府は三井・三菱・住友・安田の4大財閥と協議を進め、「財閥解体計画案」をGHQに提出する。GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーは11月6日、日本政府案を修正し、監督・検閲権を留保する事を条件に、日本政府案を承認した。これを受け日本政府は11月23日、勅令「会社ノ解散ノ制限等ノ件」を公布し、財閥解体が始まった。

 日本政府は、持株会社の有価証券等の整理を進める「持株会社整理委員会」を発足させ、1946年8月23日から委員会は活動を開始した。9月6日、政府は軍国主義である三井本社・三菱本社・住友本社・安田保善社・富士産業(旧中島飛行機)を持株会社であると特定し、これに基づき委員会は、5社に解散を勧告し財閥解体政策は実行に移された。富士産業は純軍需産業としてみなされたため、4財閥に付け加えられた。

 財閥解体は、この4財閥+富士産業の第1次指定に終わらず、中堅財閥や新興コンツェルン、さらには地方財閥・小規模財閥などにも及び、1947(s22)年9月の第5次指定まで続いた。資本の民主化は、旧財閥や創業家一族などが保有する株式等有価証券を、証券処理調整協議会にゆだね、ひろく民間に分散売却することで達成された。

 1947(s22)年には、「過度経済力集中排除法」および「独占禁止法」が成立し、財閥解体措置の効果を恒久化しようとした。過度経済力集中排除法は、「過度の経済力の集中を排除」して再編し、競争的な市場構造を創り出すことを目的とした。そして独占禁止法は、株式所有による支配力の排除や、企業間における「資本的支配関係を阻止」しようとするものであった。

 ところが、米ソ冷戦によるの変化を背景に、米国政府およびGHQは、いわゆる「逆コース」と呼ばれる対日占領政策の転換が始まり、経済対策も「日本経済自立化の促進」に転換された。そのため、集中排除法や独占禁止法も一部骨抜きにされ、温存された銀行など金融機関を中心に、「企業系列」という形での旧財閥系企業の結びつきが復活することになる。