2023年11月16日木曜日

【GHQ占領と日本】06.公職追放

【GHQ占領と日本】06.公職追放

 終戦直後、アメリカ政府は「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、「軍国主義の排除」のために、日本の「政治・経済及び社会生活」にから一掃されなければならない」とし、それぞれにおける「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。

 その方針に基づいて、1946年1月4日、GHQから日本政府に「公職追放令(第1次)」が通達された。その中で「公職に適せざる者」を規定し追放することとなった。追放の該当者は、A項が「戦争犯罪人」、B項が「陸海軍軍人」、C項は「超国家主義・暴力主義者」、D項は「大政翼賛会指導者」、E項は「海外金融・開発機関の役員」、F項が「占領地の行政長官」、G項は「その他の軍国主義者や極端な国家主義者」とされた。

 その後も公職追放令の改正が行われ、より公職の範囲が広げられ、戦前・戦中の有力企業や軍需産業、思想団体の幹部、多額寄付者なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。公職追放者は、公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために、政府から動静が観察されていた。

 公職追放によって政財界の幹部が急遽引退することになり、中堅層が幹部になることで日本の中枢部が一気に若返ったため、組織が活性化して、その後の高度成長時代を支えることになった。しかし、官僚に対する追放は不徹底で、旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、裁判官や公安警察では旧来の人脈が活動し、政治家は追放された議員に代わって、世襲候補や秘書など身内が継承して、保守勢力の議席が守られた。

 GHQによる改革は、内政を担当する民生局(GS)を中心に進められたが、民生局は局長コートニー・ホイットニー准将、その部下に次長のチャールズ・ケーディス大佐など、リベラリストや社会民主主義志向の人材が多く、日本軍国主義の解体と民主化政策を急進的に進めた。

 そのため、社会党の片山哲、民主党の芦田均ら革新政党・進歩主義政党の政権が誕生し、共産党を合法化し、労働組合の結成を推進した。とりわけ教育界、言論界などでは、左派勢力や共産主義者が大幅に伸長した。さらに公職追放で、各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、社会主義的運動が急激に活発となった。

 しかしその後社会情勢の変化が起こり、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化すると、GHQの占領方針は転換し、チャールズ・ウィロビー少将率いるGHQ参謀第2部(G2)など保守派の発言力が高まり、「逆コース」と呼ばれる保守政策への方向変化がはじまった。

 その上に、中華人民共和国の誕生や朝鮮戦争などで共産主義勢力が拡大したため、日本を強化して共産主義への防波堤にしようとする流れが強まった。これによって、「公職追放指定の解除」とその逆の「レッドパージ」により、保守勢力の勢いが増した。この逆コース転換には、米本国でのロビイスト団体「アメリカ対日協議会」の活動が大きく影響したといわれる。

 そして1952年4月の「サンフランシスコ平和条約」の発効と同時に、「公職追放令廃止法」が施行され、すべての公職追放は解除となった。岸信介や鳩山一郎という政界の重鎮は、この時やっと解除され、1954(S29)年、造船疑獄などで第4次吉田政権が倒れると、やっとのことで鳩山政権が誕生し、ソ連との国交回復をなし遂げ、その後の1956(s31)年には岸信介が首相となり、60年安保改定を実現した。

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