2023年11月17日金曜日

【GHQ占領と日本】07.教育の民主化

【GHQ占領と日本】07.教育の民主化

 占領軍の占領体制が整うと、GHQは「4大教育指令」を発令し、戦時教育の処理についての方針を示した。その内容は、
1 軍国主義、極端な国家主義的思想の教育並びに軍事教育の禁止
2 教育関係の軍国主義者、極端な国家主義者の追放、旧軍人の教職従事の停止
3 神道を国家から分離し、学校での神道教育を排除
4 修身・日本歴史及び地理の授業の停止と教科書の回収

 これらの方針を踏まえて、日本政府に教育改革の基本方針を策定させるために、米国より教育専門家の教育顧問を招聘するよう計画し、ジョージ・ストッダードを団長とする「米国教育使節団」が来日すると、それに協力するための日本側に「教育家委員会」が組織された。

 使節団の報告書は、日本教育の目的及び内容、国語改革、初等及び中等段階の教育行政、教育活動と教師教育、成人教育、高等教育の六章から成り、全体として日本の過去の教育における問題点を指摘しつつ、これに代わるべき民主的な教育の理念、方法、制度などを提言している。

 その提言を受けたGHQの指示のもとで、日本政府の文部省は、占領下における教育の民主化方針を具体的にまとめた。
1.民主化の理念の下、憲法および「教育基本法(s22)」の制定
2.機会均等の理念の下、6・3・3・4の単線型学校体系の導入(「学制改革」-学校教育法/s22)
3.義務教育の年限延長と無償制度の実施(義務教育は小学6年・中学3年の9年に)
4.教育委員会制度の創設(教育の地方分権)

1.教育基本法

 戦後の民主化された教育は、1947(s22)年3月に施行された「教育基本法」に基づいて行われることとされた。戦前の教育の基本とされた「教育勅語」が、結果的に国家主義・軍国主義に国民を従属させるために用いられたことを反省とし、あらたに制定された「日本国憲法」でうたわれた自由で民主的な国家の理想実現のためには、教育の力によるところが多大であり、それを具現化するためにあらたに「教育基本法」が定められた。

 この民主社会の教育実践のために、この教育基本法のもとに「学校教育法」「社会教育法」「教育委員会法」などが立法され、これらが戦後教育の体制をつくりあげる基本規定となった。

2.学制改革

 戦後の新社会に適した学制に改編することを目的として、戦前の「複線型教育」からあらたに「単線型教育」に改変され、それまで複雑だった学制を「6・3・3・4制」に一本化し、さらに義務教育を小中9年間へ延長することとされた。これは「教育の平等」を実現するものとして定められた。

 義務教育の小中学校に加えて、新制高校に関しては「小学区制・男女共学・総合制」という「高校三原則」が打ち出された。「小学区制」とは、同一地域に住む就学希望者は同一の公立学校に就学する制度である。これは進学生徒の平準化をはかるもので、学校格差を無くそうとする方向で進められた。

 「男女共学」は、それまで男女別々の教育制度だったものを、男女平等の精神の基づいて共学とするもの。そして「総合制」は、大学進学を前提にした旧制高等学校やその他実業学校などが別建てだったものを、新制公立校では普通科と商業科や工業科などを併設することである。

 「男女共学」は言うまでもなく、今ではそれが当たり前のように定着している。「総合性」は、「普通科」の希望者が圧倒的に多く、すべての公立校に職業科を設けることが出来なかったことと、その後の時代変化とともに、同一校に併設する不効率さが目立ち、現在では職業科単独の公立校が設けられるようになっている。

 「小学区制」は、地域の実情を反映していないため反発が多く、また学校選択の自由を奪うという批判も多かった。そして旧制の伝統校へ進学させるため、住所を移して旧制伝統校などに越境入学させるケースなども多発した。そのため小学区制を実現した地域はわずかで、多くは複数の高等学校を含む「大学区制」であった。

 当方の育った京都府では、最も「高校三原則」が徹底された。早くから革新府政が続き、しかも教職員組合の活動が活発であったため、「高校三原則」を支持する勢力が強かった。「男女共学」はそのままで問題なかったが、「総合性」では、普通科に10クラスで職業科が1クラスというような偏った生徒数で、職業科の生徒が肩身の思いをするなどの不都合で、やがて一校だけに職業科がまとめられるようになった。

 その中で小学区制は、どの他府県よりも長く続けられた。「十五の春を泣かせない」というスローガンで高校全入を目指し、学校格差をつけないという平等教育を徹底した。小学区制の下で、府全体での総合選抜で合格した生徒は、住んでいる地域で自動的に割り振られる。

 そのため新入学生徒の学力差は平準化し、旧制からの伝統校も戦後の新設高校も、ほとんど学力格差が見られなくなった。このことの良し悪しは一概には決められないが、問題は公立高校の学力が「平等に、低下した」ことにあった。

 具体的には、全国的にも難易度が高い京都大学の合格者数に、上位には京都の府立高校が登場せず、むしろ大学区制を取っていた大阪府立高校が軒並み上位を占めるというありさまだった。そして自由に選択できる中高一貫性の私立高校が、圧倒的な強みを見せるようになった。

 かくして公立高校の優越性は失われ、その後いくつかの改変が行われたが、かつてのような公立信仰は無くなったといってよい。大都市を抱える他府県でも、同様な傾向はあるだろうが、それが徹底されたのが京都府だといってよいだろう。

3.義務教育

 戦前は、「尋常小学校」を卒業するまでの「義務教育6年」と規定されていた。戦後になると、GHQ占領下で1947(s22)年の学制改革・学校教育法が施行され、新制の小学校6年間・中学校3年間が義務教育期間とされ、6歳から15歳までの「義務教育9年」と定められた。日本国憲法には、「教育を受ける権利」と「(保護者に)教育を受けさせる義務」が明記されている。

4.教育委員会

 「教育委員会」は、「教育基本法」に基づいてに、1948(s23)年7月に公布・施行された「教育委員会法」によって規定された。教育委員会は、都道府県に設置される「都道府県委員会」と「市町村」に設けられる「地方委員会」と大別された。

 当初の教育委員会は、公選で選ばれる「教育委員」で構成され、委員会の代表者である「教育委員長」は教育委員から互選で選ばれた。この「公選制教育委員会」は、「米国教育使節団」の提言をうけたGHQの指示の下で、教育の民主化と政治からの独立を強く意識したものであった。

 しかしこの理想は、いまだ確立していない地方自治や、戦前からの町内会などの地縁を無視したものであり、公選の住民意識は低く、一部の派閥的なつながりで選ばれるなど、うまく機能しなかった。そこで1956(s31)年「地方教育行政法」によって、地方公共団体の首長による「任命制」に変更された。

 教育委員会そのものは、5~7人の教育委員の合議制で運営されるが、これは基本方針のの決定などの決定機関であり、具体的な実務は「事務局」が実行することになる。事務局には「教育長」がおかれ、その下で具体的な実務を執行する。事務局には、地方公共団体からの出向員が派遣され、実務場所も役所内に設けられていることが多い。なお「教育委員長」と「教育長」は権限関係も紛らわしく、2015年の改正地方教育行政組織運営法の施行により、首長の任命による「(新)教育長」に統合された。

 これらの諸改変により、「教育委員会」の独立性は形骸化し、事実上は、地方行政府の一部に近い状態となっており、教育委員会の活動も、住民には分かりにくいものになっている。当初の住民に身近な組織ではなく、政府の教育政策を担う「教育委員会」と、それに対抗する革新系に支持される労働組合である「教職員組合」との、せめぎ合いの下で教育行政が運営されているというのが実態に近い。

5.教職員組合

 日本の民主化政策を推進するGHQは、その一貫とする学校教育の改革政策として、1945(s20)年12月「教員組合の結成」を指令した。各地に教員組合が生まれ、それらの全国組織「全日本教員組合協議会」や「教員組合全国同盟」や「大学専門学校教職員組合協議会」などが結成されたが、1947(s22)年6月奈良県の橿原神宮外苑で、これらを一本化する「日本教職員組合(日教組)」の結成大会が開かれた。

 大会では、「日教組の地位確立」「教育の民主化」「民主主義教育の推進」という3つの綱領が採択された。現在は「全日本教職員組合(全教)」や「全日本教職員連盟(全日教連)」などが分立しているが、ここでは歴史的にもっとも大きな影響を及ぼした「日教組」を中心に解説する。

 GHQの施政下で民生局(GS)が行政全般を担当し、教育も急進的な民主化が進められた。さらに労働組合も推奨され、教職員にも組合が結成された。それらが統合され1947(s22)年には、全国組織として「日本教職員組合(日教組)」が結成された。

 日本教職員組合は、戦後の社会党や共産党の支援の下、かなり過激な政治活動を展開する。しかし急進的なGHQの方針は、日本を取り巻く共産主義国の脅威から、日本を「反共の砦」として強化する、「逆コース」と呼ばれる保守回帰的な政策に転換された。

 その後、朝鮮戦争や日本の主権回復とともに、日本政府は、「日の丸」「君が代」「道徳教育」の導入など、戦前復帰的な教育政策を志向し始めた。戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は1951年1月の中央委員会で、教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」とのスローガンを掲げ、文部省の方針に対立する運動を開始した。

 また、1951年11月第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=「全国教研」の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催し、教育研究のみならず政治的なイデオロギーをも、全国教員にアピールすることになった。

 「教育の国家統制」や「能力主義教育政策」に反対する立場を取り、1950年代から60年代にかけて、ことあるごとに政府(文部省)の方針と対決する姿勢を強めた。この過程で、「教育委員会」は本来の独立性を失い、「文部省」の方針を受け売りするだけで「日教組」のやり玉にあげられた。

 GHQが撤退し日本の主権回復後には、日本政府も独自性を持ち始め、政治・経済・文化の方面では、当初の極端な民主化政策を修正していったが、教育界だけは日本国憲法にもられた民主化・自由化・平和主義・人権などの解釈で、極端な反政府的姿勢を貫きつづけた。その最先端に立ったのが日教組だった。

 日教組の組織率は結成直後には90%近くで、教職員全員加入かと思われるような数値だったので、政府文部省の教育政策はことごとく反対でつぶされるありさまだった。日本経済の復興とともに組織率は50%台まで低下したが、60年代後半から80年代の高度成長時代には緩やかな低下に転じる。

 1987年に、それまで日教組が属していた「総評」が、「日本労働組合総連合会(連合)」発足ために合流したため、共産党支持グループが日教組から離脱して、1991年の日教組の組織率は30%台となった。そのため日教組の発言力も低下し、文部省との力関係は逆転した。

 以下、日教組が国の方針に反対した事案を箇条書きにする。

*1950(s25)年以降 「教育の国家統制」に反対する立場から「国旗掲揚と国歌斉唱」の強制」に反対。
*1956(s31)年 教育委員会の「公選制から任命制」への移行に反対。
*1957(s32)年~1958(s33)年 教員の「勤務評定」を実施することへの反対。
*1961(s36) 日本の「全国統一学力テスト」実施への反対。
*1965(s40)年 「歴史教科書問題」をめぐる裁判(家永教科書裁判)の支援。

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