2023年11月21日火曜日

【GHQ占領と日本】10.GHQの占領政策と、日本の政治の再編成

【GHQ占領と日本】10.GHQの占領政策と、日本の政治の再編成

 終戦時に日本を占領することになった連合国は、日本に軍政をしいて「直轄統治」する方針を示した。これに対して、終戦処理にあたった東久邇宮内閣の重光葵外務大臣は、日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱するとして、マッカーサーGHQ総司令官に強く抗議し、その結果、占領政策は日本政府を通した「間接統治」となった。

 これにより、「GHQ」が「日本政府」に指令を出し、それに基づいて政府は内政を実施する間接統治形式をとった。もちろん、GHQ要員の大半を占める「アメリカ政府」がその背後にあって、GHQに指示を発する。

 事実上アメリカの単独統治となったが、他の戦勝国の意思をも反映するため、各国代表による「極東委員会(FEC)」がワシントンに設置され、その極東委員会の出先機関として「対日理事会」が東京に設置されて、GHQ最高司令官と協議するとされた。

 1945(S20)年10月、GHQは幣原喜重郎内閣に憲法改正を指示した。日本政府側から出された憲法改正案は、旧憲法を一部文言を変えた程度で保守的であるとして、GHQ はこれを拒否し、GHQ独自の改正案を作成した。政府はあらためて憲法改正草案を作成し、帝国議会での審議を経て、1946(s21)年11 月「日本国憲法」として公布、翌年5月3日から施行された。

 新憲法では、民主主義を担保する「国民主権」を前面に打ち出すために、旧憲法での主権者であった天皇の位置づけが最優先事項となった。当初は、天皇を戦争犯罪人として廃位、天皇制を抹消する方針であったが、GHQ細工司令官マッカーサーが直接面談するなどして、日本の占領と日本国民の統治のためには、「天皇制の存続」が有効であると考えた。

 かくして、日本国憲法の第一章で「象徴天皇」と定め、政治には関わらない存在とした。日本国憲法の制定にもとづき、多くの制度が改革された。「国民主権」や「基本的人権」の根幹とするために、選挙制度や政党制が確立され、あらたな民主主義政治が始まった。

 終戦直後に、「東久邇宮内閣」・「幣原喜重郎内閣」と短期の内閣が続くが、これはいわば終戦処理内閣であり、GHQの指揮のもとに緊急の措置を行った。1946(s21)年4月10日、戦後最初の「第22回衆議院議員選挙」が、初めて女性参政権を認めた「男女普通選挙」として実施され、39名の女性議員が誕生した。

 選挙では日本自由党が第一党となり、自由党総裁の鳩山一郎が首相指名を待つが、その直前にGHQから公職追放に指定された。そのため、代わって旧憲法下の貴族院議員であった吉田茂が「第1次吉田内閣」を組閣する。

 第1次吉田内閣は、労働関係や農地改革の法整備などを行うが、吉田自身は長らく外務官僚であり政治基盤が弱く、1947(s22)年4月、「日本国憲法」の下で最初の「第23回総選挙」で、与党日本自由党は「日本社会党」に第一党を奪われた。

 社会党は日本民主党・国民協同党と連立して、最初の革新政権となる片山内閣を誕生させるが、予算審議で行き詰まり1年ももたず瓦解する。引き続き同じ連立で民主党総裁の芦田均が首相に任命され、芦田内閣が誕生するが、昭電疑獄で内閣要職者らが逮捕され、芦田内閣は総辞職に追い込まれた。

 自由党と民主党の一部が合流して「民主自由党」が結成され、それを率いる吉田茂が後継と目されていたが、吉田の保守性を忌避するGHQ民生局(GS)が、民自党幹事長の山崎猛を首班とした民主党・日本社会党・国民協同党との連立内閣の成立を画策した。

 芦田内閣の崩壊原因となった「昭電疑獄」は、日本の「逆コース」を担ったGHQ参謀第2部(G2)が仕掛けたとされ、その後任に超保守主義者「吉田茂」を推していた。それに対して、リベラルな急進政策を推進していたGHQ民生局(GS)が、この「山崎首班工作事件」仕掛けたといわれる。

 この動きを察した吉田は、直接マッカーサーに掛け合いその支持を取り付けたため、一転して山崎への非難が高まりこの工作は失敗する。これにより「第2次吉田内閣」が発足した。占領初期に急進的な民主化政策を推進した民生局(GS)に対して、日本を強化して自立させ、共産主義への防波堤にしようとするGHQ参謀第2部(G2)が発言力を強めていた。

 この時期に「逆コース」が本格的になりG2が優勢になりつつあったが、1950年6月朝鮮戦争が始まると、いよいよ日本の保守化が決定的になる。第2次吉田内閣は野党に不信任案を可決されるが、それを受けた1949(s24)年1月の「第24回衆議院議員総選挙」で民主自由党が大勝し、1949(s24)年2月から1952(s27)年10月にわたる「第3次吉田内閣」が発足した。

 この第3次吉田内閣は、「サンフランシスコ平和条約(単独講和)」の締結で、日本の独立を回復するという敗戦後を画期する出来事を為し遂げた。吉田首相は、GHQの指揮に従いながら、その下で日本の利益を得るという政策を一貫した。

 1951(s26)年9月、講和条約を締結すると、その脚で目立たない陸軍施設に向かい、単独で「日米安保条約」に調印する。これはGHQ撤退にともなう軍事的空白を埋めるために、引き続き米軍の駐留を認めることを主眼とし、日本が米側の駐留などの権利を認めるだけの片務的条約であった。

 とはいえ、はれて独立を得た日本国は、米国の傀儡と言われながらも新たな戦後日本として立ち上がっていく。講和条約直後には内閣支持率60%近くに達し、吉田茂は頂点を極めた。しかし吉田は、周りの勇退の奨めにも関わらず政権を続投した。

 事実上、政治課題を達成してしまった感が強い吉田政権は、組閣解散を繰り返し、弱体化してゆく。1954(s29)年12月に内閣総辞職すると、公職追放から復帰していた鳩山一郎が「第1次鳩山一郎内閣」を組閣する。

 1955(s30)年以降、保守合同で「日本自由民主党」となった与党は、左右合同した「日本社会党」と競い合いながら「55体制」を展開してゆく。一方で、戦後の成長軌道に乗った日本経済は、経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言されて、「高度成長」を展開してゆく。

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