2020年5月31日日曜日

【16C 1591-1600年】

【16th Century Chronicle 1591-1600年】

◎文禄・慶長の役
*1591.10.10/ 秀吉が、肥前名護屋城の築城を九州の大名に命じ、工事が始まる。
*1592.4.13/ 日本軍先鋒の小西行長らが、釜山に上陸する。(「文禄の役」はじまる)
*1592.5.1/ 朝鮮王李昖が首都漢城を放棄して平城に向かい、小西行長・加藤清正らが漢城に入城する。
*1592.6.15/ 小西行長・黒田長政らが、平壌を占領する。
*1592.7.7/ 李舜臣が、脇坂安治らの日本水軍を撃破する。
*1593.1.7/ 小西行長らが平城から撤退する。
*1593.5.15/ 石田三成・小西行長らが、明使を伴って名護屋に帰着する。
*1954.12.13/ 小西行長の使者内藤如安が北京で明帝と会見、修好を約束する。
*1596.9.2/ 秀吉が明国の使節を大坂城内で接待するが、講和の真相を知り、朝鮮再出兵を決める。
*1597.2.21/ 秀吉が、朝鮮へ出陣させる諸将の陣立てを定める。(「慶長の役」はじまる)
*1597.8.13/ 宇喜多秀家が、明軍を全羅道南原城で攻略する。
*1597.9.16/ 朝鮮水軍を率いる李舜臣が、伊予来島領主来島通総を全羅道で打ち破る。
*1597.12.22/ 明国軍が、浅野幸長らの慶尚道蔚山城を攻囲したため、加藤清正が急遽、駆け戻る。
*1598.8.25/ 徳川家康と前田利家が、秀吉の喪を秘して、朝鮮在陣の諸将を召喚させる。撤兵は12月にまでかかる。

<文禄の役>
f:id:naniuji:20190907161650j:plain 日本の政権が朝鮮半島に出兵するのは、663年、唐・新羅連合軍と大和朝廷・百済連合軍が衝突した「白村江の戦い」で、大和・百済側が敗北した時以来、930年ぶりであった。豊臣秀吉が朝鮮に出兵した動機や意図も、諸説あるが確定的なものがなく、功なり遂げた秀吉の、老いによる誇大妄想的な要素も否めない。

f:id:naniuji:20190907160927j:plain 秀吉は大明帝国の平定を究極の目的として、まず朝鮮を帰服させるとともに、明との仲介をするよう強要した。その旨を伝える使者の役割を命じられた対馬守護の宗義調は、その途方もない要求に困惑し、秀吉重臣で舅にあたる小西行長と通じて、朝鮮には単なる通信使を要請し、あたかも服属使節であると偽って朝鮮使節を招いた。


f:id:naniuji:20190907161019j:plain 秀吉は一向に進まない朝鮮の仲介をまたずして、 天正19(1591)年8月、征明遠征の不退転の決意を諸大名に発表した。遠征軍の宿営地として肥前に名護屋城築造を指示し、翌 天正20(1592)年には、征明軍の編成が整った。

 偽って朝鮮交渉を進めた小西行長と宗義智は、その露顕を恐れ、自らが先鋒を務めることを願い出た。そして、文禄元(1592)年4月12日、日本軍の一番隊の宗義智と小西行長が対馬・大浦を出発し釜山に上陸した(文禄の役開始)。


f:id:naniuji:20190907161209j:plain 開戦まもなく釜山を落とすと、上陸からわずか20日で朝鮮の都 漢城(京城)を占拠。漢城から進路を分かち、小西行長は平安道(北朝鮮西部)を平壌まで侵攻し、加藤清正は咸鏡道(北朝鮮東部)を兀良哈(北朝鮮・中国・ロシア国境付近)まで攻め上がった。

 朝鮮国王宣祖は、はやばやと首都漢城を放棄し逃避行を続け、明に援軍を要請した。朝鮮軍の瓦解をみて明軍が参戦すると、日本軍は進撃を平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとした。


 戦線は膠着し、両軍ともに兵糧が尽きはじめると、文禄2(1593)年3月、日本と明は講和交渉を始めた。この講和交渉の場から朝鮮は外され、交渉に口を挟む余地もなく、ただ明にすがるだけだった。

f:id:naniuji:20190907161251j:plain 合意に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使 沈惟敬・朝鮮の二王子とともに釜山まで後退した。5月15日、明勅使は名護屋で秀吉と会見し、6月28日には答礼使として、小西行長の家臣内藤如安を北京へ派遣することとした。


 明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の「降伏」を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌 文禄3(1594)年の12月に北京に到着した。

 交渉を任された小西行長らの偽装により、秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けた。これは日明双方の講和担当者が戦闘は無益と考え、穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたからである。この偽装が露顕したとき秀吉は激怒し、次の「慶長の役」へと繋がることになった。

<慶長の役>
f:id:naniuji:20190910101218j:plain 「関白降表」という偽りの降伏文書を受けて、明は秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5(1596)年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見するも、その実情を知り激怒、朝鮮への再度出兵を決定した。

 慶長2(1597)年、九州・四国・中国勢を中心に総勢14万人を超える軍勢が、対馬海峡を渡り朝鮮半島に上陸した。同年7月、秀吉の陸上軍は、慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。また全羅道沿岸に展開した日本水軍は、李舜臣が率いる朝鮮水軍に悩ませられながらも全羅道沿岸を制覇する。


f:id:naniuji:20190910101257j:plain 明・朝鮮連合軍は漢江を主防衛線に設定したが、漢城(京城)は日本軍の接近でパニックに陥っており、朝臣たちはわれ先に都から避難しつつあった。しかし日本軍は漢城へ進まず、計画通り慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際の城郭群域の外縁部に、新たな城郭群を築いて恒久領土化を目指した。

 築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。慶長2(1597)年12月には、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明・朝鮮連合軍が襲撃し、攻城戦が開始される。籠城戦の日本軍は、未完の蔚山城で食料備蓄も不足して苦戦を強いられるが、毛利秀元等が率いる援軍により、明・朝鮮連合軍を敗走させ勝利した(蔚山城の戦い)。


f:id:naniuji:20190910101406j:plain 大軍で再攻勢を行う計画が発表されていたが、豊臣秀吉は慶長3(1598)年8月18日に死去する。五大老・五奉行により撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。ただし、朝鮮の日本軍には秀吉の死は秘匿されていた。

 明軍は本国から増援されており、9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路(東路軍・中路軍・西路軍)に分かち、蔚山・泗川・順天へ総力を挙げた攻勢に出て、これを受けて日本軍は沿岸部に築いた堅固な守りの城(倭城)で迎え撃った。


f:id:naniuji:20190910101517j:plain 三路の戦い(第2次蔚山城の戦い・泗川城の戦い・順天城の戦い)では、明・朝鮮連合軍は11万を超えて、最大規模の一大攻勢であったが、日本軍の反撃の前にすべて失敗に終わった。

 慶長3(1598)年8月に秀吉が死去して以降、大名間の対立が顕在化し、対外戦争を続ける状況にはなかったため、10月15日、五大老による帰国命令が発令された。朝鮮半島に展開していた諸武将は、明・朝鮮軍の妨害を受けながらも、何とか撤退を進めたが、すべての撤退完了は、同年末に至ったという。


 秀吉の無謀な朝鮮出兵は、何ら得るものもなく、やがて豊臣政権の滅亡につながった。戦場となった朝鮮は、人口は減少し国土も荒廃、両班支配の政権は、効果的な対策も施せず細々と続く。また、朝鮮支援の大軍を動員した明は国力を大幅に消耗し、その後の滅亡へと突き進む。


◎関ヶ原の戦い
*1599.閏3.4/ 石田三成が、加藤清正・福島正則ら7将の襲撃計画を知り、大坂から伏見へ逃れて、家康を頼る。
*1600.3.-/ 上杉景勝が会津に新城を築き始め、景勝が石田三成と通じて挙兵の準備中との密告が家康に届く。
*1600.7.11/ 石田三成が、大谷吉継と近江佐和山城で会見して家康追討策を練り、挙兵の盟主に毛利輝元を選ぶ。
*1600.7.17/ 豊臣氏五奉行が、家康の罪科13ヵ条を挙げて諸大名の挙兵を促す。
*1600.7.17/ 石田三成が、諸大名の妻子を人質として大坂城に移す指示をし、大坂天王寺の細川邸を取り囲まれた細川忠興の妻ガラシャ夫人は、これを拒否して覚悟の死を遂げる。
*1600.7.25/ 三成挙兵の報をうけ、上杉征討中の家康は軍議をひらき、軍団を西へと反転する。
*1600.9.15/ 美濃関が原で東西両軍が激突、一日で東軍勝利で決着が付く。
*1600.10.1/ 石田三成・小西行長らが六条河原で斬首される。

f:id:naniuji:20190912165342j:plain 慶長3(1598)年8月5日、死期の近づいた秀吉は、幼少の秀頼の後見を家康ら五大老に託して、8月18日に息を引き取る。秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は五奉行五大老による集団運営体制へと移行する。しかし五大老筆頭格の徳川家康の力が群を抜いており、結果的にこの不均衡がこの体制を崩壊させてゆく。

 分裂政争の原因は複雑に込み入っており、「中央集権派と地方分権派の対立」や「朝鮮出兵をめぐる文治派と武断派の対立」や「秀次切腹事件への対応での内部対立」さらには「秀吉の遺言遵守をめぐる豊臣奉行衆と家康支持一派との対立」などが挙げられるが、いずれも決定的ではない。


f:id:naniuji:20190912165419j:plain
 徳川家康はその力にもの言わせ、私的な婚姻計画をはじめ、正室北政所に代わっての大坂城西の丸入城、大老奉行の合意を無視した大名への処遇変更など、「太閤様御置目」(秀吉の遺言など事後定め置)に反する独断行為を乱発した。これに対して、太閤置目の遵守を旨とする大老前田利家や豊臣奉行衆が、家康を制御する動きを見せる。

 大老前田利家や豊臣奉行衆による家康追及の動きが起こると、 一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着がついたところで、翌年閏3月には前田利家が死去する。


f:id:naniuji:20190912165452j:plain 豊臣政権内においては、七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立があり、大老の前田利家が調停に努めていたが、その利家の死去によって、両派の対立が表面化する。

 慶長4(1599)年閏3月3日、前田利家の死をきっかけに、加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長の豊臣家子飼いの七将が、五奉行の一人石田三成を襲撃する事件が起こる。襲撃の動機は、慶長の役での蔚山の戦いの事後処理で、七将らに不満があったためとされる(石田三成邸襲撃事件)。


 これは豊臣家臣団内部の反目であり、五大老は直接関与していないとされるが、背景には反徳川派と親徳川派の対立があったともいわれる。襲撃を察知した三成は、かろうじて伏見城西丸の自身の屋敷に逃げ込んだ。結局、家康ら大老と秀吉正室北政所による仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。

  慶長4(1599)年9月7日、家康が秀頼に節句の挨拶で伏見城から大坂城に入城する機を狙っての、家康に対する暗殺計画が密告により発覚した。首謀者は前田利家の嫡男前田利長(加賀金沢城主)であるとされ、家康は「加賀征伐」の号令を発した。金沢の利長はこの加賀征伐の報に接し、重臣を家康の下へ派遣して弁明に努め、父利家正室で利長自身の母芳春院を人質に出す約束を交わす(加賀征伐騒動)。


  この間、家康は生前の秀吉に伏見在城を命じられていたにもかかわらず、北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、城中から大名への加増や転封を実施するなど、事実上、政権を主導するごとく振る舞った。これに表立って抗うものはなく、大老や奉行もほぼ恭順するが如くであった。

 こうした政治的状況下、慶長5(1600)年春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化、景勝が勝手に築城や架橋をしているのは豊臣政権への反逆であるとして、家康は会津征伐を決定する。6月18日に伏見を発った家康は7月1日に江戸に到着し、7月21日に出陣することを決める。


f:id:naniuji:20190912165624j:plain 一方、上方に残った前田玄以・増田長盛・長束正家の豊臣三奉行は、広島の毛利輝元宛に大坂入りを要請する。輝元は7月15日に広島を出発し、同日、島津義弘は上杉景勝に毛利輝元・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継・石田三成および三奉行が秀頼のために決起したことを伝える。

 7月17日豊臣三奉行は、家康が犯した違背を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付、また家康に従った大名の妻子を人質に取ろうとした。人質要求を拒否した細川忠興の妻ガラシャは自刃する。7月19日には輝元が大坂城に入城し、7月29日に三成が伏見に到着する。


 一方、石田三成や大谷吉継が「別心」したとの知らせが家康に届き、7月29日には家康から黒田長政や藤堂高虎に西進の命令が出されている。8月5日家康は小山から江戸に戻り、8月22日には、東軍諸大名は清須周辺に集結する。

f:id:naniuji:20190912165722j:plain こうして対決姿勢が明確になり、石田三成が主導し毛利輝元を総大将に迎えた西軍と、徳川家康率いる東軍は、続々と関ヶ原に終結した。9月14日中に東西に布陣した両軍は、慶長5(1600)年9月15日午前、戦闘を開始、昼過ぎには東軍勝利でほぼ決着がついた。


 9月27日、家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と和睦をかわす。10月1日には、西軍を主導した石田三成らが京六条河原で斬首される。こうして、徳川家康が事実上の政権を掌握するが、秀頼以下豊臣方の勢力も西日本中心に残存し、豊臣氏は、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で大坂城落城によって滅亡する。


(この時期の出来事)
*1591.閏1.8/ イエズス会バリニャーニとともに、天正遣欧使節の4人の少年が帰国し、聚楽第で秀吉に謁見する。
*1591.閏1.-/ 秀吉が、京都の周囲に堤(御土居)を築く。
*1591.2.28/ 千利休(70)が、秀吉の命をうけて葭屋町の屋敷で自害する。
*1591.12.27/ 秀吉が、羽柴秀次に関白の位を譲り、以後、太閤と称する。
*1593.8.3/ 秀吉の側室淀君が、秀頼を出産する。
*1595.7.8/ 秀吉が関白秀次を伏見に呼びよせ、関白・左大臣の位を剥奪し高野山へ追放する。その後、秀次は切腹、子女・妻妾は処刑される。
*1596.1.16/ 秀吉が宇治川に太閤堤を築かせる。
*1596.12.19/ 秀吉が、京・大阪で捕えた宣教師・キリスト教徒を長崎で処刑させる。(26聖人の殉教)
*1598.3.15/ 秀吉が醍醐三宝院で、盛大に観桜の宴を催す。
*1598.8.5/ 死期を悟った秀吉が、長男秀頼を家康ら五大老に託し、8.18に没する(62)。
*1599.1.10/ 豊臣秀頼が、伏見城から大坂城に移る。

2020年5月30日土曜日

【16C 1581-1590年】

【16th Century Chronicle 1581-1590年】

◎豊臣秀吉の政権樹立
*1581.6.25/ 羽柴秀吉が毛利方鳥取城を包囲し、兵糧攻めにする。
*1582.5.7/ 秀吉が、毛利氏の武将清水宗治が守る高松城(岡山)を攻囲し、水攻めにする。
*1582.6.2/ 明智光秀が謀反をおこし、本能寺宿泊中の織田信長(49)を急襲し自刃させる。(本能寺の変)
*1582.6.13/ 秀吉が毛利攻めから急遽とって返し、山崎で明智光秀を破る。
*1582.6.27/ 織田家宿老の羽柴秀吉・柴田勝家らが清州城に集まり、織田家後継を長男信忠の遺子三法師(秀信)に決める。
*1582.10.15/ 秀吉が、京都大徳寺で信長の葬儀を行う。
*1583.4.21/ 秀吉の軍勢が柴田勝家の軍勢を破り、勝家は越前北庄城を包囲され自刃する。(賤ケ岳の戦い)
*1584.4.9/ 徳川家康が、三河侵攻をはかる秀吉勢の三好秀次らを打ち破る。(長久手の戦い)
*1585.3.8/ 秀吉が京都大徳寺で、千利休を茶頭として大茶会を催す。
*1585.7.11/ 秀吉が関白となり、姓を羽柴から藤原に改める。
*1585.8.6/ 秀吉が長宗我部元親を降伏させ、四国を統一する。
*1585.-.-/ 大坂城天守が完成する。
*1586.10.27/ 家康(45)が大坂城で秀吉(50)と会見、臣従を誓う。
*1586.12.19/ 秀吉が太政大臣に任じられ、豊臣の姓を授けられる。
*1587.6.19/ 秀吉がキリシタン禁教令を出し、宣教師に帰国を命じる。
*1587.9.13/ 聚楽第が完成し、秀吉が大坂城から移る。10月には京都北野で空前の大茶会を催す。
*1588.7.8/ 秀吉が諸国の農民に武器の所持を禁じる。(刀狩り令)
*1590.7.11/ 3ヵ月にわたる籠城戦のすえ、北条氏の小田原城が落城し、北条氏政・氏照兄弟は切腹を命じられる。
*1590.7.13/ 秀吉が小田原城に入り、徳川家康に関東8国を与える。まもなく家康は江戸城に移る。

f:id:naniuji:20190901184804j:plain 豊臣秀吉は、天文6(1537)年ごろ、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。木下藤吉郎と名乗り、当初、今川氏配下の松下家に仕え、天文23(1554)年頃からは織田信長に小者として仕え、次第に頭角を現した。

 信長の草履取りの機知から、清洲城の普請奉行、台所奉行などでのそつのない手配、墨俣一夜城建設の逸話などとともに、永禄11(1568)年の近江箕作城攻略戦や、元亀元(1570)年、越前国朝倉義景討伐で浅井と朝倉の挟撃での危機に見事な退却戦(金ヶ崎の退き口)を務めた手際など、戦略面での功績が語られ、「木下藤吉郎」として信長の有力部将となってゆく出世物語が語られる。


f:id:naniuji:20190901184838j:plain そして元亀元(1570)年、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を打ち破った「姉川の戦い」では、奪取した横山城の城代に任じられ、その浅井氏との攻防戦(志賀の陣)や小谷城の戦いで、浅井・朝倉を打ち破る大功をあげた。

 浅井氏滅亡の後、北近江の長浜城主となる。天正3(1575)年、長篠の戦いに従軍し、翌年、北畠具教の旧臣が篭る霧山城を落城させた。天正5(1577)年には、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を命じられるが、作戦をめぐって勝家と意見が食い違い、勝家らが謙信に敗れて(手取川の戦い)、信長から叱責される。


 しかしすぐに、明智光秀らと共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げ(信貴山城の戦い)失点を回復するとともに、重要武将の一人としての地位を確保した。天正5(1577)年10月からは、天下統一を目指す信長の命を受けて、毛利輝元らの中国地方攻略を進め、播磨・但馬・備前・美作などを次々に平定し、鳥取城の兵糧攻め・高松城の水攻めなど歴史に残る攻城戦を実行した。

f:id:naniuji:20190901184927j:plain しかし、天正10(1582)年6月2日、主君織田信長が明智光秀の謀反により、京都本能寺で自害させられる「本能寺の変」が起こった。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま毛利輝元と講和し、京都に軍を返す(中国大返し)。


  天正10(1582)年6月13日、秀吉は「山崎の戦い(天王山の戦い)」において明智光秀を打ち破り、光秀は落ち武者狩りにより討たれた。秀吉はその後、京都における支配権を掌握する。

f:id:naniuji:20190901185007j:plain 天正11(1583)年、対立するようになった柴田勝家軍を近江「賤ヶ岳の戦い」で打ち破り、越前に撤退した勝家は正室お市の方と共に自害する。さらに織田家の実力者たちを次々に葬りさった秀吉は、家臣第一の地位を確立、実質的に信長を継承することになった。


 天正12(1584)年、信長の次男織田信雄は、秀吉に反発し徳川家康と結び、半年にわたる「小牧・長久手の役」が始まる。4月9日の長久手の戦いでは、織田信雄・家康連合軍が、秀吉側軍勢を圧倒したが、秀吉が直接に反攻態勢に出ると、織田信雄は単独で講和を結び、家康も兵を引いて戦役は終わる。

 天正14(1589)年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り太政大臣に就任する。徳川家康に対しては融和策に転じ、婚姻や人質を交わすことで、家康は上洛して秀吉への臣従を誓うが、東国に関しては家康を介しての間接支配を認めた。


f:id:naniuji:20190901185047j:plain 天正15(1587)年、西国も平定した秀吉は、平安京大内裏跡(内野)に「聚楽第」を建設し、翌 天正16(1588)年4月、聚楽第に後陽成天皇を迎え、徳川家康や織田信雄ら有力大名に忠誠を誓わせ、ここに豊臣政権を確立を天下に示した。

 天正19(1591)年、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲るが、やがて側室の淀殿が秀頼を産んだため、秀次を謀反の疑いで切腹させ、幼い秀次を後継に据える。これが秀吉の死とともに、豊臣氏滅亡の禍根を残すことになった。


(この時期の出来事)
*1581.2.28/ 信長が、京都御所門外に正親町天皇の隣席のもと、盛大に「御馬揃」を行う。
*1582.1.28/ 大友・大村・有馬の九州3大名が、少年使節をローマ教皇のもとへ派遣する。(天正遣欧使節)
*1582.3.11/ 武田勝頼(37)が織田軍に攻められ、嫡男信勝とともに自害する。
*1582.6.4/ 堺滞在中だった徳川家康(47)は、本能寺の変の報せに接し、必死の脱出行で居城岡崎にたどり着く。
*1584.6.28/ ポルトガル商船が肥前平戸に来航する。
*1586.-.-/ 彫金師後藤徳乗により、天正大判が鋳造される。

2020年5月29日金曜日

【16C 1571-1580年】

【16th Century Chronicle 1571-1580年】

◎織田信長の全国制覇
*1571.9.12/ 信長が延暦寺を焼き討ちにする。
*1573.7.18/ 将軍義昭が、宇治槙島城で信長に降伏、京を追放される。(室町幕府1573.滅亡)
*1573.8.20/ 織田軍に包囲された越前の朝倉義景が、自刃する。
*1573.8.27/ 織田軍に小谷城を包囲され、近江の浅井久政・長政父子が自害する。
*1573.12.26/ 松永久秀・久通父子が信長に降伏、大和の多聞城を明け渡す。
*1574.9.29/ 伊勢長島の一向一揆が信長に降伏する。
*1575.5.21/ 信長・家康の連合軍が、三河設楽原で武田勝頼を破る。(長篠の戦い)
*1575.8.16/ 信長が越前府中の一向一揆を制圧する。
*1576.2.23/ 織田信長が近江安土に新城を築き、美濃岐阜城から移る。
*1577.6.-/ 信長が、安土城下町を楽市とする。
*1577.11.20/ 織田信長が右大臣に任命される。
*1578.11.6/ 信長の水軍九鬼嘉隆が、大坂湾の木津川河口で毛利水軍を破る。
*1578.11.16/ 摂津高槻城主の高山右近が信長に降伏、信長に服属する。
*1579.5.11/ 信長の安土城天守が完成する。
*1580.閏3.5/ 本願寺顕如と織田信長の和議がなる。(石山合戦終結)

f:id:naniuji:20190827122244j:plain 織田信長は、天文3(1534)年、尾張国で織田信秀の嫡男として誕生、幼名は吉法師。尾張国の守護代織田氏も分裂しており、その分家であった信長の父 信秀は、守護代織田達勝らの支援を得て、尾張国内において勢力を急拡大させていた。

 天文21(1552)年、父信秀が死去し、家督を継ぐと信長と名乗り、織田家間で対立する尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼし、弟の織田信勝を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めた。


 永禄3(1560)年、信長は「桶狭間の戦い」において、駿河の戦国大名今川義元を撃破した。そして、三河の徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8(1565)年、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。

f:id:naniuji:20190827122305j:plain 永禄10(1567)年、信長は「稲葉山城の戦い」で美濃斉藤氏を倒し、尾張・美濃の2ヵ国を領する戦国大名となり、印文「天下布武」の朱印を使用しはじめて、室町幕府再興の意志を示すようになった。


 永禄11(1568)年、足利義昭を奉戴し信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は足利義昭を第15代将軍に擁立し、室町幕府との二重政権(連合政権)を形成した。

f:id:naniuji:20190827122358j:plain しかし、信長が平定を目指した五畿内には敵対勢力も多かった。元亀元(1570)年、徳川家康と連合して、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を「姉川の戦い」で破るが、さらに三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺など窮地に追い込まれる。


 元亀2(1571)年、比叡山を焼き討ちにして延暦寺勢力を駆逐するも、元亀4(1573)年には、「三方ヶ原の戦い」で織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れる。さらに同年、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、こうした武田方の進軍を見て、足利義昭は信長を見限り敵対するようになる。

 そんななかで、同 元亀4(1573)年4月、武田信玄(53)が病死し武田軍は撤退する。武田氏の攻撃停止により信長は態勢を立て直し、7月には山城守護所(宇治槇島城)に立て籠もった足利義昭を破り追放する(足利幕府滅亡)。


f:id:naniuji:20190827122735j:plain 将軍不在で中央政権を担うようになった信長は、元亀から天正への改元を実現させ、その天正元(1573)年に浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼす。天正3(1575)年には、「長篠の戦い」での武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。

 天正8(1580)年、長期にわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示した。さらに天正10(1582)年、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害させて武田氏を滅亡させるなど、東国の大名の多くを従属させた。


f:id:naniuji:20190827122438j:plain 信長は、さらに四国の長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、安芸(広島)の毛利輝元討伐のため中国地方攻略の準備を進めていた。しかし、天正10(1582)年6月2日、全国統一目前にして、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害して果てる(本能寺の変)。享年49。


(この時期の出来事)
*1571.夏/ ポルトガル船が長崎に来航、初めて交易を行う。
*1572.12.22/ 武田信玄が、徳川家康軍を遠江の三方ヶ原で破る。(三方ヶ原の戦い)
*1573.4.12/ 武田信玄(53)没。
*1578.3.13/ 上杉謙信(49)没。

2020年5月28日木曜日

【16C 1561-1570年】

【16th Century Chronicle 1561-1570年】

◎武田信玄・上杉謙信 川中島の戦い
*1561.閏3.16/ 長尾景虎が、上杉憲政から関東管領職と上杉家を受け継ぎ、上杉政虎(謙信)を名乗る。
*1561.9.10/ 上杉謙信と武田信玄が、川中島で戦う。
*1562.11.-/ 武田信玄・北条氏康が、上野・武蔵の上杉謙信の属城を攻略、謙信も関東に出陣する。
*1563.2.4/ 武田信玄・北条氏康が、上杉憲勝の松山城を攻略する。
*1564.3.10/ 将軍義輝が、上杉謙信・北条氏康・武田信玄の和解をはかる。
*1570.10.8/ 家康が、上杉謙信に誓書を送り同盟、武田信玄と断交する。

f:id:naniuji:20190824185727j:plain 「川中島の戦い」は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名「武田信玄(武田晴信)」と越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信(長尾景虎)」との間で、北信濃の支配を巡って数次にわたって戦われた。最大の激戦(第4次の戦い)が、千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称で川中島の戦いと呼ばれる。

f:id:naniuji:20190824185751j:plain 川中島の戦いは、計5回、12年余りに及んだが、実際に「川中島」で戦われたのは、第2次の犀川の戦いと第4次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言えば、永禄4(1561)年の第4次合戦を指す。


f:id:naniuji:20190824185825j:plain 室町期の東国はいち早く戦国期に突入しており、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。武田信玄(晴信)は、諏訪氏や小笠原氏や村上氏を撃破し、信濃に進出する。一方、関東管領上杉氏を引き継いだ上杉謙信(長尾景虎)は、以前から北信濃国人衆とは繋がりがあり、この地が信玄に圧迫を受けると、本格的に介入することになる。

f:id:naniuji:20190824185859j:plain 信濃国北部、千曲川と犀川の合流地点に広がる地は川中島と呼ばれる。当時の川中島は、土壌は肥えて米収穫高が多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝でもあり、戦略上の価値も高かった。


 武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に上野・甲斐があり、南は松本盆地に至る要地であった。この地域には小国人領主や地侍が分立し、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていったが、武田氏が侵攻を始めると武田氏の影響が強まった。

f:id:naniuji:20190824190044j:plain 川中島の戦いの第1次合戦は天文22(1553)年に行われ、上杉謙信が北信濃国人衆を支援し、初めて武田信玄と戦う。景虎は北信濃へ出陣、攻防の上、信玄が塩田城に籠もって決戦を避けたため、謙信も越後国へ引き揚げた。


 第2次合戦は天文24(1555)年に行われ、犀川の戦いとも言う。武田信玄と上杉謙信は犀川を挟んで200日余におよぶ長期にわたり対陣した。両軍は長期の対峙で兵糧の調達に苦しみ、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。

 第3次合戦は弘治3(1557)年で、上野原の戦いとも呼ばれる。武田信玄の北信への勢力伸張に反撃すべく上杉謙信は出陣するが、信玄は決戦を避け決着は付かなかった。このころ京では、将軍足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江へ逃れ、上杉謙信の上洛を熱望しており、中央の情勢が和睦に影響を及ぼしたとされる。


f:id:naniuji:20190824190124j:plain 川中島の戦いの第4次合戦は、永禄4(1561)年に行われ、もっとも大規模な戦いとなった。戦いの具体的経過を示す史料は「甲陽軍鑑」などの軍記物語のみであり、具体的な事実は曖昧である。

 永禄4(1561)年8月15日、上杉謙信は善光寺に着陣し、自らは兵13,000を率いて更に南下、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。武田信玄は、謙信が出陣したという知らせを受け、24日に兵20,000を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。


 膠着状態が続き、武田軍は海津城に入城したのち、9月9日、信玄率いる本隊8,000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。謙信はこの動きを察知すると、夜陰に乗じて千曲川の対岸に渡り、八幡原で西方から武田軍に向き合う。

 10日朝に霧が晴れると、上杉軍は車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかり、動揺した武田軍は鶴翼の陣(鶴が翼を広げた布陣)で応戦したが、急襲を受けて劣勢となった。この乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかけるという有名な場面は、「甲陽軍鑑」の記述に登場するが、史実は不明。


 武田別働隊が八幡原に駆け付けると、武田軍の本隊との間で上杉軍は挟撃される形になり、一転形勢不利となった謙信は善光寺に敗走、信玄も追撃を止めて兵を引いたことで合戦は終わった。

 第5次合戦は、永禄7(1564)年、上杉謙信が川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった。以後も両雄は、各地で戦闘を繰り広げるが、信玄と謙信が直接に合戦をすることはなかった。


(この時期の出来事)
*1562.1.-/ 三河の松平元康(家康)が、清州城の織田信長を訪問し、軍事同盟を結ぶ。
*1562.3.6/ 将軍足利義輝が京都から退避し、三好義継・松永久秀も撤兵したのに代わって、近江の六角義賢が京都に侵入する。
*1563.7.6/ 三河の松平元康が今川氏真と断交し、名を家康と名乗るが、間もなくお膝元で一向一揆が勃発し、戦国大名としての試練に遭遇する。
*1565.5.19/ 将軍足利義輝が、三好義継・松永久秀らに滅ぼされる。
*1565.11.13/ 織田信長が、武田信玄の子勝頼に養女を嫁がせる。
*1566.11.19/ 毛利元就が、出雲富田城の尼子義久を降伏させる。
*1567.5.27/ 織田信長が、娘を徳川家康の長男信康に嫁がせる。
*1567.8.15/ 信長(34)が、斎藤竜興の稲葉山城を攻略し、以後、美濃を拠点に天下統一を目指す。
*1568.9.26/ 信長が、足利義昭を奉じて入京する。まもなく将軍義栄が死去し、義昭が15代将軍となる。
*1568.12.27/ 徳川家康が、今川氏真の掛川城を攻略する。
*1569.4.14/ 信長が、将軍足利義昭の二条御所(現京都御苑内)を造営し、この日、義昭が御所に入る。
*1570.6.28/ 信長・家康連合軍が、浅井長政と朝倉景健を近江の姉川で破る。(姉川の戦い)
*1570.9.12/ 石山本願寺(大阪市)の顕如が、打倒信長の兵を挙げる。(石山本願寺合戦)

2020年5月27日水曜日

【16C 1541-1560年】

【16th Century Chronicle 1541-1560年】

◎種子島(鉄砲)とキリスト教伝来
*1543.8.25/ 種子島にポルトガル人漂着し、鉄砲を伝える。
*1549.7.3/ イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教をはじめる。
*1550.8.-/ イエズス会宣教師ザビエルが、上洛の途中で肥前の平戸で布教する。
*1551.4.-/ ザビエルが山口での布教を許可される。
*1557.-.-/ イエズス会宣教師ルイス・アルメイダが、豊後の府内(大分市)に病院を建設し、西洋外科手術を行う。
*1560.1.-/ 幕府が、イエズス会の宣教師ビエラに京都での布教を許可する。

<鉄砲伝来>
f:id:naniuji:20190820165501j:plain 中国で宋代に生まれた火器は中東や欧州へと広まり、東アジアでは、中国など大陸アジアが火器使用は先行していた。しかし大航海時代が始まると、ヨーロッパで改良された火器が、海域アジアにも伝わるようになってきた。

f:id:naniuji:20190820165548j:plain これは東アジアにおける火器普及の第二波の時期とされ、そのような流れの中でポルトガル人により、日本にも鉄砲がもたらされた。鉄砲の伝来は、戦国時代の日本での戦闘に大きな変化をもたらすことになる。


 資料により若干の異動があるが、「鉄炮記」によると、天文12(1543)年8月25日、大隅国の種子島に一艘の船が漂着した。この船にポルトガルの商人が同乗しており、そのポルトガル人により鉄砲がもたらされた。

f:id:naniuji:20190820165615j:plain 島主 種子島時堯がポルトガル人から買い求めたたった二丁の火縄銃は、刀鍛冶により模造され、またたく間に日本人により製造技術が習得され普及した。遅くとも天文18(1549)年までに、中央の京都にも届いており、天文19(1550)年に京の東山で行われた細川晴元と三好長慶の戦闘で、銃が使われ戦死者が出ている。


<キリスト教の布教>
 一方キリスト教は、天文18(1549)年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、日本布教の第一歩を記したとされる。薩摩領主島津貴久に謁見した後、平戸、山口を経て京都に至り、天皇や将軍への謁見を目指した。

f:id:naniuji:20190820165651j:plain ただ当時、京都は戦乱で疲弊しきっており、天皇の権威は失墜、将軍も家臣に追われて京に不在、ザビエルは目的を果たせなかった。ザビエルは山口に戻り、当地で大内義隆の保護を受け、また府内(大分)では大友宗麟に謁見、日本でのキリスト教布教の基礎を築き、天文20(1551)年にインドに向かった。


 日本人を優秀で理性的な国民であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えてガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見)、ガスパール・コエリョなど、有能なイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。

f:id:naniuji:20190820165738j:plain  宣教師たちはまずその土地の大名などと会見し、南蛮貿易の利益を訴えて布教の許可を得た。すでに種子島(鉄砲)などが伝来して、大名たちは、南蛮人との交易を求めており、その窓口として宣教師たちは歓迎された。


 キリスト教に接した大名たちの中には、すすんで洗礼を受けるものも現われ、キリシタン大名と呼ばれた。キリスト教の教えに純粋に導かれた者以外にも、南蛮貿易をより有利に運ぶためだとか、南蛮の文化や科学技術を移入するという実利から入信したものもあった。

f:id:naniuji:20190820165818j:plain  戦国の世の統一を進めた織田信長は、キリスト教の布教に好意的で、彼らがもたらす南蛮貿易の利益を歓迎した。信長を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教宣教師やキリシタン大名が、仏教など旧来の文化を迫害するなどの弊害に気付き、バテレン追放令を発布しキリスト教宣教の制限を宣言した。


 秀吉は追放令を出したが、南蛮貿易には積極的であり、実質上キリスト教の布教は黙認した。その後、徳川家康によって江戸幕府が成立し、キリスト教禁教令は何度も出されるも徹底せず、完全な禁教と徹底したキリシタン弾圧が行われるようになるのは、3代将軍家光の時代での「鎖国」の完成以後となった。


◎戦国大名の林立
*1541.1.13/ 安芸で毛利元就と陶晴賢が、尼子晴久の軍勢を破る。
*1541.6.14/ 守護武田信虎が、子の武田信玄(晴信/21)により甲斐から追放され、駿河の今川義元(23)の下に身を寄せる。
*1542.7.5/ 武田信玄が、信濃の諏訪頼重を幽閉し、切腹させる。
*1542.8.23/ 斎藤道三が、美濃の守護土岐頼芸の大桑城を攻め、頼芸は尾張へ逃れる。
*1542.-.-/ 甲斐の武田信玄が富士川流域に堤防を築き始める。(信玄堤、1560完成)
*1545.8.16/ 今川義元が、北条氏康と駿河の狐橋で戦う。
*1547.6.4/ 武田信玄が「甲州法度之次第」を制定する。
*1548.12.30/ 長尾景虎(上杉謙信)が、兄の晴景に代わって越後守護代となる。
*1549.11.9/ 三河の今川義元軍が、織田信広の安祥城を攻略、松平竹千代(徳川家康/8)が織田家の人質から今川家に移される。
*1551.9.1/ 大内義隆が、家臣の陶晴賢の謀反により、周防長門の大寧寺で自刃する。
*1552.1.10/ 関東管領上杉憲正が、北条氏康に追われ、越後守護代長尾景虎を頼る。
*1553.8.-/ 武田信玄に敗れた村上義清が、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾両軍が信濃川中島で戦う(第1回川中島の戦い)。1555.7.19には2回目。
*1554.3.-/ 相模の北条氏康、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄が、駿河善徳寺に集まり講和を結ぶ。
*1556.4.20/ 斎藤道三が、長男義竜と美濃の長良川河畔で戦い敗死する。
*1557.11.25/ 毛利元就が、3子に教訓状「三人心持之事」を送り、協力して生き残ることを諭す。
*1559.2.2/ 織田信長が京へ上り、将軍義輝に謁見する。
*1559.4.27/ 越後の長尾景虎が京へ上り、将軍義輝に謁見する。
*1560.5.19/ 織田信長(27)が、田楽狭間で今川軍を急襲し、今川義元を討ち取る。
*1560.5.23/ 今川家に人質になっていた松平元康(徳川家康/19)が、11年ぶりに本国三河の岡崎城に帰り独立する。

f:id:naniuji:20190822150954j:plain 室町将軍から任命され、軍事警察権から経済的権能まで獲得して、一国内に領域的一円的な支配を確立した守護は「守護大名」と呼ばれた。一方、下克上などで実力によって領国支配を確立し、室町幕府など中央権力から独立して、軍事行動や外交および経済的支配を行ったものを「戦国大名」と呼んだ。

 領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に領民間の争いを調停し、大名主導により紛争の解決を行った。そのため、戦国大名のなかには、その基準を明文化した「分国法(戦国法)」を制定するものもあった。

<有力戦国大名>
f:id:naniuji:20190822151042j:plain《北条早雲》 (1456-1519年)
 北条早雲は、室町幕府政所執事の伊勢氏出自と考えられ、伊勢新九郎長氏と名乗り、後に出家してから北条早雲と名乗った。駿河守護今川義忠に仕えるが、後継争いが生じると、今川氏親を支持し後継に就ける。その功で興国寺城(沼津)に所領を与えられる。

 明応2(1493)年、早雲は堀越公方 足利政知の子茶々丸を襲撃し、伊豆を奪った(伊豆討入り)。この時期から、東国では戦国期が始まったとされる。明応4(1495)年9月には、相模小田原の大森藤頼を討ち、小田原城を奪取した。以後、小田原城を拠点に相模を平定し、関東に北条氏の支配を確立して、戦国大名の嚆矢とされる。

f:id:naniuji:20190822151121j:plain《毛利元就》 (1497-1571年)
 毛利元就は、安芸の小規模な国人領主の家督を継ぐと、一代で山陽・山陰10ヵ国を領有する戦国大名の雄にまで成長させた。毛利家の家督を相続した元就は、尼子経久と敵対関係となると、大内義興の傘下に入った。

 天文20(1551)年、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって殺害されると、1554年になって元就は、陶晴賢を討ってその領国を支配する。弘治3(1557)年には、大内氏の内紛を好機として大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。さらには尼子晴久をも破り、中国地方の大半を支配する戦国大名となった。

 弘治3(1557)年に元就は、3人の息子(隆元・元春・隆景)に直筆書状「三子教訓状」を示し、互いに協力して毛利家を維持するよう諭したが、これが後代において、死ぬ間際の元就が3人の息子を枕元に呼び寄せて、三本の矢に例えて結束を強く訴えたという「三矢の訓」逸話となった。

f:id:naniuji:20190822151206j:plain《斎藤道三》 (1494-1556年)
 代々北面武士だったが牢人となっていた松波基宗を父に、京都の近くで生れたとされる。松波庄五郎と名乗り、油問屋の娘を娶とって油商人となると、行商油売りとして評判になったという。

 その後武士を目指した庄五郎は、美濃守護土岐氏守護代の長井長弘家臣となることに成功するも、主家土岐氏の家督争いに介在して、主人長井長弘を殺害して長井家を乗っ取り長井新九郎と名乗る。さらに、天文7(1538)年に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。

 天文11(1542)年、斎藤利政は土岐頼芸と対立し、頼芸の居城大桑城を攻め落とすと、頼芸とその子を尾張へ追放、事実上の美濃国主となった。天文16(1547)年には尾張の織田信秀に攻め込まれるも、織田軍を押し返すと和睦し、信秀の嫡子織田信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせ、織田氏と同盟関係になる。

 天文23(1554)年、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り出家し、斎藤道三と号し隠居した。しかし道三は息子の義龍と不和になり、弘治元(1555)年、義龍は道三に対して挙兵する。その強欲な国盗りから、「美濃の蝮」と綽名された道三に味方するものは少なく、「長良川の戦い」で敗死した。享年63。

f:id:naniuji:20190822151239j:plain《武田信玄》 (1521-1573年)
 甲斐の武田晴信(信玄)は、天文10(1541)年、父信虎を駿河に追放し、武田家の家督を相続する。天文11(1542)年、信濃へ進展し諏訪氏を滅ぼし、さらに小笠原氏や村上氏を破り、信濃国をほぼ平定する。天文16(1547)年には、分国法である「甲州法度之次第(信玄家法)」を定め、領国支配を安定させた。

 天文22(1553)年4月、村上義清が頼ったため、越後の長尾景虎(上杉謙信)が信濃への出兵を開始し、善光寺平の主導権を巡って甲越対決が始まる(第1次川中島の戦い)。晴信は、駿河今川氏や相模北条氏と婚姻関係を通じて、甲駿同盟・甲相同盟を結び甲相駿三国同盟を成立させる。武田信玄と上杉謙信は、以後も都合5度にわたり川中島で戦うが決着はつかなかった。

 永禄2(1559)年、信濃を平定した晴信は、出家し「信玄」と号した。信玄は、越後の上杉謙信のほかにも、領国を接する駿河の今川氏、相模の北条氏、そして尾張の織田信長などと同盟・対立を繰り返す。元亀4(1573)年4月12日、三河に侵攻して甲斐に引き返す途上、喀血し死去する。享年53。

f:id:naniuji:20190822151305j:plain《上杉謙信》 (1530-1578年)
 越後は守護の山内上杉氏の領国であったが、上杉氏が衰えると守護代の長尾為景が支配することになり、子の長尾景虎(上杉謙信)の時に勢力を拡大した。景虎は、内乱続きの越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させる。天文21(1552)年、関東管領上杉憲政を助けて北条氏と争い、永禄4(1561)年には憲政から関東管領の職をゆずられ、上杉を名のることになる。

 1552(天文21)年、武田晴信(信玄)の信濃侵攻によって、追われた信濃守護小笠原長時や、翌年には信濃国葛尾城主村上義清が、景虎に助けを求めた。援軍として信濃国に出陣した上杉景虎(謙信)は、ついに信濃の川中島で武田晴信(信玄)と戦をかまえる。以後、川中島では信玄と5度にわたって戦った。

 永禄2(1559)年、足利将軍家から要請を受け上洛、正親町天皇や将軍足利義輝に拝謁する。他国から救援を要請されると幾度となく出兵し、武田信玄の他にも、北条氏康、織田信長、越中一向一揆らと合戦を繰り広げた。

 上洛を目指し、北陸路を西進し越中・能登・加賀へ勢力を拡大した後、天正5(1577)年12月、一旦越後春日山城に戻り、次の遠征の準備中に脳溢血で倒れて死去。享年48歳。


(この時期の出来事)
*1542.3.28/ 将軍足利義晴が、近江坂本から帰京する。
*1546.12.20/ 足利義輝(義藤/11)が、父義晴から譲位され13代将軍となる。
*1548.10.28/ 三好長慶が細川晴元にそむき、家臣三好氏の内紛に、細川一族も分裂する。
*1549.6.28/ 江口の戦いで三好長慶に敗れた細川晴元が、将軍義輝と前将軍義晴を奉じ、近江坂本へ脱出する。
*1552.1.28/ 将軍足利義輝(義藤)が三好長慶と和解、近江から京都に帰る。

2020年5月26日火曜日

【16C 1521-1540年】

【16th Century Chronicle 1521-1540年】

◎下克上と戦国の世
*1521.3.7/ 将軍足利義稙(義伊)が、管領細川高国の専横に憤り和泉に走る。
*1521.7.6/ 前将軍義澄の子亀王丸が、播磨守護代浦上村宗に奉じられて入京、12代将軍足利義晴(11)となる。
*1521.9.17/  浦上村宗が、主君の守護赤松義村を播磨室津に幽閉し、自刃に追込む。
*1521.11.23/ 駿河守護今川氏親の軍が、甲斐の上条で竹田信虎(27)の軍と戦い敗れる。
*1522.3.-/ 大内義興が、尼子経久の安芸の属城を攻略する。
*1523.閏3.-/ 近江の浅井亮政が、主君の京極高清を尾張に追う。
*1523.4.-/ 大内義興と細川高国が、それぞれ明へ使者を派遣するが、両使が中国の寧波で争う(寧波の乱)。
*1527.2.14/ 将軍足利義稙と細川高国は、三好元長らに京都を追われ、近江の坂本へ脱出する。
*1528.5.28/ 将軍義稙と細川高国は、前将軍義澄の子義維を奉じる三好元長と和睦をはかるが講和ならず、京都を脱出する。
*1530.1.13/ 美濃の守護 土岐頼芸の執権長井長弘が、西村勘九郎(斎藤道三)に殺される。
*1531.2.21/ 三好元長が堺に出陣し、細川晴元を支援、細川高国は破れて捕らえられ、自害する。
*1535.12.5/ 織田信秀との戦いで守山(名古屋)に出陣中の三河の松平清康が、家臣に殺害される(守山崩れ)。
*1537.2.10/ 駿河の今川義元が甲斐の武田信虎と、甲駿同盟を結ぶ。
*1538.10.7/ 北条氏網が、小弓御所 足利義明と里見義尭を下総の国府台で破る。

 下克上とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさすが、こうした傾向は室町期に顕著となり、戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともなった。

f:id:naniuji:20190818130308j:plain 元来、武士団とは主人と家来が強い結びつきで結成された集団とされてきたが、中世の武家社会においては、主君と家臣団は相互に依存協力しあう運命共同体であり、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなかったと考えられる。
 

 とりわけ室町幕府は、有力大名の力のバランスの上に足利将軍が担がれたというところがあり、将軍の権威は、鎌倉時代のそれより弱かった。それは、各守護大名においても同様であり、家臣団の意向が反映される傾向が強かった。

f:id:naniuji:20190818130411j:plain 一般に「下克上」といえば、家臣が主君を倒して、主君に成り代わるということになるが、このような典型例はむしろ少なく、家臣の有力者の衆議で、問題のある主君を退かせ、一族の有能な人物を新たな主君とするというような、「主君押込」に近い無難な交代も多くみられる。


 いずれにせよ、室町幕府の末期から戦国と呼ばれる時代には、何らかの形で、主家が代わってしまった大名が多くを占め、力による交代が基本となったのは確かである。そういう形で、中央政府に任命される守護ではなく、自力で支配権を確立した「戦国大名」が増えて行った。

 かくして、室町時代の守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代に近世大名として存続しえたのは、上杉家・結城家・京極家・和泉細川家・小笠原家・島津家・佐竹家・宗家の8家に過ぎなかった。


 とはいえ、戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議を汲み取っており、戦国期の大名領国制は、戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立していたと考えられる。

 中央政界においては、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義稙(義材)の廃立(明応の政変)、三好長逸らによる将軍足利義輝の殺害(永禄の変)といった例があり、将軍の位すら危機にさらされていた。


 戦国時代の始まりと終わりには緒論があり明確に規定できないが、1493年の「明応の政変」に始まり、1573年の信長による将軍足利義昭追放までと、仮に措定しておく。

f:id:naniuji:20190818130931j:plain 応仁の乱では、京都を中心に東軍西軍に分かれて戦われたが、守護大名が京に上って戦っている間に、領国の守護代や家臣が国を奪う事が頻発した。また、東軍の細川勝元や西軍の山名宗全が、自軍方の諸大名が領国で領地争いするのを放置したため、戦乱は各地に広がっていった。


f:id:naniuji:20190818130526j:plain 畿内中央での戦乱が広がりをみせ、全国各地での実力者同士の利害衝突による戦いが、永続的に展開されるようになった。このような地方での継続的な戦闘を可能にした背景には、貨幣経済の浸透と充実による地域経済の発達があった。

 社会構造の急速な変化は、従前の荘園公領制を形骸化させて、モザイク状に細分分布していた荘園にかわって、「惣村」と呼ばれる拡大された新興の自治共同体が、自生発展を続け、武家領主たちの統治単位も、旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの惣村へと移行していった。


f:id:naniuji:20190818130500j:plain 1493年4月に管領細川政元による将軍廃立を図った権力簒奪が成功して、幕府の実権が細川氏に移る事件が発生する(明応の政変)と、これ以降、将軍の権威は形骸化し、中央政権としての幕府の力は失われ、幕府の直接的な影響力は概ね山城国一国に留まるのみとなってしまう。

 地方豪族は自ら力を蓄えるか、力ある存在に身を寄せるようになり、地方の戦国大名が強大化していった。北条早雲や斎藤道三親子など、旧来の守護大名の出自でない戦国大名も各地に登場し、相互に支配地域を争う戦国の世が展開されていった。


(この時期の出来事)
*1526.4.14/ 駿河の守護今川氏親が、家法「今川仮名目録」を定める。(分国法のはじめ)
*1526.-.-/ 御伽草子「松姫物語」が完成する。
*1531.閏5.9/ 加賀一向一揆が分裂し、抗争がはじまる。(享禄の錯乱)
*1536.7.27/ 延暦寺宗徒が、日蓮宗寺院を焼く。(天文法華の乱)

2020年5月25日月曜日

【16C 1501-1520年】

【16th Century Chronicle 1501-1520年】

◎室町幕府の衰退と足利将軍の権威失墜
*1504.9.4/ 摂津守護代 薬師寺元一が、管領 細川政元を廃しようとして、淀城で兵を挙げるも鎮圧される。
*1507.6.23/ 管領細川政元が、養子澄之や香西元長・薬師寺長忠らによって殺害される。(永正の錯乱)
*1507.8.2/ 細川澄之が入京し、細川政元の家督を継ぐ。
*1508.4.16/ 11代将軍足利義澄は、前将軍足利義稙(義伊)が京に迫るとの報を聞き、近江へ脱出する。
*1508.6.8/ 大内義興に擁された足利義稙が入京し、将軍に復帰する。
*1511.8.14/ 前将軍義澄(32)没。
*1513.2.14/ 将軍義稙が、義澄の遺子義晴と和睦する。
*1520.3.27/ 細川澄元の武将三好之長が入京する。

f:id:naniuji:20190815153121j:plain くじ引で決められた第6代将軍足利義教であるが、強権的な政権運営で幕府の支配力を強化した。しかし「万人恐怖」と評された過酷な政治は、それに怯えた赤松満祐により暗殺される(嘉吉の乱)。将軍職はその子義勝が継ぐが、ほどなく早世し、弟足利義政が第8代将軍となる。

 義政は当初、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)にも積極的に介入し、将軍親裁権の強化を図ろうとした。しかしやがて、思うに任せない政務運営に次第に意欲を失い、趣味世界に没頭してゆく。


f:id:naniuji:20190815153147j:plain 弟の義視を養子とし後継にするつもりだったが、正室日野富子に実子義尚が生れると、富子の意向に押されて義尚に家督を継がせる方に流れていった。義視派と義尚派に分かれての将軍後継問題は、優柔不断な義政の下で混迷を深めた。

 管領畠山家の内紛と、将軍家の後継争いは、やがて細川勝元の東軍と山名宗全の西軍に分かれての応仁の乱へと流れ込んでゆく。応仁の乱の進行とともに、事態の収拾能力のない義政の前で、将軍の権威はまったく失墜していった。


 応仁の乱で、立場の不利を察知した義視が西軍に走ると、義政は東軍寄りの立場を示すようになり、文明5(1473)年、義政は将軍職を義尚に譲り9代将軍とする。義尚は9歳だったため、政務の実質は義政・富子夫妻と富子の兄である日野勝光が中心となって行った。

 義尚が政務を担う歳になっても、義政らは実権を手放さず、父子間には確執が生じた。文明14(1482)年になってやっと義政は、政務を義尚に譲る意思を表明するが、確執は収まらなかった。


 義尚は将軍権力の確立に努め、積極的にもめ事に介入し、長享1(1487)年には、近江守護の六角高頼を討伐のため、約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。しかし高頼はゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされ(鈎の陣)、結局、鈎の陣中で病死する(25歳)。

 義尚には継嗣が無く、延徳2(1490)年に義政が死去すると、従弟(義視の子)である足利義稙(義材/義伊)が、10代将軍に就任した。しかし将軍義稙は、強力な後ろ盾であった父 義視が延徳3(1491)年に死去すると、前管領畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。


f:id:naniuji:20190815153826j:plain 明応2(1493)年、義稙は、畠山政長の対抗者畠山義就が死去したのに乗じて、義就派一掃を企図し、後継の義豊討伐のため、畠山政長らを率いて河内国に赴いた。しかし義稙が京都を留守にしている間に、京都の細川政元・日野富子らは、義政の異母兄である堀越公方 足利政知の子 足利義澄(清晃)を11代将軍に擁立して、義稙を廃するクーデターを起こした(明応の政変)。

 管領細川政元は、河内国に派兵し足利義稙と畠山政長を打ち破り、政長は自害し、義稙は龍安寺に幽閉された。細川勝元の子で現管領 細川政元が幕政を掌握し、「京兆専制」と呼ばれる事実上の細川政権を樹立し、幕府は安定するかと思われた。


 細川政元は修験道に没頭していて、女人禁制に従って女性を近づけることなく、独身を通したため子供が無く、3人の養子をとっていた。するとその養子の間で跡目争いが生じ、永正4(1507)それに巻き込まれ政元が謀殺され、細川家は分裂状態に陥る(永正の錯乱)。

f:id:naniuji:20190815153854j:plain  細川家の分裂状態を好機とみて、義稙は将軍への復帰を目指し、大内氏や細川家の後継候補の細川高国らの勢力に支えられ上洛すると、将軍義澄を追放、将軍職に復帰する。その後も、12代義晴・13代義輝・14代義栄・15代義昭と足利将軍は続くが、有力大名の意向で将軍職が左右されるなど、将軍の権威はほとんど失われていた。天正2(1573)年、足利義昭が織田信長に京都を追放されると、事実上、室町幕府の幕は閉じられる。


(この時期の出来事)
*1503.4.7/ 応仁の乱で焼失した真如堂が、故義政の発願で再建されていたが、その棟上げが行われる。
*1505.7.18/ 京都で爆発的な流行を見せる風流踊りに、幕府は禁止令を出す。