2020年5月28日木曜日

【16C 1561-1570年】

【16th Century Chronicle 1561-1570年】

◎武田信玄・上杉謙信 川中島の戦い
*1561.閏3.16/ 長尾景虎が、上杉憲政から関東管領職と上杉家を受け継ぎ、上杉政虎(謙信)を名乗る。
*1561.9.10/ 上杉謙信と武田信玄が、川中島で戦う。
*1562.11.-/ 武田信玄・北条氏康が、上野・武蔵の上杉謙信の属城を攻略、謙信も関東に出陣する。
*1563.2.4/ 武田信玄・北条氏康が、上杉憲勝の松山城を攻略する。
*1564.3.10/ 将軍義輝が、上杉謙信・北条氏康・武田信玄の和解をはかる。
*1570.10.8/ 家康が、上杉謙信に誓書を送り同盟、武田信玄と断交する。

f:id:naniuji:20190824185727j:plain 「川中島の戦い」は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名「武田信玄(武田晴信)」と越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信(長尾景虎)」との間で、北信濃の支配を巡って数次にわたって戦われた。最大の激戦(第4次の戦い)が、千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称で川中島の戦いと呼ばれる。

f:id:naniuji:20190824185751j:plain 川中島の戦いは、計5回、12年余りに及んだが、実際に「川中島」で戦われたのは、第2次の犀川の戦いと第4次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言えば、永禄4(1561)年の第4次合戦を指す。


f:id:naniuji:20190824185825j:plain 室町期の東国はいち早く戦国期に突入しており、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。武田信玄(晴信)は、諏訪氏や小笠原氏や村上氏を撃破し、信濃に進出する。一方、関東管領上杉氏を引き継いだ上杉謙信(長尾景虎)は、以前から北信濃国人衆とは繋がりがあり、この地が信玄に圧迫を受けると、本格的に介入することになる。

f:id:naniuji:20190824185859j:plain 信濃国北部、千曲川と犀川の合流地点に広がる地は川中島と呼ばれる。当時の川中島は、土壌は肥えて米収穫高が多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝でもあり、戦略上の価値も高かった。


 武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に上野・甲斐があり、南は松本盆地に至る要地であった。この地域には小国人領主や地侍が分立し、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていったが、武田氏が侵攻を始めると武田氏の影響が強まった。

f:id:naniuji:20190824190044j:plain 川中島の戦いの第1次合戦は天文22(1553)年に行われ、上杉謙信が北信濃国人衆を支援し、初めて武田信玄と戦う。景虎は北信濃へ出陣、攻防の上、信玄が塩田城に籠もって決戦を避けたため、謙信も越後国へ引き揚げた。


 第2次合戦は天文24(1555)年に行われ、犀川の戦いとも言う。武田信玄と上杉謙信は犀川を挟んで200日余におよぶ長期にわたり対陣した。両軍は長期の対峙で兵糧の調達に苦しみ、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。

 第3次合戦は弘治3(1557)年で、上野原の戦いとも呼ばれる。武田信玄の北信への勢力伸張に反撃すべく上杉謙信は出陣するが、信玄は決戦を避け決着は付かなかった。このころ京では、将軍足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江へ逃れ、上杉謙信の上洛を熱望しており、中央の情勢が和睦に影響を及ぼしたとされる。


f:id:naniuji:20190824190124j:plain 川中島の戦いの第4次合戦は、永禄4(1561)年に行われ、もっとも大規模な戦いとなった。戦いの具体的経過を示す史料は「甲陽軍鑑」などの軍記物語のみであり、具体的な事実は曖昧である。

 永禄4(1561)年8月15日、上杉謙信は善光寺に着陣し、自らは兵13,000を率いて更に南下、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。武田信玄は、謙信が出陣したという知らせを受け、24日に兵20,000を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。


 膠着状態が続き、武田軍は海津城に入城したのち、9月9日、信玄率いる本隊8,000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。謙信はこの動きを察知すると、夜陰に乗じて千曲川の対岸に渡り、八幡原で西方から武田軍に向き合う。

 10日朝に霧が晴れると、上杉軍は車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかり、動揺した武田軍は鶴翼の陣(鶴が翼を広げた布陣)で応戦したが、急襲を受けて劣勢となった。この乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかけるという有名な場面は、「甲陽軍鑑」の記述に登場するが、史実は不明。


 武田別働隊が八幡原に駆け付けると、武田軍の本隊との間で上杉軍は挟撃される形になり、一転形勢不利となった謙信は善光寺に敗走、信玄も追撃を止めて兵を引いたことで合戦は終わった。

 第5次合戦は、永禄7(1564)年、上杉謙信が川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった。以後も両雄は、各地で戦闘を繰り広げるが、信玄と謙信が直接に合戦をすることはなかった。


(この時期の出来事)
*1562.1.-/ 三河の松平元康(家康)が、清州城の織田信長を訪問し、軍事同盟を結ぶ。
*1562.3.6/ 将軍足利義輝が京都から退避し、三好義継・松永久秀も撤兵したのに代わって、近江の六角義賢が京都に侵入する。
*1563.7.6/ 三河の松平元康が今川氏真と断交し、名を家康と名乗るが、間もなくお膝元で一向一揆が勃発し、戦国大名としての試練に遭遇する。
*1565.5.19/ 将軍足利義輝が、三好義継・松永久秀らに滅ぼされる。
*1565.11.13/ 織田信長が、武田信玄の子勝頼に養女を嫁がせる。
*1566.11.19/ 毛利元就が、出雲富田城の尼子義久を降伏させる。
*1567.5.27/ 織田信長が、娘を徳川家康の長男信康に嫁がせる。
*1567.8.15/ 信長(34)が、斎藤竜興の稲葉山城を攻略し、以後、美濃を拠点に天下統一を目指す。
*1568.9.26/ 信長が、足利義昭を奉じて入京する。まもなく将軍義栄が死去し、義昭が15代将軍となる。
*1568.12.27/ 徳川家康が、今川氏真の掛川城を攻略する。
*1569.4.14/ 信長が、将軍足利義昭の二条御所(現京都御苑内)を造営し、この日、義昭が御所に入る。
*1570.6.28/ 信長・家康連合軍が、浅井長政と朝倉景健を近江の姉川で破る。(姉川の戦い)
*1570.9.12/ 石山本願寺(大阪市)の顕如が、打倒信長の兵を挙げる。(石山本願寺合戦)

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