◎織田信長の全国制覇
*1571.9.12/ 信長が延暦寺を焼き討ちにする。
*1573.7.18/ 将軍義昭が、宇治槙島城で信長に降伏、京を追放される。(室町幕府1573.滅亡)
*1573.8.20/ 織田軍に包囲された越前の朝倉義景が、自刃する。
*1573.8.27/ 織田軍に小谷城を包囲され、近江の浅井久政・長政父子が自害する。
*1573.12.26/ 松永久秀・久通父子が信長に降伏、大和の多聞城を明け渡す。
*1574.9.29/ 伊勢長島の一向一揆が信長に降伏する。
*1575.5.21/ 信長・家康の連合軍が、三河設楽原で武田勝頼を破る。(長篠の戦い)
*1575.8.16/ 信長が越前府中の一向一揆を制圧する。
*1576.2.23/ 織田信長が近江安土に新城を築き、美濃岐阜城から移る。
*1577.6.-/ 信長が、安土城下町を楽市とする。
*1577.11.20/ 織田信長が右大臣に任命される。
*1578.11.6/ 信長の水軍九鬼嘉隆が、大坂湾の木津川河口で毛利水軍を破る。
*1578.11.16/ 摂津高槻城主の高山右近が信長に降伏、信長に服属する。
*1579.5.11/ 信長の安土城天守が完成する。
*1580.閏3.5/ 本願寺顕如と織田信長の和議がなる。(石山合戦終結)
織田信長は、天文3(1534)年、尾張国で織田信秀の嫡男として誕生、幼名は吉法師。尾張国の守護代織田氏も分裂しており、その分家であった信長の父 信秀は、守護代織田達勝らの支援を得て、尾張国内において勢力を急拡大させていた。
天文21(1552)年、父信秀が死去し、家督を継ぐと信長と名乗り、織田家間で対立する尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼし、弟の織田信勝を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めた。
永禄3(1560)年、信長は「桶狭間の戦い」において、駿河の戦国大名今川義元を撃破した。そして、三河の徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8(1565)年、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。
永禄11(1568)年、足利義昭を奉戴し信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は足利義昭を第15代将軍に擁立し、室町幕府との二重政権(連合政権)を形成した。
しかし、信長が平定を目指した五畿内には敵対勢力も多かった。元亀元(1570)年、徳川家康と連合して、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を「姉川の戦い」で破るが、さらに三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺など窮地に追い込まれる。
元亀2(1571)年、比叡山を焼き討ちにして延暦寺勢力を駆逐するも、元亀4(1573)年には、「三方ヶ原の戦い」で織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れる。さらに同年、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、こうした武田方の進軍を見て、足利義昭は信長を見限り敵対するようになる。
そんななかで、同 元亀4(1573)年4月、武田信玄(53)が病死し武田軍は撤退する。武田氏の攻撃停止により信長は態勢を立て直し、7月には山城守護所(宇治槇島城)に立て籠もった足利義昭を破り追放する(足利幕府滅亡)。
将軍不在で中央政権を担うようになった信長は、元亀から天正への改元を実現させ、その天正元(1573)年に浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼす。天正3(1575)年には、「長篠の戦い」での武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。
天正8(1580)年、長期にわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示した。さらに天正10(1582)年、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害させて武田氏を滅亡させるなど、東国の大名の多くを従属させた。
信長は、さらに四国の長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、安芸(広島)の毛利輝元討伐のため中国地方攻略の準備を進めていた。しかし、天正10(1582)年6月2日、全国統一目前にして、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害して果てる(本能寺の変)。享年49。
(この時期の出来事)
*1571.夏/ ポルトガル船が長崎に来航、初めて交易を行う。
*1572.12.22/ 武田信玄が、徳川家康軍を遠江の三方ヶ原で破る。(三方ヶ原の戦い)
*1573.4.12/ 武田信玄(53)没。
*1578.3.13/ 上杉謙信(49)没。
*1578.3.13/ 上杉謙信(49)没。
0 件のコメント:
コメントを投稿