2020年5月30日土曜日

【16C 1581-1590年】

【16th Century Chronicle 1581-1590年】

◎豊臣秀吉の政権樹立
*1581.6.25/ 羽柴秀吉が毛利方鳥取城を包囲し、兵糧攻めにする。
*1582.5.7/ 秀吉が、毛利氏の武将清水宗治が守る高松城(岡山)を攻囲し、水攻めにする。
*1582.6.2/ 明智光秀が謀反をおこし、本能寺宿泊中の織田信長(49)を急襲し自刃させる。(本能寺の変)
*1582.6.13/ 秀吉が毛利攻めから急遽とって返し、山崎で明智光秀を破る。
*1582.6.27/ 織田家宿老の羽柴秀吉・柴田勝家らが清州城に集まり、織田家後継を長男信忠の遺子三法師(秀信)に決める。
*1582.10.15/ 秀吉が、京都大徳寺で信長の葬儀を行う。
*1583.4.21/ 秀吉の軍勢が柴田勝家の軍勢を破り、勝家は越前北庄城を包囲され自刃する。(賤ケ岳の戦い)
*1584.4.9/ 徳川家康が、三河侵攻をはかる秀吉勢の三好秀次らを打ち破る。(長久手の戦い)
*1585.3.8/ 秀吉が京都大徳寺で、千利休を茶頭として大茶会を催す。
*1585.7.11/ 秀吉が関白となり、姓を羽柴から藤原に改める。
*1585.8.6/ 秀吉が長宗我部元親を降伏させ、四国を統一する。
*1585.-.-/ 大坂城天守が完成する。
*1586.10.27/ 家康(45)が大坂城で秀吉(50)と会見、臣従を誓う。
*1586.12.19/ 秀吉が太政大臣に任じられ、豊臣の姓を授けられる。
*1587.6.19/ 秀吉がキリシタン禁教令を出し、宣教師に帰国を命じる。
*1587.9.13/ 聚楽第が完成し、秀吉が大坂城から移る。10月には京都北野で空前の大茶会を催す。
*1588.7.8/ 秀吉が諸国の農民に武器の所持を禁じる。(刀狩り令)
*1590.7.11/ 3ヵ月にわたる籠城戦のすえ、北条氏の小田原城が落城し、北条氏政・氏照兄弟は切腹を命じられる。
*1590.7.13/ 秀吉が小田原城に入り、徳川家康に関東8国を与える。まもなく家康は江戸城に移る。

f:id:naniuji:20190901184804j:plain 豊臣秀吉は、天文6(1537)年ごろ、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。木下藤吉郎と名乗り、当初、今川氏配下の松下家に仕え、天文23(1554)年頃からは織田信長に小者として仕え、次第に頭角を現した。

 信長の草履取りの機知から、清洲城の普請奉行、台所奉行などでのそつのない手配、墨俣一夜城建設の逸話などとともに、永禄11(1568)年の近江箕作城攻略戦や、元亀元(1570)年、越前国朝倉義景討伐で浅井と朝倉の挟撃での危機に見事な退却戦(金ヶ崎の退き口)を務めた手際など、戦略面での功績が語られ、「木下藤吉郎」として信長の有力部将となってゆく出世物語が語られる。


f:id:naniuji:20190901184838j:plain そして元亀元(1570)年、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を打ち破った「姉川の戦い」では、奪取した横山城の城代に任じられ、その浅井氏との攻防戦(志賀の陣)や小谷城の戦いで、浅井・朝倉を打ち破る大功をあげた。

 浅井氏滅亡の後、北近江の長浜城主となる。天正3(1575)年、長篠の戦いに従軍し、翌年、北畠具教の旧臣が篭る霧山城を落城させた。天正5(1577)年には、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を命じられるが、作戦をめぐって勝家と意見が食い違い、勝家らが謙信に敗れて(手取川の戦い)、信長から叱責される。


 しかしすぐに、明智光秀らと共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げ(信貴山城の戦い)失点を回復するとともに、重要武将の一人としての地位を確保した。天正5(1577)年10月からは、天下統一を目指す信長の命を受けて、毛利輝元らの中国地方攻略を進め、播磨・但馬・備前・美作などを次々に平定し、鳥取城の兵糧攻め・高松城の水攻めなど歴史に残る攻城戦を実行した。

f:id:naniuji:20190901184927j:plain しかし、天正10(1582)年6月2日、主君織田信長が明智光秀の謀反により、京都本能寺で自害させられる「本能寺の変」が起こった。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま毛利輝元と講和し、京都に軍を返す(中国大返し)。


  天正10(1582)年6月13日、秀吉は「山崎の戦い(天王山の戦い)」において明智光秀を打ち破り、光秀は落ち武者狩りにより討たれた。秀吉はその後、京都における支配権を掌握する。

f:id:naniuji:20190901185007j:plain 天正11(1583)年、対立するようになった柴田勝家軍を近江「賤ヶ岳の戦い」で打ち破り、越前に撤退した勝家は正室お市の方と共に自害する。さらに織田家の実力者たちを次々に葬りさった秀吉は、家臣第一の地位を確立、実質的に信長を継承することになった。


 天正12(1584)年、信長の次男織田信雄は、秀吉に反発し徳川家康と結び、半年にわたる「小牧・長久手の役」が始まる。4月9日の長久手の戦いでは、織田信雄・家康連合軍が、秀吉側軍勢を圧倒したが、秀吉が直接に反攻態勢に出ると、織田信雄は単独で講和を結び、家康も兵を引いて戦役は終わる。

 天正14(1589)年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り太政大臣に就任する。徳川家康に対しては融和策に転じ、婚姻や人質を交わすことで、家康は上洛して秀吉への臣従を誓うが、東国に関しては家康を介しての間接支配を認めた。


f:id:naniuji:20190901185047j:plain 天正15(1587)年、西国も平定した秀吉は、平安京大内裏跡(内野)に「聚楽第」を建設し、翌 天正16(1588)年4月、聚楽第に後陽成天皇を迎え、徳川家康や織田信雄ら有力大名に忠誠を誓わせ、ここに豊臣政権を確立を天下に示した。

 天正19(1591)年、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲るが、やがて側室の淀殿が秀頼を産んだため、秀次を謀反の疑いで切腹させ、幼い秀次を後継に据える。これが秀吉の死とともに、豊臣氏滅亡の禍根を残すことになった。


(この時期の出来事)
*1581.2.28/ 信長が、京都御所門外に正親町天皇の隣席のもと、盛大に「御馬揃」を行う。
*1582.1.28/ 大友・大村・有馬の九州3大名が、少年使節をローマ教皇のもとへ派遣する。(天正遣欧使節)
*1582.3.11/ 武田勝頼(37)が織田軍に攻められ、嫡男信勝とともに自害する。
*1582.6.4/ 堺滞在中だった徳川家康(47)は、本能寺の変の報せに接し、必死の脱出行で居城岡崎にたどり着く。
*1584.6.28/ ポルトガル商船が肥前平戸に来航する。
*1586.-.-/ 彫金師後藤徳乗により、天正大判が鋳造される。

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