2020年5月27日水曜日

【16C 1541-1560年】

【16th Century Chronicle 1541-1560年】

◎種子島(鉄砲)とキリスト教伝来
*1543.8.25/ 種子島にポルトガル人漂着し、鉄砲を伝える。
*1549.7.3/ イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教をはじめる。
*1550.8.-/ イエズス会宣教師ザビエルが、上洛の途中で肥前の平戸で布教する。
*1551.4.-/ ザビエルが山口での布教を許可される。
*1557.-.-/ イエズス会宣教師ルイス・アルメイダが、豊後の府内(大分市)に病院を建設し、西洋外科手術を行う。
*1560.1.-/ 幕府が、イエズス会の宣教師ビエラに京都での布教を許可する。

<鉄砲伝来>
f:id:naniuji:20190820165501j:plain 中国で宋代に生まれた火器は中東や欧州へと広まり、東アジアでは、中国など大陸アジアが火器使用は先行していた。しかし大航海時代が始まると、ヨーロッパで改良された火器が、海域アジアにも伝わるようになってきた。

f:id:naniuji:20190820165548j:plain これは東アジアにおける火器普及の第二波の時期とされ、そのような流れの中でポルトガル人により、日本にも鉄砲がもたらされた。鉄砲の伝来は、戦国時代の日本での戦闘に大きな変化をもたらすことになる。


 資料により若干の異動があるが、「鉄炮記」によると、天文12(1543)年8月25日、大隅国の種子島に一艘の船が漂着した。この船にポルトガルの商人が同乗しており、そのポルトガル人により鉄砲がもたらされた。

f:id:naniuji:20190820165615j:plain 島主 種子島時堯がポルトガル人から買い求めたたった二丁の火縄銃は、刀鍛冶により模造され、またたく間に日本人により製造技術が習得され普及した。遅くとも天文18(1549)年までに、中央の京都にも届いており、天文19(1550)年に京の東山で行われた細川晴元と三好長慶の戦闘で、銃が使われ戦死者が出ている。


<キリスト教の布教>
 一方キリスト教は、天文18(1549)年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、日本布教の第一歩を記したとされる。薩摩領主島津貴久に謁見した後、平戸、山口を経て京都に至り、天皇や将軍への謁見を目指した。

f:id:naniuji:20190820165651j:plain ただ当時、京都は戦乱で疲弊しきっており、天皇の権威は失墜、将軍も家臣に追われて京に不在、ザビエルは目的を果たせなかった。ザビエルは山口に戻り、当地で大内義隆の保護を受け、また府内(大分)では大友宗麟に謁見、日本でのキリスト教布教の基礎を築き、天文20(1551)年にインドに向かった。


 日本人を優秀で理性的な国民であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えてガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見)、ガスパール・コエリョなど、有能なイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。

f:id:naniuji:20190820165738j:plain  宣教師たちはまずその土地の大名などと会見し、南蛮貿易の利益を訴えて布教の許可を得た。すでに種子島(鉄砲)などが伝来して、大名たちは、南蛮人との交易を求めており、その窓口として宣教師たちは歓迎された。


 キリスト教に接した大名たちの中には、すすんで洗礼を受けるものも現われ、キリシタン大名と呼ばれた。キリスト教の教えに純粋に導かれた者以外にも、南蛮貿易をより有利に運ぶためだとか、南蛮の文化や科学技術を移入するという実利から入信したものもあった。

f:id:naniuji:20190820165818j:plain  戦国の世の統一を進めた織田信長は、キリスト教の布教に好意的で、彼らがもたらす南蛮貿易の利益を歓迎した。信長を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教宣教師やキリシタン大名が、仏教など旧来の文化を迫害するなどの弊害に気付き、バテレン追放令を発布しキリスト教宣教の制限を宣言した。


 秀吉は追放令を出したが、南蛮貿易には積極的であり、実質上キリスト教の布教は黙認した。その後、徳川家康によって江戸幕府が成立し、キリスト教禁教令は何度も出されるも徹底せず、完全な禁教と徹底したキリシタン弾圧が行われるようになるのは、3代将軍家光の時代での「鎖国」の完成以後となった。


◎戦国大名の林立
*1541.1.13/ 安芸で毛利元就と陶晴賢が、尼子晴久の軍勢を破る。
*1541.6.14/ 守護武田信虎が、子の武田信玄(晴信/21)により甲斐から追放され、駿河の今川義元(23)の下に身を寄せる。
*1542.7.5/ 武田信玄が、信濃の諏訪頼重を幽閉し、切腹させる。
*1542.8.23/ 斎藤道三が、美濃の守護土岐頼芸の大桑城を攻め、頼芸は尾張へ逃れる。
*1542.-.-/ 甲斐の武田信玄が富士川流域に堤防を築き始める。(信玄堤、1560完成)
*1545.8.16/ 今川義元が、北条氏康と駿河の狐橋で戦う。
*1547.6.4/ 武田信玄が「甲州法度之次第」を制定する。
*1548.12.30/ 長尾景虎(上杉謙信)が、兄の晴景に代わって越後守護代となる。
*1549.11.9/ 三河の今川義元軍が、織田信広の安祥城を攻略、松平竹千代(徳川家康/8)が織田家の人質から今川家に移される。
*1551.9.1/ 大内義隆が、家臣の陶晴賢の謀反により、周防長門の大寧寺で自刃する。
*1552.1.10/ 関東管領上杉憲正が、北条氏康に追われ、越後守護代長尾景虎を頼る。
*1553.8.-/ 武田信玄に敗れた村上義清が、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾両軍が信濃川中島で戦う(第1回川中島の戦い)。1555.7.19には2回目。
*1554.3.-/ 相模の北条氏康、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄が、駿河善徳寺に集まり講和を結ぶ。
*1556.4.20/ 斎藤道三が、長男義竜と美濃の長良川河畔で戦い敗死する。
*1557.11.25/ 毛利元就が、3子に教訓状「三人心持之事」を送り、協力して生き残ることを諭す。
*1559.2.2/ 織田信長が京へ上り、将軍義輝に謁見する。
*1559.4.27/ 越後の長尾景虎が京へ上り、将軍義輝に謁見する。
*1560.5.19/ 織田信長(27)が、田楽狭間で今川軍を急襲し、今川義元を討ち取る。
*1560.5.23/ 今川家に人質になっていた松平元康(徳川家康/19)が、11年ぶりに本国三河の岡崎城に帰り独立する。

f:id:naniuji:20190822150954j:plain 室町将軍から任命され、軍事警察権から経済的権能まで獲得して、一国内に領域的一円的な支配を確立した守護は「守護大名」と呼ばれた。一方、下克上などで実力によって領国支配を確立し、室町幕府など中央権力から独立して、軍事行動や外交および経済的支配を行ったものを「戦国大名」と呼んだ。

 領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に領民間の争いを調停し、大名主導により紛争の解決を行った。そのため、戦国大名のなかには、その基準を明文化した「分国法(戦国法)」を制定するものもあった。

<有力戦国大名>
f:id:naniuji:20190822151042j:plain《北条早雲》 (1456-1519年)
 北条早雲は、室町幕府政所執事の伊勢氏出自と考えられ、伊勢新九郎長氏と名乗り、後に出家してから北条早雲と名乗った。駿河守護今川義忠に仕えるが、後継争いが生じると、今川氏親を支持し後継に就ける。その功で興国寺城(沼津)に所領を与えられる。

 明応2(1493)年、早雲は堀越公方 足利政知の子茶々丸を襲撃し、伊豆を奪った(伊豆討入り)。この時期から、東国では戦国期が始まったとされる。明応4(1495)年9月には、相模小田原の大森藤頼を討ち、小田原城を奪取した。以後、小田原城を拠点に相模を平定し、関東に北条氏の支配を確立して、戦国大名の嚆矢とされる。

f:id:naniuji:20190822151121j:plain《毛利元就》 (1497-1571年)
 毛利元就は、安芸の小規模な国人領主の家督を継ぐと、一代で山陽・山陰10ヵ国を領有する戦国大名の雄にまで成長させた。毛利家の家督を相続した元就は、尼子経久と敵対関係となると、大内義興の傘下に入った。

 天文20(1551)年、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって殺害されると、1554年になって元就は、陶晴賢を討ってその領国を支配する。弘治3(1557)年には、大内氏の内紛を好機として大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。さらには尼子晴久をも破り、中国地方の大半を支配する戦国大名となった。

 弘治3(1557)年に元就は、3人の息子(隆元・元春・隆景)に直筆書状「三子教訓状」を示し、互いに協力して毛利家を維持するよう諭したが、これが後代において、死ぬ間際の元就が3人の息子を枕元に呼び寄せて、三本の矢に例えて結束を強く訴えたという「三矢の訓」逸話となった。

f:id:naniuji:20190822151206j:plain《斎藤道三》 (1494-1556年)
 代々北面武士だったが牢人となっていた松波基宗を父に、京都の近くで生れたとされる。松波庄五郎と名乗り、油問屋の娘を娶とって油商人となると、行商油売りとして評判になったという。

 その後武士を目指した庄五郎は、美濃守護土岐氏守護代の長井長弘家臣となることに成功するも、主家土岐氏の家督争いに介在して、主人長井長弘を殺害して長井家を乗っ取り長井新九郎と名乗る。さらに、天文7(1538)年に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。

 天文11(1542)年、斎藤利政は土岐頼芸と対立し、頼芸の居城大桑城を攻め落とすと、頼芸とその子を尾張へ追放、事実上の美濃国主となった。天文16(1547)年には尾張の織田信秀に攻め込まれるも、織田軍を押し返すと和睦し、信秀の嫡子織田信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせ、織田氏と同盟関係になる。

 天文23(1554)年、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り出家し、斎藤道三と号し隠居した。しかし道三は息子の義龍と不和になり、弘治元(1555)年、義龍は道三に対して挙兵する。その強欲な国盗りから、「美濃の蝮」と綽名された道三に味方するものは少なく、「長良川の戦い」で敗死した。享年63。

f:id:naniuji:20190822151239j:plain《武田信玄》 (1521-1573年)
 甲斐の武田晴信(信玄)は、天文10(1541)年、父信虎を駿河に追放し、武田家の家督を相続する。天文11(1542)年、信濃へ進展し諏訪氏を滅ぼし、さらに小笠原氏や村上氏を破り、信濃国をほぼ平定する。天文16(1547)年には、分国法である「甲州法度之次第(信玄家法)」を定め、領国支配を安定させた。

 天文22(1553)年4月、村上義清が頼ったため、越後の長尾景虎(上杉謙信)が信濃への出兵を開始し、善光寺平の主導権を巡って甲越対決が始まる(第1次川中島の戦い)。晴信は、駿河今川氏や相模北条氏と婚姻関係を通じて、甲駿同盟・甲相同盟を結び甲相駿三国同盟を成立させる。武田信玄と上杉謙信は、以後も都合5度にわたり川中島で戦うが決着はつかなかった。

 永禄2(1559)年、信濃を平定した晴信は、出家し「信玄」と号した。信玄は、越後の上杉謙信のほかにも、領国を接する駿河の今川氏、相模の北条氏、そして尾張の織田信長などと同盟・対立を繰り返す。元亀4(1573)年4月12日、三河に侵攻して甲斐に引き返す途上、喀血し死去する。享年53。

f:id:naniuji:20190822151305j:plain《上杉謙信》 (1530-1578年)
 越後は守護の山内上杉氏の領国であったが、上杉氏が衰えると守護代の長尾為景が支配することになり、子の長尾景虎(上杉謙信)の時に勢力を拡大した。景虎は、内乱続きの越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させる。天文21(1552)年、関東管領上杉憲政を助けて北条氏と争い、永禄4(1561)年には憲政から関東管領の職をゆずられ、上杉を名のることになる。

 1552(天文21)年、武田晴信(信玄)の信濃侵攻によって、追われた信濃守護小笠原長時や、翌年には信濃国葛尾城主村上義清が、景虎に助けを求めた。援軍として信濃国に出陣した上杉景虎(謙信)は、ついに信濃の川中島で武田晴信(信玄)と戦をかまえる。以後、川中島では信玄と5度にわたって戦った。

 永禄2(1559)年、足利将軍家から要請を受け上洛、正親町天皇や将軍足利義輝に拝謁する。他国から救援を要請されると幾度となく出兵し、武田信玄の他にも、北条氏康、織田信長、越中一向一揆らと合戦を繰り広げた。

 上洛を目指し、北陸路を西進し越中・能登・加賀へ勢力を拡大した後、天正5(1577)年12月、一旦越後春日山城に戻り、次の遠征の準備中に脳溢血で倒れて死去。享年48歳。


(この時期の出来事)
*1542.3.28/ 将軍足利義晴が、近江坂本から帰京する。
*1546.12.20/ 足利義輝(義藤/11)が、父義晴から譲位され13代将軍となる。
*1548.10.28/ 三好長慶が細川晴元にそむき、家臣三好氏の内紛に、細川一族も分裂する。
*1549.6.28/ 江口の戦いで三好長慶に敗れた細川晴元が、将軍義輝と前将軍義晴を奉じ、近江坂本へ脱出する。
*1552.1.28/ 将軍足利義輝(義藤)が三好長慶と和解、近江から京都に帰る。

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