◎室町幕府の衰退と足利将軍の権威失墜
*1504.9.4/ 摂津守護代 薬師寺元一が、管領 細川政元を廃しようとして、淀城で兵を挙げるも鎮圧される。
*1507.6.23/ 管領細川政元が、養子澄之や香西元長・薬師寺長忠らによって殺害される。(永正の錯乱)
*1507.8.2/ 細川澄之が入京し、細川政元の家督を継ぐ。
*1508.4.16/ 11代将軍足利義澄は、前将軍足利義稙(義伊)が京に迫るとの報を聞き、近江へ脱出する。
*1508.6.8/ 大内義興に擁された足利義稙が入京し、将軍に復帰する。
*1511.8.14/ 前将軍義澄(32)没。
*1513.2.14/ 将軍義稙が、義澄の遺子義晴と和睦する。
*1520.3.27/ 細川澄元の武将三好之長が入京する。
くじ引で決められた第6代将軍足利義教であるが、強権的な政権運営で幕府の支配力を強化した。しかし「万人恐怖」と評された過酷な政治は、それに怯えた赤松満祐により暗殺される(嘉吉の乱)。将軍職はその子義勝が継ぐが、ほどなく早世し、弟足利義政が第8代将軍となる。
義政は当初、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)にも積極的に介入し、将軍親裁権の強化を図ろうとした。しかしやがて、思うに任せない政務運営に次第に意欲を失い、趣味世界に没頭してゆく。
弟の義視を養子とし後継にするつもりだったが、正室日野富子に実子義尚が生れると、富子の意向に押されて義尚に家督を継がせる方に流れていった。義視派と義尚派に分かれての将軍後継問題は、優柔不断な義政の下で混迷を深めた。
管領畠山家の内紛と、将軍家の後継争いは、やがて細川勝元の東軍と山名宗全の西軍に分かれての応仁の乱へと流れ込んでゆく。応仁の乱の進行とともに、事態の収拾能力のない義政の前で、将軍の権威はまったく失墜していった。
応仁の乱で、立場の不利を察知した義視が西軍に走ると、義政は東軍寄りの立場を示すようになり、文明5(1473)年、義政は将軍職を義尚に譲り9代将軍とする。義尚は9歳だったため、政務の実質は義政・富子夫妻と富子の兄である日野勝光が中心となって行った。
義尚が政務を担う歳になっても、義政らは実権を手放さず、父子間には確執が生じた。文明14(1482)年になってやっと義政は、政務を義尚に譲る意思を表明するが、確執は収まらなかった。
義尚は将軍権力の確立に努め、積極的にもめ事に介入し、長享1(1487)年には、近江守護の六角高頼を討伐のため、約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。しかし高頼はゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされ(鈎の陣)、結局、鈎の陣中で病死する(25歳)。
義尚には継嗣が無く、延徳2(1490)年に義政が死去すると、従弟(義視の子)である足利義稙(義材/義伊)が、10代将軍に就任した。しかし将軍義稙は、強力な後ろ盾であった父 義視が延徳3(1491)年に死去すると、前管領畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。
明応2(1493)年、義稙は、畠山政長の対抗者畠山義就が死去したのに乗じて、義就派一掃を企図し、後継の義豊討伐のため、畠山政長らを率いて河内国に赴いた。しかし義稙が京都を留守にしている間に、京都の細川政元・日野富子らは、義政の異母兄である堀越公方 足利政知の子 足利義澄(清晃)を11代将軍に擁立して、義稙を廃するクーデターを起こした(明応の政変)。
管領細川政元は、河内国に派兵し足利義稙と畠山政長を打ち破り、政長は自害し、義稙は龍安寺に幽閉された。細川勝元の子で現管領 細川政元が幕政を掌握し、「京兆専制」と呼ばれる事実上の細川政権を樹立し、幕府は安定するかと思われた。
細川政元は修験道に没頭していて、女人禁制に従って女性を近づけることなく、独身を通したため子供が無く、3人の養子をとっていた。するとその養子の間で跡目争いが生じ、永正4(1507)それに巻き込まれ政元が謀殺され、細川家は分裂状態に陥る(永正の錯乱)。
細川家の分裂状態を好機とみて、義稙は将軍への復帰を目指し、大内氏や細川家の後継候補の細川高国らの勢力に支えられ上洛すると、将軍義澄を追放、将軍職に復帰する。その後も、12代義晴・13代義輝・14代義栄・15代義昭と足利将軍は続くが、有力大名の意向で将軍職が左右されるなど、将軍の権威はほとんど失われていた。天正2(1573)年、足利義昭が織田信長に京都を追放されると、事実上、室町幕府の幕は閉じられる。
(この時期の出来事)
*1503.4.7/ 応仁の乱で焼失した真如堂が、故義政の発願で再建されていたが、その棟上げが行われる。
*1505.7.18/ 京都で爆発的な流行を見せる風流踊りに、幕府は禁止令を出す。
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