2020年4月30日木曜日

【11C 1001-1020年】

【11th Century Chronicle 1001-1020年】

◎平安朝女流文学
f:id:naniuji:20190331175455j:plain*1001頃/ 清少納言「枕草子」、この頃に成立か。この前年に出仕していた中宮定子が亡くなっている。
*1002頃/ 紫式部「源氏物語」の一部が成る。
*1004頃/ 「和泉式部日記」が完結する。
*1020.9.3/上総 上総介菅原孝標が任期を終え帰京の途につく。菅原孝標の娘による「更級日記」の記述の始まりとなる。

<清少納言「枕草子」>

f:id:naniuji:20190401232445j:plain 「清少納言」は実際の名ではなく、父親清原元輔の一字”清”と、身近な人物の官職”少納言”を合わせたもので、女房として出仕した時の呼び名とされる。二度目の夫との間に女子をもうけた後、一条天皇の時代、正暦4(993)年冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。

 長保2(1000)年に中宮定子が出産時に亡くなり、それにともなって清少納言は宮仕えを辞した。宮中での出来事など、折に触れて書き留めたものなどをまとめて、この時期に「枕草子」が出来上がったと考えられる。


f:id:naniuji:20190401232658j:plain 清少納言が仕えた中宮定子は、父親の藤原道隆が急死し後見を失い、そのこころ細さなどが枕草子にも反映されている。一方で道隆の弟道長が権勢を握り、その子彰子を入内させると、彰子の女房となった紫式部が、清少納言のライバルとして語られることが多い。

 しかし実際に紫式部が彰子に仕えたのは、定子が亡くなってかなり後の事であり、両人は面識さえなかった可能性もある。遅れて出仕した紫式部は、その「紫式部日記」で清少納言を悪しざまに貶しているが、それ以前に成立したと見られる枕草子には、紫式部に直接言及した個所は見られない。


f:id:naniuji:20190401232523j:plain 「枕草子」は当時の他の女流文学と同じく、 平仮名を中心とした平易な和文で綴られ、洗練されたセンスと鋭い観察眼で、宮中の文物や出来事などを軽妙な筆致で描き出した。「源氏物語」の情的な「もののあはれ」の世界に対して、「枕草子」の方は「をかし」という理知的な感性美の情景を現前させる。

 清少納言の感性を端的に顕わしている「ものづくし」的な断章には、「虫は」「木の花は」「うつくしきもの」というような、評価の良いもののチョイスばかりでなくて、「はしたなきもの」「すさまじきもの」というように、自らの感性に合わないものを端的に切って捨てる歯切れの良さも見せる。


f:id:naniuji:20190401232614j:plain 日常生活や四季の自然を観察した随想風の断章でも、身近な事物を批評する鋭い視線を煌めかせる。あるいは定子亡きあとから、中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った回想的章段では、当時の様子を懐かしみながら振り返る情の揺らめきも見せるが、「香爐峰の雪は」のように、自身の知性と手柄を自慢げに語る場面も見られる。

 「枕草子」という書名は、中宮定子が、兄の伊周から献上された貴重な書き物用の御料紙に、何を書くのがよいかと相談したときの返事として、「枕にこそは侍らめ」と応えたところから来ているという。だが、この「枕」が何を指すのかは明らかではない。


 すぐに読めるようにと「枕元に置くべき草子」という意味で「枕草子」と呼ばれたのは分かるが、それは内容を表したものではない。ちょっとした眠る前の読み物とか、備忘録として書き物だとか、あるいは「枕絵」と同様のポルノグラフィーでさえ考えられる。ここは、寝屋での軽い読み物程度に理解しておくべきか。


<紫式部「源氏物語」>

f:id:naniuji:20190403183545j:plain 紫式部は、下級貴族で漢詩人、歌人でもあった藤原為時の娘で、結婚して一女を儲けたが夫と死別、その後から「源氏物語」を書き始めたと思われる。寛弘3(1007)年ごろ、藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子に女房兼家庭教師役として仕え始めた。

 その当時の女房名は「藤式部」だったとされ、「式部」は父為時の官位に由来している。「紫式部」の「紫」の方は、源氏物語の「紫の上」からとられたもようで、後年になってから呼ばれだした筆者名かと想像される。


 彰子に出仕する以前に、藤原道長の正室付きの女房として仕えていたとの説もあり、道長がその才を知って彰子の指導役として引いたのではと考えられる。それを機に宮中に上がった紫式部は、藤原道長の支援の下で物語を書き続け、五十四帖からなる「源氏物語」を完成させることになった。

f:id:naniuji:20190403184634j:plain  紫式部が宮中出仕中に綴った日記や手紙は、「紫式部日記」として残されている。むしろこの日記での記述などから、源氏物語の作者が紫式部とされるようになったもので、物語への世人の評判や、同僚女房であった和泉式部・赤染衛門などへの言及もあり、彰子のサロンの盛んなさまがうかがえる。


 中宮定子に仕えていた清少納言とは出仕時期がずれており、既存の枕草子の断章などだけから、その人と為りを評価したものと考えられる。清少納言へのライバル心からか、軽薄な賢しらぶりなどと一方的に貶しており、和泉式部・赤染衛門らへのそれなりの評価とは、落差が激しい。

 京都御所の東にある天台宗廬山寺は、紫式部の出仕中ないし暇を取ってからの住まったと推定される邸宅跡とされており、そこで源氏物語の筆を執っていたものと推定される。また、紫式部が晩年に住まったとされ、のちに大徳寺別坊雲林院のある紫野の地には、小野篁の墓とともに紫式部の墓とされるものが建てられている。

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 「源氏物語」は全54帖からなり、その大半は光源氏を主人公とした恋愛物語で、この時期では世界でもまれな大長編である。ただし末の10帖は、光源氏亡きあと、次世代の薫大将と匂宮という二人の貴公子を中心に、宇治を舞台にした物語で「宇治十帖」と呼ばれる。

f:id:naniuji:20190403183853j:plain 千年以上前に成立した物語を、近現代の小説・物語と同様に語るのは無理があるが、源氏物語が後世に与えた影響には多大なものがある。江戸元禄期の戯作者井原西鶴は、源氏のパロディとして「好色一代男」を書き、江戸後期には本居宣長が、「もののあはれ論」を展開する。


 近代になっても、与謝野晶子ほか多くの文学者が現代語訳を試み、谷崎潤一郎は現代語訳をするとともに、その時の経験を下敷きに、源氏の世界を現代に置きかえた「細雪」をものにしている。

f:id:naniuji:20190403183646j:plain また影響ではないが、海外からはウィリアム・ジェイムズやアンリ・ベルクソンの「意識の流れ」論に沿った、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」やマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」と同様の作品と見なす考え方も現われた。


 たしかに、明示されないままにいつの間にか主語が入れ替わってゆくような、源氏物語の息の長い文章を読んでいると、一部の断章をしずかに音読してみるだけでも、夢と現実をない混ぜたような世界が顕われ、時空を超えた男女の人間模様が、重なり合って移ろっていくような想いにとらわれる。


<和泉式部「和泉式部日記」>

 あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな 和泉式部

f:id:naniuji:20190404173840j:plain 「和泉式部」は、越前守大江雅致の娘として生まれ、長保元(999)年頃には和泉守橘道貞の妻となり和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は、この夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との間に一女をもうけるが、まもなく破綻する。この娘が、後に母親同様に歌才を示す「小式部内侍」である。

  帰京して道貞と別居したあと、冷泉天皇の第三皇子為尊親王との関係が表沙汰になり、身分違いの恋だとして親から勘当される。為尊親王が若くして亡くなると、今度はその弟の第四皇子敦道親王(帥宮)の求愛を受け、親王の邸に入ると、正妃の方が家を出てしまう結果となった。


f:id:naniuji:20190404174034j:plain 敦道親王との恋の顛末は、物語風の日記「和泉式部日記」に如実に語られているが、和泉式部自身が書いたものかどうかは定かでない。その敦道親王も早世し、寛弘年間の末(1008年-1011年)ごろ、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕する。

 この時期の彰子の局は、赤染衛門・紫式部・伊勢大輔らに和泉式部も加わり、華麗な文芸サロンを形成していた。これらの女官は、藤原道長が娘 彰子を引き立てるためにスカウトしてきたものと思われる。

f:id:naniuji:20190404173936j:plain 和泉式部には赤裸々に恋を詠んだ歌が多く、実際に恋愛遍歴もあまた伝えられている。そのため、道長から「浮かれ女の扇」と落書きをされたという逸話があったり、また同僚女房であった紫式部からは「(和泉式部は)面白う書き交しける、されど、けしからぬ方こそあれ」などと素行のはしたなさを指摘されている。


f:id:naniuji:20190404174504j:plain 長和2(1013)年頃、道長の家司である藤原保昌と再婚し、その任国の丹後に下った。その後、万寿2(1025)年、娘の小式部内侍に先立たれた折には、痛切な愛傷の歌を残している。その後の晩年の動静は不明で、残した歌からは仏道への傾倒していた様子が伺われる。

 おほえ山いく野の道のとほければ まだふみもみず天の橋立 小式部内侍


<菅原孝標女「更級日記」>

f:id:naniuji:20190406232728j:plain 「菅原孝標女(むすめ)」は、地方貴族菅原孝標の娘というだけで、実の名は伝わっていない。父方は菅原道真の血を引き、母方の伯母には「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母、近親にも学者を輩出し、知的な環境の下で育ったと思われる。

 彼女は寛弘5(1008)年に出生、清少納言・紫式部などより後の世代になる。寛仁4(1020)年、彼女の13歳の頃、父の上総介としての任期が終り、3ヵ月ほどかけて京に帰国する。


f:id:naniuji:20190406232820j:plain 彼女は伯母から貰った源氏物語を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごすなど、多感な少女時代をおくったとみられる。この頃の家族とともに東国から帰国するあたりから、「更級日記」の記述は始められている。

 更級日記は、「日記」とはいえ現在のような形態ではなく、かなりの後になってから、過去の生涯を振り返って綴る回想記風のものである。しかも更級日記は菅原孝標女の存命中に出版されたわけではなく、かなり後に藤原定家によって発見されたものだったようである。

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 更級日記では、娘時代の夢想的な世界から、その後の親王家への出仕、橘俊通との結婚、一男二女の出産、夫の単身赴任と病死、子供たちが巣立った後の孤独な境遇など、幾多の変遷を経ながら、次第に仏心が深まっていく心境変化が平明な文体で描かれている。

 書名の「更級(更科)」は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、「古今和歌集」の一首「わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て(よみ人しらず)」を本歌取りしていることからと言われる。なお「更級」は信濃国( 姨捨山)の枕詞として、本歌で使われているだけである。


f:id:naniuji:20190406233002j:plain 作者の菅原孝標女が過ごした半生は、道長からその子頼通へと引き継がれる時代と重なり、平安朝の栄華の絶頂期から、次第に傾いてゆく時期を経験することになる。それに伴って、物語のロマンに心ひかれた少女時代から、やがて孤独な寂寥の境遇の現在へと、時代の流れと自己の境遇が重なってくる。

f:id:naniuji:20190406233033j:plain 若きころの夢に浮かれた浅はかさを「いとはかなく あさまし」と批評しながらも、その少女時代の感傷を懐かしみ心の支えとしている自己を見つめている。そのような状況を綴る文章は、近代日本文学の「私小説」などにも通じるものを伺わせる。


 菅原孝標女は、源氏物語の系譜をひく「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」の作者ではないかとも言われるが、まだ確証はない。また、「源氏物語」について、最も早い時期に言及したものとして、貴重な史料的価値をも持っている。


(この時期の出来事)
*1001.5.9/ 疫病を祓うため、紫野今宮社で御霊会が行われる。現在も続く「今宮祭・やすらい祭り」の初め。
*1005.9.26/ 陰陽師 安倍晴明(85)没。
*1006.7.27/ 藤原道長が法性寺五大堂を建立する。
*1009.2.20/ 藤原伊周が、中宮彰子とその子 敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛したとして朝参を停止される。
*1011.6.13/ 一条天皇が居貞親王(三条天皇)に譲位し、敦成親王が皇太子となる。
*1012.2.14/ 中宮彰子が皇太后に、女御妍子(道長の娘)を中宮とする。
*1012.9.11/ 僧源信が広隆寺で称名念仏を始める。
*1016.1.29/ 三条天皇が敦成親王(後一条天皇)に譲位し、道長が摂政となる。
*1017.3.16/ 藤原道長の子 頼通が摂政となる。
*1018.10.16/ 中宮妍子が皇太后に、女御威子が中宮となる。
*1018頃/ 「和漢朗詠集」成る。
*1019.3.28/ 刀伊が来襲、壱岐守藤原理忠を殺害する(刀伊入寇)。刀伊は博多への上陸を目指すも、撃退される(4.9)。
*1020.2.27/ 藤原道長が無量寿院(法成寺阿弥陀堂)を建立する。

2020年4月29日水曜日

【10C 981-1000年】

【10th Century Chronicle 981-1000年】

◎藤原氏内紛と藤原道長と藤原伊周の争い
*986.6.23/ 花山天皇が、藤原兼家らに欺かれて出家、一条天皇に譲位し兼家がその摂政となる。
*987.7.21/ 摂政藤原兼家が、氏長者の公邸 東三条殿を再建する。
*990.1.25/ 藤原兼家の長子道隆の娘定子が、入内する。
*990.5.8/ 藤原兼家が出家し、長子道隆が関白となる。
*990.9.16/ 円融皇太后詮子が出家し東三条院となる。(女院の初め)
*995.4.10/ 関白藤原道隆(43)没。道隆の弟道兼が関白になるが、急死する。
*995.7.24/ 右大臣藤原道長と甥の内大臣藤原伊周が、内裏で激しく口論する。
*996.1.15/ 内大臣藤原伊周・権中納言隆家兄弟が、従者に命じて花山法王に矢を射かける。
*996.4.24/ 伊周は太宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷される。(長徳の変)
*999.11.1/ 藤原道長の娘彰子が入内する。
*1000.2.25/ 中宮定子を皇后に、彰子を中宮とする。道長のごり押しで事実上の二皇后制となる。
*1000.12.16/ 皇后定子(25)が、出産に際して死亡する。

f:id:naniuji:20191013170300j:plain 藤原基経の子 「藤原忠平」は、宇多・醍醐天皇と親政が続いたあと、延長8(930)年、幼帝朱雀天皇が即位したため摂政となる。30数年にわたって中枢を占めたため、忠平の子孫が嫡流となり、長子実頼が摂関を継ぐが、兄より優れると評された次男「藤原師輔」が実質を握り、 さらに伊尹・兼通・兼家という3兄弟が官位を高め、娘安子を村上天皇の中宮に送り込むなど、子孫に恵まれた。

 師輔は、天徳4(960)年52歳で薨去するが、のちに安子の産んだ子が冷泉・円融天皇として即位するなど、外戚としての関係を強化できたために師輔の家系が主流となり、「九条流」と呼ばれた。師輔の跡は長男 伊尹が継ぐが早く亡くなり、その後継を「藤原兼通」・「藤原兼家」兄弟が激しく争う。


  兄の伊尹が摂政として政治を仕切る間、兼家はそれを支えたため、兄の兼通より官位が上回ってしまい、兼通に強く妬まれた。伊尹が49歳で死ぬと、円融天皇との関係が良好だった兼通が氏長者を継ぎ、関白となる。この間、兼家は不遇の時を過ごすが、貞元2(977)年、兼通の死とともに復権する。

f:id:naniuji:20191013170416j:plain 天元元(979)年に右大臣に進んだ兼家は、父の遺志を継いで延暦寺横川に恵心院を建立し、かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれた。ぎくしゃくしていた円融天皇との関係も修復され、永観2(984)年、円融天皇は花山天皇に譲位し、詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が東宮に立てられた。


 花山天皇は色にふけり、寵愛した女御藤原忯子が急死すると出家すると言い出した。兼家の三男 道兼から出家に追随すると言われて、天皇もその気になって剃髪出家してしまう。藤原兼家・道兼父子の策略は成功し、兼家の娘 詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が即位し、兼家は外戚として摂政となる。

 氏長者となった兼家は、右大臣を辞して兼官しない摂政として、官位の上下に拘束されない身となった。兼家は、息子の道隆や道長などの子弟を公卿に抜擢し、氏長者邸として東三条殿の一部を内裏に模して建て替えるなどして、地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。


 藤原兼家は永祚元(989)年、嫡男道隆を内大臣に任命、自らは太政大臣に就任し、翌 永祚2(990)年、一条天皇の元服に際して関白に任じられるも、僅か3日で道隆に関白を譲って世襲を確定させて出家、栄華を極めた2ヵ月後に病没した。享年62。

f:id:naniuji:20191013170610j:plain この後、兼家の家系は大いに栄えるが、ここでも確執が発生する。嫡男道隆は長女定子を一条天皇の女御として入内させ、兼家が薨去すると氏長者となり、定子を中宮として帝の外舅となり、次女原子を皇太子妃とするなど、後宮政策を進めるが、長徳元(995)年4月10日薨去。享年43。

 道隆が死去すると弟の道兼が関白となるが、就任僅か数日で病で死去する。一条天皇は道隆の嫡子「藤原伊周」を後継にと考えたが、母后東三条院(詮子)が弟の「藤原道長」を強く推したため、天皇は道長を登用する。


f:id:naniuji:20191013170644j:plain 道長と伊周の叔父・甥は激しく対立し、長徳元(995)年7月24日には内裏の陣座で諸公卿を前に激しく口論し、その3日後には2人の従者が都で集団乱闘騒ぎを起こしている。一条天皇は道長に「内覧」を許し、さらに右大臣に任じ、道長が藤原氏長者となった。

 翌 長徳2(996)年正月、伊周とその弟隆家は女性関係が原因で、花山法皇に矢を射かける事件を引き起こした。ことは露見し4月に罪を責められた伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷されて失脚した(長徳の変)。その年7月に道長は左大臣に昇進し、名実ともに廟堂の第一人者となる。


f:id:naniuji:20191013170722j:plain 長保元(999)年11月道長は、一条天皇に長女彰子を女御として入内させ、翌長保2(1000)年2月には、定子を皇后の宮にまつり上げして彰子を中宮とし、事実上の一帝二后を強行した。心労に苛まれた定子は、その年の暮れに第二皇女を出産した直後に崩御し、赦されて帰洛していた兄の伊周は、妹の亡骸を前に慟哭したという。


(この時期の出来事)
*981.7.7/ 円融天皇が、関白藤原頼忠の四条坊門大宮第に移り、譲位後の御所と定める(四条後院)。
*982.10.-/ 学者 慶滋保胤が随筆「池亭記」を著す。
*982.-.-/ この頃、源高明が、朝廷儀式の手引き書「西宮記」を著す。
*985.4.-/ 源信が「往生要集」を著す。
*986.-.-/ この頃、「宇津保物語」ができる。
*994.6.27/ 京に天然痘など疫病が大流行。疫病神横行風評のため、北野船岡山で御霊会を行う。
*996.-.-/ この頃、清少納言が「枕草子」の一部を著す。
*998.-.-/ この頃、勅撰和歌集「拾遺和歌集」ができる。

2020年4月28日火曜日

【10C 961-980年】

【10th Century Chronicle 961-980年】

◎「安和の変」と藤原摂関家での権力争い
*967.6.22/ 藤原実頼が関白となる。
*969.3.25/ 藤原師尹らの陰謀により、左大臣源高明が大宰権帥に左遷される(安和の変)。
*969.9.23/ 藤原実頼・師尹が推す守平親王が、11歳で円融天皇として即位し、藤原実頼が摂政となる。
*970.5.20/ 藤原実頼(71)が没し、弟の藤原師輔の子 伊尹が摂政となる。
*973.11.27/ 藤原兼通が関白となる。
*977.10.11/ 藤原兼通が、弟兼家をさけて、関白を藤原頼忠に譲る。

f:id:naniuji:20191011192258j:plain 「安和の変」は、安和2(969)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件とされ、この年3月25日、左馬助源満仲らが中務少輔橘繁延らの謀反を密告したことに始まったが、右大臣藤原師尹の企みで、左大臣「源高明」にも謀反の嫌疑がかけられ、大宰権帥に左遷されることになった。


f:id:naniuji:20191011192337j:plain それより前、康保4(967)年に村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位すると、関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。冷泉天皇が病弱だったため、早期に東宮を定めることになり、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王が候補にあげられた。しかし、年長の為平親王は源高明と縁戚があるので、これを排除したい藤原氏が策動し、年下の守平親王を皇太子とした。

f:id:naniuji:20191011193352j:plain 源高明は醍醐天皇の第10皇子で、臣籍降下し源の姓を賜与された。光源氏のモデルにも擬せられるほどの尊貴な身分で、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。


 康保4(968)年、冷泉天皇の即位に伴い左大臣に昇るが、この時点では藤原師輔や中宮安子もすでに亡く、高明は宮中で孤立していた。そのため、自らの娘を輿入れさせていた為平親王を差し置いて、太政大臣の藤原実頼や右大臣藤原師尹の力で、守平親王(円融天皇)を皇太子に推されてしまう。

f:id:naniuji:20191011192541j:plain 安和の変で源高明を失脚させた藤原実頼・藤原師尹の兄弟は、その後一年の間に続いて死去する。一方、より早く亡くなった次男の藤原師輔だが、子孫には恵まれ、村上天皇の中宮安子を始め、広く外戚を結ぶことに成功した。


 そのため、師輔の系統は「九条流」と呼ばれ、以後、兼家・道長・頼通と続き、冷泉天皇から後冷泉天皇まで8代にわたる天皇の外戚となり、摂政関白の地位を独占して、藤原北家の全盛期を展開することになる。


(この時期の出来事)
*961.-.-/ この頃、現存の伊勢物語が成立する。
*967.7.9/ 延喜式を施行する。
*970.6.14/ 祇園御霊会が初めて行われる。(祇園祭の初め)
*974.-.-/ 藤原道綱の母の「蜻蛉日記」の記述が終わる。
*976.7.26/ 内裏消失により、円融天皇が関白藤原兼通の堀河第に移る。(里内裏の初め)

2020年4月27日月曜日

【10C 941-960年】

【10th Century Chronicle 941-960年】

◎歌物語の成立
*957.-.-/ 歌物語「大和物語」ができる。
*961.-.-/ この頃「伊勢物語」が成立する。

 「歌物語」とは、和歌にまつわる説話を集成した物語文学の総称で、和歌にまつわる恋物語や、死別や不遇を嘆く物語など、やはり情感を動かす物語が多くみられる。「古今和歌集」などで、和歌の簡略な解説として添えられる「詞書」が、より詳しく発展したものと考えられる。


f:id:naniuji:20191008142419j:plain<伊勢物語>
 「伊勢物語」は、900年ごろからその原型となるものが存在したようだが、その後にも順次書き替えや追加が行われ、このころ現存の形のものが成立したと考えられる。そのため作者は特定されず、何人かが付け加えたりして関わったとされている。

f:id:naniuji:20191008142452j:plain 各章段の冒頭が「むかし、男ありけり」などと始められ、ある男の元服から死にいたるまでを、それぞれ歌を添えて物語られる。六歌仙の一人「在原業平」の歌が多く採録されていることから、業平をモデルにしたとされるが、詠み人知らずなど他の歌も多く、一貫しているわけではない。

f:id:naniuji:20191008142531j:plain 話の内容は男女の恋愛を中心に、主従愛、友情など多岐にわたる社交生活が描かれ、「昔男」の元服から死にいたるまでをカバーする。なかでも、前半で数段にわたって綴られる「二条の后(藤原高子)」との悲恋は、恋物語としての伊勢物語を際立たせる説話を構成している。

f:id:naniuji:20191008142559j:plain 二条の后との仲を裂かれた男が、悲嘆にくれて東国に下る話が続き、この「東下り」の章段は「貴種流離譚」のひな型を提示しているし、伊勢の斎宮との交渉の一節は、伊勢物語という書名の由来の一つともされる。

f:id:naniuji:20191008143128j:plain 伊勢物語は「いろごのみ(風流の恋)」の模範型として、「源氏物語」など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。やや遅れて成立した歌物語「大和物語」にも、共通した話題がみられる他、「後撰和歌集」や「拾遺和歌集」にも「伊勢物語」から採録されたと考えられる和歌が見られる。

 中世以降でも、能の「井筒」や「雲林院」などの典拠となり、近世以降では、「仁勢物語」などのパロディ作品の元となり、井原西鶴の「好色一代男」も、源氏物語を経てではあれ、伊勢物語のパロディともみなせる。さらに人形浄瑠璃や歌舞伎の世界でも、伊勢物語から題材をひいたものが多くみられる。
 《絵巻物で読む 伊勢物語》 https://ise-monogatari.hix05.com/


<大和物語>
f:id:naniuji:20191009164242j:plain 「大和物語」は、伊勢物語と同時代の歌物語だが、伊勢物語の説話が大和物語にもみられるなど、伊勢物語の影響下に成立したと考えられる。伊勢物語とは異なり統一的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話などのオムニバスの構成となっている。

 登場する人物たちは、実名・官名・女房名などで示され、固有の人物を指していることが多い。亭子院として登場する宇多天皇をはじめ、その周辺の貴族など歴史の表舞台の登場人物も多く登場する。
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 前半は物語成立に近い時期に詠まれた歌を核に、皇族貴族たちがその由来を語る歌語りであり、後半からは、悲恋・離別・再会など人の出会いと別れの歌を通して、古い民間伝説などの説話が綴られる。

f:id:naniuji:20191009164702j:plain 大和物語の書名については、伊勢物語の「伊勢」に対する「大和(奈良)」だという説があるが、他にも諸説あり不明である。さらに作者についても、古くは花山院や業平の子 在原滋春が擬せられたが、ほかに様々な人物が挙げられ未詳とされている。
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141段「ふたり来し路」(末尾のみ抜粋)
 大和掾という男は、妻のほかに筑紫出身の女を妾にして同居させていたが、男は心変りして妾とは別れることになり、妾は故郷の筑紫へ帰ることになった。男と本妻とともに山崎の渡しまで出て筑紫の女を見送る。

 これもかれも、いと悲しと思ふほどに、船に乗りたまひぬる人の文をなむ持て来たる。かくのみなむありける。
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  ふたり来し 道とも見えぬ 波のうへを
  思ひかけでも かへすめるかな
 (二人で来た道も見えない波の上を 寄せた波が返すみたいに
  もう思われなくなってしまった わたしは帰って行くのです)

と言へりければ、男も、もとの妻も、いといたうあはれがり泣きけり。

《『大和物語』―古文と解説、朗読》
https://mukei-r.net/kobun-yamato.htm


(この時期の出来事)
*941.5.20/ 南海追捕使小野好古が、博多津で藤原純友の軍を破る。
*941.6.20/ 逃亡していた藤原純友が、伊予の日振島で殺される。(藤原純友の乱終焉)
*947.6.9/ 菅原道真の祠を京都北野に建てる。(北野天神社の起源)
*960.9.23/ 平安京造営後、初めて内裏が消失する。

2020年4月26日日曜日

【10C 921-940年】

【10th Century Chronicle 921-940年】

◎承平・天慶の乱
*935.2.-/ 平将門が伯父常陸大掾平国香と前大掾源護と争い、国香を殺す(平将門の乱始まる)。
*935.10.21/ 平将門が叔父の平良正を破る。
*936.7.26/ 平将門が、伯父の下野介平良兼らを破る。
*937.8.6/ 平良兼が、子飼渡で平将門を破る。
*937.9.19/ 平将門が、平良兼を服織宿に破る。
*937.12.14/ 平将門が、平良兼を石井で破る。
*938.2.29/ 平将門が、上京途上の平貞盛を千曲川で破る。
*938.2.-/ 興世王・源経基と武蔵武芝との争いに、平将門が介入する。
*939.3.3/ 武蔵介源経基が上京し、平将門らの謀反を訴える。
*939.11.21/ 平将門が、常陸国府を襲撃し印鎰を奪う。
*939.12.15/ 平将門が、下野についで上野を陥し、新皇と自称して除目を行う。
*939.12.21/ 前伊予掾藤原純友の反乱が報告され、諸国に逮捕を命じる。(藤原純友の乱始まる)
*940.2.14/ 平将門が、平貞盛・藤原秀郷らに敗れ殺される。(4.25藤原秀郷が将門の首を献上する)
f:id:naniuji:20191001092634j:plain*940.-.-/ 瀬戸内で藤原純友の乱が広がる。
*941.6.20/ 藤原純友が、伊予の日振島で殺される。

 「承平天慶の乱」は、承平・天慶の元号間の同時期に起きた、関東での「平将門の乱」と瀬戸内海での「藤原純友の乱」の総称であるが、将門と純友が呼応して反乱を起こしたものではない。


<平将門の乱>
f:id:naniuji:20191003091005j:plain 承平5(935)年2月、前常陸大掾源護らの抗争に関わり、源護の三兄弟を打ち破り、続いて、将門の父良将の遺領をかってに簒奪していたとされる伯父の国香を襲い殺してしまう(平将門の乱の勃発)。これをきっかけに、関東の土着平氏の一族間で抗争が起こり、叔父の良兼・良正・国香の子貞盛らを打ち破った将門は、国衙にも侵入する。

f:id:naniuji:20191003091031j:plain やがて将門は、武蔵権守興世王を助けて、天慶2(939)年11月、常陸国府軍と戦うこととなり、常陸介藤原維幾を打ち破ると、国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を奪取した。それまで東国での一族間での私闘に過ぎないと見なしていた朝廷も、この事件により朝廷に対しての謀反と判断することになった。



 将門は関東を制圧して「新皇」と自称し独自の除目を行い、関東に独立勢力圏を打ち立てようとした。将門の反乱の報が京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕し、天慶3(940)年1月、参議藤原忠文を征東大将軍に任じ、追討軍を出立させた。

 国香の子平貞盛は、下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵を集めていたが、一方、農作業に兵を返していた将門の手許にはわずかの軍勢しか残っていなかった。しかし将門は、時を失ってはならずとして出陣する。
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 天慶3(940)年2月14日、貞盛と秀郷の連合軍と将門の合戦がはじまった。当初、風に目ぐまれ将門軍は矢戦を優位に展開するが、急に風向きが変わり連合軍は反撃に転じたところ、先頭に立ち奮戦していた将門は額に矢を受け討死する。

 藤原忠文の正規の追討軍の到着する前に、将門の死により、その関東独立国はわずか2ヵ月で瓦解した。将門の首は藤原秀郷によって京にもたらされ、梟首とされた。将門を討った秀郷・貞盛は叙爵され、秀郷はのちの奥州藤原氏の祖となり、忠盛の家系からは伊勢平氏の平清盛が生み出されることとなる。


f:id:naniuji:20191003091236j:plain 中世になると、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために、延慶2(1309)年には神田明神に合祀され、江戸時代には幕府により、神田明神は江戸総鎮守として重視された。

f:id:naniuji:20191003090934j:plain また討ち取られた将門の首は、京都の七条河原にさらされたといわれるが、ある夜、首が己れの胴体を求めて東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京大手町の平将門の首塚である。この首塚を取り除こうとすると事故が起こるとされ、現在でも東京都心に鎮座している。


<藤原純友の乱>
 東国で将門の乱が発生していた承平・天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。藤原純友は藤原北家の出身だが、早くに後見を失い中央での出世はかなわず、従七位下伊予掾として伊予の国に赴任、瀬戸内の海賊を取り締まる側にあった。

 しかしながら、任期後も帰京せずそのまま伊予に土着、承平6(936)年頃までには海賊の頭領となり、伊予の日振島を拠点として周辺の海域を荒らしまわり、瀬戸内海全域に勢力を伸ばした。


f:id:naniuji:20191004204218j:plain 藤原純友の勢力は畿内にもおよび、天慶2(939)年には純友は、部下に摂津国須岐駅において備前・播磨国の介を襲撃させ、翌天慶3(940)年には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。

f:id:naniuji:20191004204349j:plain 朝廷は純友に対し追捕の兵を差し向け、天慶4(941)年5月に博多湾の戦いで、純友の船団を壊滅させた。純友は伊予へ逃れ潜伏するが、6月に伊予警固使により討ち取られる。将門の乱はがわずか2ヵ月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。


 将門と純友は、ともに若い時に京で朝廷に中級官人として出仕していたとされるため、比叡山に登り平安京を見下ろし、ともに乱を起こして都を奪い国を建てようと誓い合ったという伝承がある。将門が桓武天皇の子孫だから天皇になり、純友は藤原氏だから関白になろうと約束したとまことしやかに語られる。
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 しかし両者の共同謀議の痕跡は何もなく、ともに都での出世の途は絶たれて地方に下り、自らの力で地位を確立するために闘っているうち、成り行きから武装蜂起に追い込まれて、朝敵とされてしまったという色合いが強い。


f:id:naniuji:20191004204507g:plain これらの乱は平安朝末の武士団の勃興と結びつけられることが多いが、彼らに「武士団」を組むという明確な意識があったかどうかは疑わしい。中央での出世が望めない下級貴族や舎人などが、国司や荘官として地方に下り、自らの領地を守るために武装したり、武芸をたよりに治安維持の任につくなどし、必要に迫られて武力を蓄えて行った。

 地方勢力どうしで武力闘争を行ううちに、国衙や国司の領域を侵略することにより、反乱を起こす側になったり、それを鎮圧して勲功認定を得ようとする側になったりした。それがやがて、武力を専有した武士として自立していったと考えられる。


(この時期の出来事)
*927.12.26/ 延喜式(律令の施行細則)50巻が完成する。
*930.6.26/ 清涼殿に落雷し、公暁らの死者が出る。
*934.12.27/ 紀貫之が任地土佐の大津を出発し、帰京の途に就く。 
*935.-.-/ 紀貫之が「土佐日記」を著す。
*938.-.-/ 空也上人が、念仏を唱え庶民を教化する。