【10th Century Chronicle 921-940年】
◎承平・天慶の乱
*935.2.-/ 平将門が伯父常陸大掾平国香と前大掾源護と争い、国香を殺す(平将門の乱始まる)。
*935.10.21/ 平将門が叔父の平良正を破る。
*936.7.26/ 平将門が、伯父の下野介平良兼らを破る。
*937.8.6/ 平良兼が、子飼渡で平将門を破る。
*937.9.19/ 平将門が、平良兼を服織宿に破る。
*937.12.14/ 平将門が、平良兼を石井で破る。
*938.2.29/ 平将門が、上京途上の平貞盛を千曲川で破る。
*938.2.-/ 興世王・源経基と武蔵武芝との争いに、平将門が介入する。
*939.3.3/ 武蔵介源経基が上京し、平将門らの謀反を訴える。
*939.11.21/ 平将門が、常陸国府を襲撃し印鎰を奪う。
*939.12.15/ 平将門が、下野についで上野を陥し、新皇と自称して除目を行う。
*939.12.21/ 前伊予掾藤原純友の反乱が報告され、諸国に逮捕を命じる。(藤原純友の乱始まる)
*940.2.14/ 平将門が、平貞盛・藤原秀郷らに敗れ殺される。(4.25藤原秀郷が将門の首を献上する)

*941.6.20/ 藤原純友が、伊予の日振島で殺される。
「承平天慶の乱」は、承平・天慶の元号間の同時期に起きた、関東での「平将門の乱」と瀬戸内海での「藤原純友の乱」の総称であるが、将門と純友が呼応して反乱を起こしたものではない。
<平将門の乱>


将門は関東を制圧して「新皇」と自称し独自の除目を行い、関東に独立勢力圏を打ち立てようとした。将門の反乱の報が京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕し、天慶3(940)年1月、参議藤原忠文を征東大将軍に任じ、追討軍を出立させた。
国香の子平貞盛は、下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて兵を集めていたが、一方、農作業に兵を返していた将門の手許にはわずかの軍勢しか残っていなかった。しかし将門は、時を失ってはならずとして出陣する。

天慶3(940)年2月14日、貞盛と秀郷の連合軍と将門の合戦がはじまった。当初、風に目ぐまれ将門軍は矢戦を優位に展開するが、急に風向きが変わり連合軍は反撃に転じたところ、先頭に立ち奮戦していた将門は額に矢を受け討死する。
藤原忠文の正規の追討軍の到着する前に、将門の死により、その関東独立国はわずか2ヵ月で瓦解した。将門の首は藤原秀郷によって京にもたらされ、梟首とされた。将門を討った秀郷・貞盛は叙爵され、秀郷はのちの奥州藤原氏の祖となり、忠盛の家系からは伊勢平氏の平清盛が生み出されることとなる。


<藤原純友の乱>

しかしながら、任期後も帰京せずそのまま伊予に土着、承平6(936)年頃までには海賊の頭領となり、伊予の日振島を拠点として周辺の海域を荒らしまわり、瀬戸内海全域に勢力を伸ばした。


将門と純友は、ともに若い時に京で朝廷に中級官人として出仕していたとされるため、比叡山に登り平安京を見下ろし、ともに乱を起こして都を奪い国を建てようと誓い合ったという伝承がある。将門が桓武天皇の子孫だから天皇になり、純友は藤原氏だから関白になろうと約束したとまことしやかに語られる。

しかし両者の共同謀議の痕跡は何もなく、ともに都での出世の途は絶たれて地方に下り、自らの力で地位を確立するために闘っているうち、成り行きから武装蜂起に追い込まれて、朝敵とされてしまったという色合いが強い。

地方勢力どうしで武力闘争を行ううちに、国衙や国司の領域を侵略することにより、反乱を起こす側になったり、それを鎮圧して勲功認定を得ようとする側になったりした。それがやがて、武力を専有した武士として自立していったと考えられる。
(この時期の出来事)
*927.12.26/ 延喜式(律令の施行細則)50巻が完成する。
*930.6.26/ 清涼殿に落雷し、公暁らの死者が出る。
*934.12.27/ 紀貫之が任地土佐の大津を出発し、帰京の途に就く。
*935.-.-/ 紀貫之が「土佐日記」を著す。
*938.-.-/ 空也上人が、念仏を唱え庶民を教化する。
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