◎古今和歌集
*905.4.18/ 醍醐天皇が、紀友則・紀貫之らに「古今和歌集」の編集を命じる。(初の勅撰和歌集)
「古今和歌集」は醍醐天皇の勅命によって編纂された、最初の勅撰和歌集であり、延喜5(905)年4月18日に、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、生壬生忠岑らに編纂を命じられたとされる。
古今集には仮名序・真名序の二つの序文が添えられているが、仮名序には紀貫之の署名があり、貫之が編纂の中心になったと見られる。「万葉集」以後の古い時代から撰者たちの時代までの和歌が撰ばれており、一部の長歌・旋頭歌を除けばほとんどが短歌である。
二十巻からなる選出された歌は、四季に分類された歌と、慶賀歌・離別歌・旅情歌・哀傷歌など内容で分類された歌があるが、なかでも恋歌が五巻を占めている。所載歌のうち4割ほどが読人知らずの歌であり、また撰者4人の歌が2割以上を占める。
古今和歌集は中世以降、その講義や解釈が次第に伝承化され、やがて「古今伝授」と称されるものが現れた。これは古今集が、歌を詠む際の手本・基準とすべきものになったことを意味し、一方では新たな革新が為されなくなることでもあった。
古今が歌のお手本という風潮は明治にまでも続くが、一方で、賀茂真淵などにより、「万葉集」の「ますらをぶり」と対比して、古今は「たをやめぶり」すなわち女性的であるとする評などが登場する。
明治には、短歌の革新を目指す正岡子規らから、「万葉集」の和歌が素朴雄大で生活に密着しているのに対して、古今は定型化した花鳥風月を歌う貴族趣味に堕したものだという批判が出された。
現在でも大勢は変わらず、学校の国語教育などでは万葉集が称揚されることが多いが、私自身は高校の古文で初めて、伊勢物語や古今集のロマンに触れて文学に目覚めたという経験もあし、著名文学者にも、三島由紀夫のように古今を高く評価する者も居る。
古今和歌集の冒頭に添えられた、紀貫之による「仮名序」は、古今集編纂の経緯の解説であるとともに、他方で日本で最初の優れた歌論でもある。そこでは、編者紀貫之らの先の時代の優れた歌人たちに言及し、そこで評された僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主の六人は、のちに「六歌仙」と呼ばれるようになる。
なかでも入集30首と最も多い在原業平は、「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし」と評されている。次に多い僧正遍昭は「歌のさまはえたれども、まことすくなし」、唯一の女流歌人小野小町には「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり」と、好きなことを言っている(笑)。
あとの3人は入首は少ないものの、「ちかき世に、その名きこえたる人」と6人並べて触れられているが、文屋康秀は「ことばはたくみにて、そのさま身に負はず」、喜撰法師は「ことばかすかにして、始め終り、たしかならず」、大伴黒主に至っては「そのさまいやし」などとクソミソに評されている。
(この時期の出来事)
*901.1.25/ 菅原道真が大宰権帥に左遷される(昌秦の変)。
*901.8.2/ 左大臣藤原時平らが、勅撰史書「日本三代実録」50巻を完成する。
*901.-.-/ このころまでに「竹取物語」「伊勢物語」ができる。
*903.2.25/ 菅原道真(59)が大宰府で没。
*904.3.-/ 宇多法王が、御室仁和寺を造営し移る。
*907.11.15/ 藤原時平らが延喜格を完成する。
*913.3.12/ 宇多法王が、亭子院歌合を催す。
*914.4.28/ 学者三好清行が、意見封事12ヶ条を提出する。
*920.5.5/ 小野道風が能書により内裏昇殿を許される。
*920.12.28/ 醍醐天皇が皇子高明親王らに源姓を与える。(醍醐源氏)
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