◎藤原基経と摂関家
*884.2.4/ 太政大臣藤原基経が陽成天皇を廃して、23日、陽成天皇の曽祖父任命天皇の第3皇子を即位させる(光孝天皇)。
*887.11.21/ 太政大臣藤原基経が、関白となる(人臣関白の初め)。
*887.閏11.21/ 太政大臣藤原基経の関白辞表に対して、宇多天皇の勅答文が出る。
*888.6.2/ 藤原基経が関白となり、実務に就く(阿衡の紛議)。
*891.1.13/ 藤原基経(56)没。
藤原基経は中納言藤原長良の三男として生まれ、時の権力者で男子がいなかった叔父 良房の養嗣子となった。貞観8(866)年の応天門の変では、左近衛中将として、養父良房の意をくんで動き、大伴氏、紀氏といった名族へ打撃を与えるのに尽力した。
その後も順調に昇進し、貞観14(872)年右大臣を拝すると、同年、摂政だった養父良房が薨去、代わって実権を握った。基経の実妹高子は、清和天皇の女御として第一皇子を生んでおり、貞観18(876)年清和天皇は貞明親王に譲位(陽成天皇)し、新帝は9歳と幼少のため、伯父である基経が摂政となった。
元慶2(878)年、出羽国で反乱を起こした蝦夷を鎮撫せしめ(元慶の乱)、また、元慶3(879)年以降、約50年ぶりに班田収授を実施するなど、行政手腕を発揮し、元慶4(880)年太政大臣に任ぜられる。
元慶6(882)年、陽成天皇が元服するが、この頃から関係が険悪になったもようで、基経は辞職を申し出るが、許されなかった。これは天皇の元服に伴う儀礼的な意味もあるが、基経に政治的な意図もあり、朝廷への出仕を止め、自邸に引き籠ってしまっている。
この確執の背景には、摂政基経と国母である高子との兄妹間の不仲と権力争いがあったとされる。高子が清和天皇との間に貞明親王(陽成天皇)・貞保親王・敦子内親王をもうけたにも関わらず、基経は母方の出自が高くない娘を次々入内させ、外孫の誕生を望んだことなどが、高子の反発を招いたと見ることもできる。
元慶7(883)年11月、宮中で天皇の乳母の子が撲殺される事件が起きた。宮中では陽成天皇が殴り殺したのだと噂され、他にも陽成天皇のいくつもの乱行が表沙汰になった。元慶8(884)年、基経は天皇の廃立を考えたが適材がなく、仁明天皇の第三皇子の時康親王を55歳で即位させた(光孝天皇)。
光孝天皇は即位してすぐ、自身の皇子皇女を全員臣籍降下させて、自らの系統に皇位は継がせない意思を示したが、仁和3(887)年光孝天皇が重篤に陥ると、基経は仲が悪かった妹高子や陽成天皇の皇統を避け、光孝天皇の子で臣籍降下していた源定省を親王に復し、宇多天皇として即位させる。
仁和3(887)年11月17日に即位すると、宇多天皇は先帝の例に倣い大政を基経に委ねる事とし、基経を関白とするの詔をする。勅書に「阿衡の任をもって」とあるのを、阿衡は中国での軽い職位だと言って、基経は言いがかりを付けた(阿衡事件)。
基経が政務を放棄したため、宇多天皇は困り果て、詔勅を書いた橘広相を罷免し、自らの誤りを認める詔を発布する事で決着をせざるを得なかった。この件は、関白藤原基経の権力を、あらためて世に知らしめる事になった。
宇多天皇と基経との関係は一応修復され、政務を執り始め、仁和4(888)年には娘の温子を女御に上げている。寛平3(891)年病床につき薨去。享年56。基経以後、摂政・関白職は藤原氏に継続される(摂関家)。
◎宇多天皇と菅原道真
*886.4.7/ 讃岐国司となった菅原道真が着任する。
*887.11.17/ 光孝天皇が崩御、宇多天皇が即位する。
*894.8.21/ 菅原道真が遣唐大使に任命される。
*894.9.30/ 菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が中止される。
*897.7.3/ 宇多天皇が譲位にあたり、教仁親王(醍醐天皇)に「寛平御遺誡」を与える。
*898.9.18/ 菅原道真が、諸参議の参政を進言する。
*900.8.16/ 菅原道真が「菅家集・菅相公集・菅家文草」の三代家集を献上する。
*900.10.10/ 三善清行が、菅原道真に右大臣退任を勧告する。
*901.1.25/ 菅原道真が大宰権師に左遷される。(昌秦の変)
仁和3(887)年11月17日、光孝天皇の崩御にともない、宇多天皇が即位する。宇多天皇は、実権を握る関白藤原基経による阿衡の紛議など、基経の嫌がらせに悩んだが、寛平3(891)年1月に基経が死去するに及んで、ようやく親政を開始することが出来た。
宇多天皇は藤原氏の外戚がなく、摂政関白も置かず、基経の嫡子藤原時平を参議にする一方、学者の菅原道真を抜擢し重用するなど、藤原北家嫡流ではない人材を活用した。この時期は「寛平の治」と呼ばれ、道真の提言での遣唐使の停止、滝口武者の設置、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われ、また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、多くの歌人を生み出す契機となった。
菅原道真は学者の家系に生まれ、幼少より詩歌に才を見せた。文章生として研鑽をつみ重ね、順調に位階を進めて、世職である文章博士を務める。仁和4(888)年の阿衡事件では、勅書の「阿衡の任」という字句解釈に意見書を寄せて、藤原基経を諌める形で事件の収拾に寄与した。
道真は藤原基経亡き後、宇多天皇の親政下で信任を受けて、要職を歴任することとなる。寛平6(894)年遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とし、遣唐使の停止を提言する。
宇多天皇は寛平9(897)年7月、醍醐天皇に譲位し太上天皇となる。譲位直前の除目では、藤原時平を大納言兼左近衛大将、菅原道真を権大納言兼右近衛大将とし、双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続け、昌泰2(899)年、学者として異例の右大臣となり、藤原時平と菅原道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、道真の朝廷への集権的な政策は藤原氏などの有力貴族の反発を招き、また、儒家としての家格を超えた道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多かった。
昌泰4(901)年正月、道真は従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷される。宇多法皇はこれを聞き、醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、すでに道真の処分は決定されており、4人の男子も流刑に処された(昌泰の変)。
事件の背景には、宇多上皇と醍醐天皇の対立が存在し、醍醐天皇に近づいた藤原時平が、宇多上皇の信任があつい道真の排除に動いたと考えられている。左遷された道真は、大宰府浄妙院で謹慎し、延喜3(903)年2月25日に大宰府で薨去する。享年59。
菅原道真は、死後になってからいくつもの伝説が語られるようになる。彼の死のすぐあと、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神として祀った。その後平安京では疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死するなど凶事が続いた。さらには、御所の清涼殿に落雷し多くの死傷者が出す(清涼殿落雷事件)。
これらは道真の祟りだと恐れられ、朝廷は道真の罪を赦すと共に贈位を行った。清涼殿落雷の事件から、道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
道真の霊は天神信仰と結びつき、道真が亡くなった太宰府では、醍醐天皇の勅命により建立された安楽寺廟、のちの太宰府天満宮に祀られ、その他にも、大阪天満宮(天満天神)など、全国各地に天満宮が祀られるようになった。
やがて恐ろしい怨霊としてではなく、慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになった。また、江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として信仰されるようになった。
(この時期の出来事)
*888.8.17/ 仁和寺が創建される。
*889.5.13/ 桓武天皇の曽孫高望王ら5人に平姓を与える(桓武平氏)。
*889.11.21/ 賀茂臨時祭が初めて行われる。
*892.5.10/ 菅原道真らが、六国史(日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録)の記事を分類した「類聚国史」200巻を完成する。
*893.9.25/ 菅原道真が「新撰万葉集」を編纂する。
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