◎藤原氏内紛と藤原道長と藤原伊周の争い
*986.6.23/ 花山天皇が、藤原兼家らに欺かれて出家、一条天皇に譲位し兼家がその摂政となる。
*987.7.21/ 摂政藤原兼家が、氏長者の公邸 東三条殿を再建する。
*990.1.25/ 藤原兼家の長子道隆の娘定子が、入内する。
*990.5.8/ 藤原兼家が出家し、長子道隆が関白となる。
*990.9.16/ 円融皇太后詮子が出家し東三条院となる。(女院の初め)
*995.4.10/ 関白藤原道隆(43)没。道隆の弟道兼が関白になるが、急死する。
*995.7.24/ 右大臣藤原道長と甥の内大臣藤原伊周が、内裏で激しく口論する。
*996.1.15/ 内大臣藤原伊周・権中納言隆家兄弟が、従者に命じて花山法王に矢を射かける。
*996.4.24/ 伊周は太宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷される。(長徳の変)
*999.11.1/ 藤原道長の娘彰子が入内する。
*1000.2.25/ 中宮定子を皇后に、彰子を中宮とする。道長のごり押しで事実上の二皇后制となる。
*1000.12.16/ 皇后定子(25)が、出産に際して死亡する。
藤原基経の子 「藤原忠平」は、宇多・醍醐天皇と親政が続いたあと、延長8(930)年、幼帝朱雀天皇が即位したため摂政となる。30数年にわたって中枢を占めたため、忠平の子孫が嫡流となり、長子実頼が摂関を継ぐが、兄より優れると評された次男「藤原師輔」が実質を握り、 さらに伊尹・兼通・兼家という3兄弟が官位を高め、娘安子を村上天皇の中宮に送り込むなど、子孫に恵まれた。
師輔は、天徳4(960)年52歳で薨去するが、のちに安子の産んだ子が冷泉・円融天皇として即位するなど、外戚としての関係を強化できたために師輔の家系が主流となり、「九条流」と呼ばれた。師輔の跡は長男 伊尹が継ぐが早く亡くなり、その後継を「藤原兼通」・「藤原兼家」兄弟が激しく争う。
兄の伊尹が摂政として政治を仕切る間、兼家はそれを支えたため、兄の兼通より官位が上回ってしまい、兼通に強く妬まれた。伊尹が49歳で死ぬと、円融天皇との関係が良好だった兼通が氏長者を継ぎ、関白となる。この間、兼家は不遇の時を過ごすが、貞元2(977)年、兼通の死とともに復権する。
天元元(979)年に右大臣に進んだ兼家は、父の遺志を継いで延暦寺横川に恵心院を建立し、かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれた。ぎくしゃくしていた円融天皇との関係も修復され、永観2(984)年、円融天皇は花山天皇に譲位し、詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が東宮に立てられた。
花山天皇は色にふけり、寵愛した女御藤原忯子が急死すると出家すると言い出した。兼家の三男 道兼から出家に追随すると言われて、天皇もその気になって剃髪出家してしまう。藤原兼家・道兼父子の策略は成功し、兼家の娘 詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が即位し、兼家は外戚として摂政となる。
氏長者となった兼家は、右大臣を辞して兼官しない摂政として、官位の上下に拘束されない身となった。兼家は、息子の道隆や道長などの子弟を公卿に抜擢し、氏長者邸として東三条殿の一部を内裏に模して建て替えるなどして、地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。
藤原兼家は永祚元(989)年、嫡男道隆を内大臣に任命、自らは太政大臣に就任し、翌 永祚2(990)年、一条天皇の元服に際して関白に任じられるも、僅か3日で道隆に関白を譲って世襲を確定させて出家、栄華を極めた2ヵ月後に病没した。享年62。
この後、兼家の家系は大いに栄えるが、ここでも確執が発生する。嫡男道隆は長女定子を一条天皇の女御として入内させ、兼家が薨去すると氏長者となり、定子を中宮として帝の外舅となり、次女原子を皇太子妃とするなど、後宮政策を進めるが、長徳元(995)年4月10日薨去。享年43。
道隆が死去すると弟の道兼が関白となるが、就任僅か数日で病で死去する。一条天皇は道隆の嫡子「藤原伊周」を後継にと考えたが、母后東三条院(詮子)が弟の「藤原道長」を強く推したため、天皇は道長を登用する。
道長と伊周の叔父・甥は激しく対立し、長徳元(995)年7月24日には内裏の陣座で諸公卿を前に激しく口論し、その3日後には2人の従者が都で集団乱闘騒ぎを起こしている。一条天皇は道長に「内覧」を許し、さらに右大臣に任じ、道長が藤原氏長者となった。
翌 長徳2(996)年正月、伊周とその弟隆家は女性関係が原因で、花山法皇に矢を射かける事件を引き起こした。ことは露見し4月に罪を責められた伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷されて失脚した(長徳の変)。その年7月に道長は左大臣に昇進し、名実ともに廟堂の第一人者となる。
長保元(999)年11月道長は、一条天皇に長女彰子を女御として入内させ、翌長保2(1000)年2月には、定子を皇后の宮にまつり上げして彰子を中宮とし、事実上の一帝二后を強行した。心労に苛まれた定子は、その年の暮れに第二皇女を出産した直後に崩御し、赦されて帰洛していた兄の伊周は、妹の亡骸を前に慟哭したという。
(この時期の出来事)
*981.7.7/ 円融天皇が、関白藤原頼忠の四条坊門大宮第に移り、譲位後の御所と定める(四条後院)。
*982.10.-/ 学者 慶滋保胤が随筆「池亭記」を著す。
*982.-.-/ この頃、源高明が、朝廷儀式の手引き書「西宮記」を著す。
*985.4.-/ 源信が「往生要集」を著す。
*986.-.-/ この頃、「宇津保物語」ができる。
*994.6.27/ 京に天然痘など疫病が大流行。疫病神横行風評のため、北野船岡山で御霊会を行う。
*996.-.-/ この頃、清少納言が「枕草子」の一部を著す。
*998.-.-/ この頃、勅撰和歌集「拾遺和歌集」ができる。
*999.11.1/ 藤原道長の娘彰子が入内する。
*1000.2.25/ 中宮定子を皇后に、彰子を中宮とする。道長のごり押しで事実上の二皇后制となる。
*1000.12.16/ 皇后定子(25)が、出産に際して死亡する。
藤原基経の子 「藤原忠平」は、宇多・醍醐天皇と親政が続いたあと、延長8(930)年、幼帝朱雀天皇が即位したため摂政となる。30数年にわたって中枢を占めたため、忠平の子孫が嫡流となり、長子実頼が摂関を継ぐが、兄より優れると評された次男「藤原師輔」が実質を握り、 さらに伊尹・兼通・兼家という3兄弟が官位を高め、娘安子を村上天皇の中宮に送り込むなど、子孫に恵まれた。
師輔は、天徳4(960)年52歳で薨去するが、のちに安子の産んだ子が冷泉・円融天皇として即位するなど、外戚としての関係を強化できたために師輔の家系が主流となり、「九条流」と呼ばれた。師輔の跡は長男 伊尹が継ぐが早く亡くなり、その後継を「藤原兼通」・「藤原兼家」兄弟が激しく争う。
兄の伊尹が摂政として政治を仕切る間、兼家はそれを支えたため、兄の兼通より官位が上回ってしまい、兼通に強く妬まれた。伊尹が49歳で死ぬと、円融天皇との関係が良好だった兼通が氏長者を継ぎ、関白となる。この間、兼家は不遇の時を過ごすが、貞元2(977)年、兼通の死とともに復権する。
天元元(979)年に右大臣に進んだ兼家は、父の遺志を継いで延暦寺横川に恵心院を建立し、かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれた。ぎくしゃくしていた円融天皇との関係も修復され、永観2(984)年、円融天皇は花山天皇に譲位し、詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が東宮に立てられた。
花山天皇は色にふけり、寵愛した女御藤原忯子が急死すると出家すると言い出した。兼家の三男 道兼から出家に追随すると言われて、天皇もその気になって剃髪出家してしまう。藤原兼家・道兼父子の策略は成功し、兼家の娘 詮子の産んだ懐仁親王(一条天皇)が即位し、兼家は外戚として摂政となる。
氏長者となった兼家は、右大臣を辞して兼官しない摂政として、官位の上下に拘束されない身となった。兼家は、息子の道隆や道長などの子弟を公卿に抜擢し、氏長者邸として東三条殿の一部を内裏に模して建て替えるなどして、地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。
藤原兼家は永祚元(989)年、嫡男道隆を内大臣に任命、自らは太政大臣に就任し、翌 永祚2(990)年、一条天皇の元服に際して関白に任じられるも、僅か3日で道隆に関白を譲って世襲を確定させて出家、栄華を極めた2ヵ月後に病没した。享年62。
この後、兼家の家系は大いに栄えるが、ここでも確執が発生する。嫡男道隆は長女定子を一条天皇の女御として入内させ、兼家が薨去すると氏長者となり、定子を中宮として帝の外舅となり、次女原子を皇太子妃とするなど、後宮政策を進めるが、長徳元(995)年4月10日薨去。享年43。
道隆が死去すると弟の道兼が関白となるが、就任僅か数日で病で死去する。一条天皇は道隆の嫡子「藤原伊周」を後継にと考えたが、母后東三条院(詮子)が弟の「藤原道長」を強く推したため、天皇は道長を登用する。
道長と伊周の叔父・甥は激しく対立し、長徳元(995)年7月24日には内裏の陣座で諸公卿を前に激しく口論し、その3日後には2人の従者が都で集団乱闘騒ぎを起こしている。一条天皇は道長に「内覧」を許し、さらに右大臣に任じ、道長が藤原氏長者となった。
翌 長徳2(996)年正月、伊周とその弟隆家は女性関係が原因で、花山法皇に矢を射かける事件を引き起こした。ことは露見し4月に罪を責められた伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷されて失脚した(長徳の変)。その年7月に道長は左大臣に昇進し、名実ともに廟堂の第一人者となる。
長保元(999)年11月道長は、一条天皇に長女彰子を女御として入内させ、翌長保2(1000)年2月には、定子を皇后の宮にまつり上げして彰子を中宮とし、事実上の一帝二后を強行した。心労に苛まれた定子は、その年の暮れに第二皇女を出産した直後に崩御し、赦されて帰洛していた兄の伊周は、妹の亡骸を前に慟哭したという。
(この時期の出来事)
*981.7.7/ 円融天皇が、関白藤原頼忠の四条坊門大宮第に移り、譲位後の御所と定める(四条後院)。
*982.10.-/ 学者 慶滋保胤が随筆「池亭記」を著す。
*982.-.-/ この頃、源高明が、朝廷儀式の手引き書「西宮記」を著す。
*985.4.-/ 源信が「往生要集」を著す。
*986.-.-/ この頃、「宇津保物語」ができる。
*994.6.27/ 京に天然痘など疫病が大流行。疫病神横行風評のため、北野船岡山で御霊会を行う。
*996.-.-/ この頃、清少納言が「枕草子」の一部を著す。
*998.-.-/ この頃、勅撰和歌集「拾遺和歌集」ができる。
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