◎「安和の変」と藤原摂関家での権力争い
*967.6.22/ 藤原実頼が関白となる。
*969.3.25/ 藤原師尹らの陰謀により、左大臣源高明が大宰権帥に左遷される(安和の変)。
*969.9.23/ 藤原実頼・師尹が推す守平親王が、11歳で円融天皇として即位し、藤原実頼が摂政となる。
*970.5.20/ 藤原実頼(71)が没し、弟の藤原師輔の子 伊尹が摂政となる。
*973.11.27/ 藤原兼通が関白となる。
*977.10.11/ 藤原兼通が、弟兼家をさけて、関白を藤原頼忠に譲る。
「安和の変」は、安和2(969)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件とされ、この年3月25日、左馬助源満仲らが中務少輔橘繁延らの謀反を密告したことに始まったが、右大臣藤原師尹の企みで、左大臣「源高明」にも謀反の嫌疑がかけられ、大宰権帥に左遷されることになった。
それより前、康保4(967)年に村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位すると、関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。冷泉天皇が病弱だったため、早期に東宮を定めることになり、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王が候補にあげられた。しかし、年長の為平親王は源高明と縁戚があるので、これを排除したい藤原氏が策動し、年下の守平親王を皇太子とした。
源高明は醍醐天皇の第10皇子で、臣籍降下し源の姓を賜与された。光源氏のモデルにも擬せられるほどの尊貴な身分で、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。
康保4(968)年、冷泉天皇の即位に伴い左大臣に昇るが、この時点では藤原師輔や中宮安子もすでに亡く、高明は宮中で孤立していた。そのため、自らの娘を輿入れさせていた為平親王を差し置いて、太政大臣の藤原実頼や右大臣藤原師尹の力で、守平親王(円融天皇)を皇太子に推されてしまう。
安和の変で源高明を失脚させた藤原実頼・藤原師尹の兄弟は、その後一年の間に続いて死去する。一方、より早く亡くなった次男の藤原師輔だが、子孫には恵まれ、村上天皇の中宮安子を始め、広く外戚を結ぶことに成功した。
そのため、師輔の系統は「九条流」と呼ばれ、以後、兼家・道長・頼通と続き、冷泉天皇から後冷泉天皇まで8代にわたる天皇の外戚となり、摂政関白の地位を独占して、藤原北家の全盛期を展開することになる。
(この時期の出来事)
*961.-.-/ この頃、現存の伊勢物語が成立する。
*967.7.9/ 延喜式を施行する。
*970.6.14/ 祇園御霊会が初めて行われる。(祇園祭の初め)
*974.-.-/ 藤原道綱の母の「蜻蛉日記」の記述が終わる。
*976.7.26/ 内裏消失により、円融天皇が関白藤原兼通の堀河第に移る。(里内裏の初め)
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