◎平安朝女流文学
*1001頃/ 清少納言「枕草子」、この頃に成立か。この前年に出仕していた中宮定子が亡くなっている。
*1002頃/ 紫式部「源氏物語」の一部が成る。
*1004頃/ 「和泉式部日記」が完結する。
*1020.9.3/上総 上総介菅原孝標が任期を終え帰京の途につく。菅原孝標の娘による「更級日記」の記述の始まりとなる。
<清少納言「枕草子」>
「清少納言」は実際の名ではなく、父親清原元輔の一字”清”と、身近な人物の官職”少納言”を合わせたもので、女房として出仕した時の呼び名とされる。二度目の夫との間に女子をもうけた後、一条天皇の時代、正暦4(993)年冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。
長保2(1000)年に中宮定子が出産時に亡くなり、それにともなって清少納言は宮仕えを辞した。宮中での出来事など、折に触れて書き留めたものなどをまとめて、この時期に「枕草子」が出来上がったと考えられる。
清少納言が仕えた中宮定子は、父親の藤原道隆が急死し後見を失い、そのこころ細さなどが枕草子にも反映されている。一方で道隆の弟道長が権勢を握り、その子彰子を入内させると、彰子の女房となった紫式部が、清少納言のライバルとして語られることが多い。
しかし実際に紫式部が彰子に仕えたのは、定子が亡くなってかなり後の事であり、両人は面識さえなかった可能性もある。遅れて出仕した紫式部は、その「紫式部日記」で清少納言を悪しざまに貶しているが、それ以前に成立したと見られる枕草子には、紫式部に直接言及した個所は見られない。
「枕草子」は当時の他の女流文学と同じく、 平仮名を中心とした平易な和文で綴られ、洗練されたセンスと鋭い観察眼で、宮中の文物や出来事などを軽妙な筆致で描き出した。「源氏物語」の情的な「もののあはれ」の世界に対して、「枕草子」の方は「をかし」という理知的な感性美の情景を現前させる。
清少納言の感性を端的に顕わしている「ものづくし」的な断章には、「虫は」「木の花は」「うつくしきもの」というような、評価の良いもののチョイスばかりでなくて、「はしたなきもの」「すさまじきもの」というように、自らの感性に合わないものを端的に切って捨てる歯切れの良さも見せる。
日常生活や四季の自然を観察した随想風の断章でも、身近な事物を批評する鋭い視線を煌めかせる。あるいは定子亡きあとから、中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った回想的章段では、当時の様子を懐かしみながら振り返る情の揺らめきも見せるが、「香爐峰の雪は」のように、自身の知性と手柄を自慢げに語る場面も見られる。
「枕草子」という書名は、中宮定子が、兄の伊周から献上された貴重な書き物用の御料紙に、何を書くのがよいかと相談したときの返事として、「枕にこそは侍らめ」と応えたところから来ているという。だが、この「枕」が何を指すのかは明らかではない。
すぐに読めるようにと「枕元に置くべき草子」という意味で「枕草子」と呼ばれたのは分かるが、それは内容を表したものではない。ちょっとした眠る前の読み物とか、備忘録として書き物だとか、あるいは「枕絵」と同様のポルノグラフィーでさえ考えられる。ここは、寝屋での軽い読み物程度に理解しておくべきか。
<紫式部「源氏物語」>
紫式部は、下級貴族で漢詩人、歌人でもあった藤原為時の娘で、結婚して一女を儲けたが夫と死別、その後から「源氏物語」を書き始めたと思われる。寛弘3(1007)年ごろ、藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子に女房兼家庭教師役として仕え始めた。
その当時の女房名は「藤式部」だったとされ、「式部」は父為時の官位に由来している。「紫式部」の「紫」の方は、源氏物語の「紫の上」からとられたもようで、後年になってから呼ばれだした筆者名かと想像される。
彰子に出仕する以前に、藤原道長の正室付きの女房として仕えていたとの説もあり、道長がその才を知って彰子の指導役として引いたのではと考えられる。それを機に宮中に上がった紫式部は、藤原道長の支援の下で物語を書き続け、五十四帖からなる「源氏物語」を完成させることになった。
紫式部が宮中出仕中に綴った日記や手紙は、「紫式部日記」として残されている。むしろこの日記での記述などから、源氏物語の作者が紫式部とされるようになったもので、物語への世人の評判や、同僚女房であった和泉式部・赤染衛門などへの言及もあり、彰子のサロンの盛んなさまがうかがえる。
中宮定子に仕えていた清少納言とは出仕時期がずれており、既存の枕草子の断章などだけから、その人と為りを評価したものと考えられる。清少納言へのライバル心からか、軽薄な賢しらぶりなどと一方的に貶しており、和泉式部・赤染衛門らへのそれなりの評価とは、落差が激しい。
京都御所の東にある天台宗廬山寺は、紫式部の出仕中ないし暇を取ってからの住まったと推定される邸宅跡とされており、そこで源氏物語の筆を執っていたものと推定される。また、紫式部が晩年に住まったとされ、のちに大徳寺別坊雲林院のある紫野の地には、小野篁の墓とともに紫式部の墓とされるものが建てられている。
「源氏物語」は全54帖からなり、その大半は光源氏を主人公とした恋愛物語で、この時期では世界でもまれな大長編である。ただし末の10帖は、光源氏亡きあと、次世代の薫大将と匂宮という二人の貴公子を中心に、宇治を舞台にした物語で「宇治十帖」と呼ばれる。
千年以上前に成立した物語を、近現代の小説・物語と同様に語るのは無理があるが、源氏物語が後世に与えた影響には多大なものがある。江戸元禄期の戯作者井原西鶴は、源氏のパロディとして「好色一代男」を書き、江戸後期には本居宣長が、「もののあはれ論」を展開する。
近代になっても、与謝野晶子ほか多くの文学者が現代語訳を試み、谷崎潤一郎は現代語訳をするとともに、その時の経験を下敷きに、源氏の世界を現代に置きかえた「細雪」をものにしている。
また影響ではないが、海外からはウィリアム・ジェイムズやアンリ・ベルクソンの「意識の流れ」論に沿った、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」やマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」と同様の作品と見なす考え方も現われた。
たしかに、明示されないままにいつの間にか主語が入れ替わってゆくような、源氏物語の息の長い文章を読んでいると、一部の断章をしずかに音読してみるだけでも、夢と現実をない混ぜたような世界が顕われ、時空を超えた男女の人間模様が、重なり合って移ろっていくような想いにとらわれる。
<和泉式部「和泉式部日記」>
あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな 和泉式部
「和泉式部」は、越前守大江雅致の娘として生まれ、長保元(999)年頃には和泉守橘道貞の妻となり和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は、この夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との間に一女をもうけるが、まもなく破綻する。この娘が、後に母親同様に歌才を示す「小式部内侍」である。
帰京して道貞と別居したあと、冷泉天皇の第三皇子為尊親王との関係が表沙汰になり、身分違いの恋だとして親から勘当される。為尊親王が若くして亡くなると、今度はその弟の第四皇子敦道親王(帥宮)の求愛を受け、親王の邸に入ると、正妃の方が家を出てしまう結果となった。
敦道親王との恋の顛末は、物語風の日記「和泉式部日記」に如実に語られているが、和泉式部自身が書いたものかどうかは定かでない。その敦道親王も早世し、寛弘年間の末(1008年-1011年)ごろ、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕する。
この時期の彰子の局は、赤染衛門・紫式部・伊勢大輔らに和泉式部も加わり、華麗な文芸サロンを形成していた。これらの女官は、藤原道長が娘 彰子を引き立てるためにスカウトしてきたものと思われる。
和泉式部には赤裸々に恋を詠んだ歌が多く、実際に恋愛遍歴もあまた伝えられている。そのため、道長から「浮かれ女の扇」と落書きをされたという逸話があったり、また同僚女房であった紫式部からは「(和泉式部は)面白う書き交しける、されど、けしからぬ方こそあれ」などと素行のはしたなさを指摘されている。
長和2(1013)年頃、道長の家司である藤原保昌と再婚し、その任国の丹後に下った。その後、万寿2(1025)年、娘の小式部内侍に先立たれた折には、痛切な愛傷の歌を残している。その後の晩年の動静は不明で、残した歌からは仏道への傾倒していた様子が伺われる。
おほえ山いく野の道のとほければ まだふみもみず天の橋立 小式部内侍
<菅原孝標女「更級日記」>
「菅原孝標女(むすめ)」は、地方貴族菅原孝標の娘というだけで、実の名は伝わっていない。父方は菅原道真の血を引き、母方の伯母には「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母、近親にも学者を輩出し、知的な環境の下で育ったと思われる。
彼女は寛弘5(1008)年に出生、清少納言・紫式部などより後の世代になる。寛仁4(1020)年、彼女の13歳の頃、父の上総介としての任期が終り、3ヵ月ほどかけて京に帰国する。
彼女は伯母から貰った源氏物語を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごすなど、多感な少女時代をおくったとみられる。この頃の家族とともに東国から帰国するあたりから、「更級日記」の記述は始められている。
更級日記は、「日記」とはいえ現在のような形態ではなく、かなりの後になってから、過去の生涯を振り返って綴る回想記風のものである。しかも更級日記は菅原孝標女の存命中に出版されたわけではなく、かなり後に藤原定家によって発見されたものだったようである。
更級日記では、娘時代の夢想的な世界から、その後の親王家への出仕、橘俊通との結婚、一男二女の出産、夫の単身赴任と病死、子供たちが巣立った後の孤独な境遇など、幾多の変遷を経ながら、次第に仏心が深まっていく心境変化が平明な文体で描かれている。
書名の「更級(更科)」は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、「古今和歌集」の一首「わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て(よみ人しらず)」を本歌取りしていることからと言われる。なお「更級」は信濃国( 姨捨山)の枕詞として、本歌で使われているだけである。
作者の菅原孝標女が過ごした半生は、道長からその子頼通へと引き継がれる時代と重なり、平安朝の栄華の絶頂期から、次第に傾いてゆく時期を経験することになる。それに伴って、物語のロマンに心ひかれた少女時代から、やがて孤独な寂寥の境遇の現在へと、時代の流れと自己の境遇が重なってくる。
若きころの夢に浮かれた浅はかさを「いとはかなく あさまし」と批評しながらも、その少女時代の感傷を懐かしみ心の支えとしている自己を見つめている。そのような状況を綴る文章は、近代日本文学の「私小説」などにも通じるものを伺わせる。
菅原孝標女は、源氏物語の系譜をひく「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」の作者ではないかとも言われるが、まだ確証はない。また、「源氏物語」について、最も早い時期に言及したものとして、貴重な史料的価値をも持っている。
(この時期の出来事)
*1001.5.9/ 疫病を祓うため、紫野今宮社で御霊会が行われる。現在も続く「今宮祭・やすらい祭り」の初め。
*1005.9.26/ 陰陽師 安倍晴明(85)没。
*1006.7.27/ 藤原道長が法性寺五大堂を建立する。
*1009.2.20/ 藤原伊周が、中宮彰子とその子 敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛したとして朝参を停止される。
*1011.6.13/ 一条天皇が居貞親王(三条天皇)に譲位し、敦成親王が皇太子となる。
*1012.2.14/ 中宮彰子が皇太后に、女御妍子(道長の娘)を中宮とする。
*1012.9.11/ 僧源信が広隆寺で称名念仏を始める。
*1016.1.29/ 三条天皇が敦成親王(後一条天皇)に譲位し、道長が摂政となる。
*1017.3.16/ 藤原道長の子 頼通が摂政となる。
*1018.10.16/ 中宮妍子が皇太后に、女御威子が中宮となる。
*1018頃/ 「和漢朗詠集」成る。
*1019.3.28/ 刀伊が来襲、壱岐守藤原理忠を殺害する(刀伊入寇)。刀伊は博多への上陸を目指すも、撃退される(4.9)。
*1020.2.27/ 藤原道長が無量寿院(法成寺阿弥陀堂)を建立する。
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