◎平安朝女流文学

*1002頃/ 紫式部「源氏物語」の一部が成る。
*1004頃/ 「和泉式部日記」が完結する。
*1020.9.3/上総 上総介菅原孝標が任期を終え帰京の途につく。菅原孝標の娘による「更級日記」の記述の始まりとなる。
<清少納言「枕草子」>

長保2(1000)年に中宮定子が出産時に亡くなり、それにともなって清少納言は宮仕えを辞した。宮中での出来事など、折に触れて書き留めたものなどをまとめて、この時期に「枕草子」が出来上がったと考えられる。

しかし実際に紫式部が彰子に仕えたのは、定子が亡くなってかなり後の事であり、両人は面識さえなかった可能性もある。遅れて出仕した紫式部は、その「紫式部日記」で清少納言を悪しざまに貶しているが、それ以前に成立したと見られる枕草子には、紫式部に直接言及した個所は見られない。

清少納言の感性を端的に顕わしている「ものづくし」的な断章には、「虫は」「木の花は」「うつくしきもの」というような、評価の良いもののチョイスばかりでなくて、「はしたなきもの」「すさまじきもの」というように、自らの感性に合わないものを端的に切って捨てる歯切れの良さも見せる。

「枕草子」という書名は、中宮定子が、兄の伊周から献上された貴重な書き物用の御料紙に、何を書くのがよいかと相談したときの返事として、「枕にこそは侍らめ」と応えたところから来ているという。だが、この「枕」が何を指すのかは明らかではない。
すぐに読めるようにと「枕元に置くべき草子」という意味で「枕草子」と呼ばれたのは分かるが、それは内容を表したものではない。ちょっとした眠る前の読み物とか、備忘録として書き物だとか、あるいは「枕絵」と同様のポルノグラフィーでさえ考えられる。ここは、寝屋での軽い読み物程度に理解しておくべきか。
<紫式部「源氏物語」>

その当時の女房名は「藤式部」だったとされ、「式部」は父為時の官位に由来している。「紫式部」の「紫」の方は、源氏物語の「紫の上」からとられたもようで、後年になってから呼ばれだした筆者名かと想像される。
彰子に出仕する以前に、藤原道長の正室付きの女房として仕えていたとの説もあり、道長がその才を知って彰子の指導役として引いたのではと考えられる。それを機に宮中に上がった紫式部は、藤原道長の支援の下で物語を書き続け、五十四帖からなる「源氏物語」を完成させることになった。

中宮定子に仕えていた清少納言とは出仕時期がずれており、既存の枕草子の断章などだけから、その人と為りを評価したものと考えられる。清少納言へのライバル心からか、軽薄な賢しらぶりなどと一方的に貶しており、和泉式部・赤染衛門らへのそれなりの評価とは、落差が激しい。
京都御所の東にある天台宗廬山寺は、紫式部の出仕中ないし暇を取ってからの住まったと推定される邸宅跡とされており、そこで源氏物語の筆を執っていたものと推定される。また、紫式部が晩年に住まったとされ、のちに大徳寺別坊雲林院のある紫野の地には、小野篁の墓とともに紫式部の墓とされるものが建てられている。

「源氏物語」は全54帖からなり、その大半は光源氏を主人公とした恋愛物語で、この時期では世界でもまれな大長編である。ただし末の10帖は、光源氏亡きあと、次世代の薫大将と匂宮という二人の貴公子を中心に、宇治を舞台にした物語で「宇治十帖」と呼ばれる。

近代になっても、与謝野晶子ほか多くの文学者が現代語訳を試み、谷崎潤一郎は現代語訳をするとともに、その時の経験を下敷きに、源氏の世界を現代に置きかえた「細雪」をものにしている。

たしかに、明示されないままにいつの間にか主語が入れ替わってゆくような、源氏物語の息の長い文章を読んでいると、一部の断章をしずかに音読してみるだけでも、夢と現実をない混ぜたような世界が顕われ、時空を超えた男女の人間模様が、重なり合って移ろっていくような想いにとらわれる。
<和泉式部「和泉式部日記」>
あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな 和泉式部

帰京して道貞と別居したあと、冷泉天皇の第三皇子為尊親王との関係が表沙汰になり、身分違いの恋だとして親から勘当される。為尊親王が若くして亡くなると、今度はその弟の第四皇子敦道親王(帥宮)の求愛を受け、親王の邸に入ると、正妃の方が家を出てしまう結果となった。

この時期の彰子の局は、赤染衛門・紫式部・伊勢大輔らに和泉式部も加わり、華麗な文芸サロンを形成していた。これらの女官は、藤原道長が娘 彰子を引き立てるためにスカウトしてきたものと思われる。


おほえ山いく野の道のとほければ まだふみもみず天の橋立 小式部内侍
<菅原孝標女「更級日記」>

彼女は寛弘5(1008)年に出生、清少納言・紫式部などより後の世代になる。寛仁4(1020)年、彼女の13歳の頃、父の上総介としての任期が終り、3ヵ月ほどかけて京に帰国する。

更級日記は、「日記」とはいえ現在のような形態ではなく、かなりの後になってから、過去の生涯を振り返って綴る回想記風のものである。しかも更級日記は菅原孝標女の存命中に出版されたわけではなく、かなり後に藤原定家によって発見されたものだったようである。

更級日記では、娘時代の夢想的な世界から、その後の親王家への出仕、橘俊通との結婚、一男二女の出産、夫の単身赴任と病死、子供たちが巣立った後の孤独な境遇など、幾多の変遷を経ながら、次第に仏心が深まっていく心境変化が平明な文体で描かれている。
書名の「更級(更科)」は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、「古今和歌集」の一首「わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て(よみ人しらず)」を本歌取りしていることからと言われる。なお「更級」は信濃国( 姨捨山)の枕詞として、本歌で使われているだけである。


菅原孝標女は、源氏物語の系譜をひく「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」の作者ではないかとも言われるが、まだ確証はない。また、「源氏物語」について、最も早い時期に言及したものとして、貴重な史料的価値をも持っている。
(この時期の出来事)
*1001.5.9/ 疫病を祓うため、紫野今宮社で御霊会が行われる。現在も続く「今宮祭・やすらい祭り」の初め。
*1005.9.26/ 陰陽師 安倍晴明(85)没。
*1006.7.27/ 藤原道長が法性寺五大堂を建立する。
*1009.2.20/ 藤原伊周が、中宮彰子とその子 敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛したとして朝参を停止される。
*1011.6.13/ 一条天皇が居貞親王(三条天皇)に譲位し、敦成親王が皇太子となる。
*1012.2.14/ 中宮彰子が皇太后に、女御妍子(道長の娘)を中宮とする。
*1012.9.11/ 僧源信が広隆寺で称名念仏を始める。
*1016.1.29/ 三条天皇が敦成親王(後一条天皇)に譲位し、道長が摂政となる。
*1017.3.16/ 藤原道長の子 頼通が摂政となる。
*1018.10.16/ 中宮妍子が皇太后に、女御威子が中宮となる。
*1018頃/ 「和漢朗詠集」成る。
*1019.3.28/ 刀伊が来襲、壱岐守藤原理忠を殺害する(刀伊入寇)。刀伊は博多への上陸を目指すも、撃退される(4.9)。
*1020.2.27/ 藤原道長が無量寿院(法成寺阿弥陀堂)を建立する。
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