2023年11月12日日曜日

【GHQ占領と日本】03.「日本国憲法」の公布と施行


 【GHQ占領と日本】03.「日本国憲法」の公布と施行

 GHQの占領体制が一段落すると、GHQは1945(s20)年10月、当時の幣原喜重郎内閣に対し憲法改正を指示した。ポツダム宣言の主旨に基づき、「憲法の自由主義化」と「国民主権の基本原理」を旨として草案が起草され、第90回帝国議会にて可決され、昭和天皇の裁可によって成立した。第1次吉田内閣と昭和天皇によって、1946(s21)年11月3日に公布され、翌1947(s22)年の5月3日に施行された。

 1945(s20)年10月、GHQ最高司令官が「憲法の自由主義化」を指示し、これをうけ日本政府による明治憲法の改正作業が開始され、翌1946(s21)年2月、改正案(憲法改正要綱)が総司令部に提出される。しかし日本政府による憲法改正案は、旧憲法の字句をいじった程度のものでしかなく、GHQの日本民主化自由主義化の意図に沿うものでなかったため、拒否された。

 そこで、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは、「戦争の放棄」「象徴天皇制」「封建制の廃止」という「マッカーサー三原則」を提示し、1946(s21)年2月13日、新憲法のGHQ草案(マッカーサー草案)の起草作業を開始させた。草案の作成作業は、「GHQ民政局」を中心に、局長コートニー・ホイットニーと民政局アメリカ人スタッフなどで行われた。

 その英文の民生局草案をもとに「憲法改正草案要綱(GHQ草案)」が提示され、日本政府はGHQ草案を受け入れることを決定し、GHQ検閲の下で日本語に翻訳してまとめたものを政府案として公表した。その後新憲法案は、大日本帝国憲法の憲法改正手続に従い、帝国議会の審議を経て新憲法案が可決され、1946(s21)年11月3日に公布された。

 この新憲法草案のGHQ介入は、GHQ総司令官マッカーサーと極東委員会の対立をもたらした。「極東委員会」は、日本を連合国が占領管理するために設けられた戦勝国11ヵ国の代表からなる最高政策決定機関と位置ずけられ、日本の憲法改正に関する最終権限も有するとされていた。

 マッカーサーは戦後の日本統治にあたって、日本国民における天皇の存在を認識し、天皇を利用することで統治を効率的に行えると考えていた。極東委員会の中には天皇の戦犯追及を求める国もあったので、極東委員会の介入前に草案決定を急いだという側面もあったようである。

2023年11月11日土曜日

【GHQ占領と日本】02.日本軍武装解除と戦犯の軍事裁判

 【GHQ占領と日本】02.日本軍武装解除と戦犯の軍事裁判

 連合国軍による最初の仕事は、日本全国の軍事施設を解体し旧日本軍の完全武装解除を進めることであった。残存していた兵器類は全てスクラップ化、軍用地はその多くを駐留軍が引き継ぎ、占領政策の礎とした。開発中の新兵器であったロケット戦闘機「桜花」や「潜水空母」とも称される「伊四百型」巨大潜水艦なども、すべて接収され研究環境は破壊された。また民間研究であった理研などのサイクロトロンも、原子爆弾製造の基礎研究と考えられ、完全に破壊され海洋投棄された。

 並行して、軍国主義を推進した戦争犯罪人の逮捕が始まった。連合国軍は占領直後から戦争指導者の検挙を始めて、東條英機元首相を含む数十名を逮捕し、A級戦犯として極東国際軍事法廷の判決で東條以下7名を死刑、その他多数を禁錮刑や終身刑に処している。「極東国際軍事裁判(東京裁判)」は、1946(s21)年5月3日から1948(s23)年11月12日にかけて行われた。

 極東軍事裁判は、ポツダム宣言にもとづき、連合国11ヵ国の裁判官によって構成され、日本の戦争犯罪を裁くため設けられた。この裁判は、「日本の戦争責任」を審判するものとされ、満州事変以来の日本の軍事行動は侵略戦争であると断定された。

 「A級戦犯」は、「平和に対する罪」を犯したものに課せられ、不法に戦争を起こす行為や、その戦争の計画を推進したものとして訴追された犯罪人のことをいい、国家や軍の指導者が大半を占める。それ以外の「通例の戦争犯罪」で訴追されたものが「B級戦犯」で、さらに「C級戦犯」は「人道に対する罪」に問われたものを指すが、具体的には俘虜虐待などが多い。

 東京裁判に対しては、戦勝国による一方的は不当な裁判であるとか、「平和に対する罪」は事後法適用で法理論に反するとかいう批判があるが、そもそも無条件降伏した敗戦国を裁く軍事法廷である以上、とやかく言ってもしようがない側面がある。

 極東軍事裁判開廷以前に論議されたのが、「天皇の戦争責任」であり、戦犯に訴追されるかどうかが注目されたが、事前に昭和天皇は裁かれないことになった。ポツダム宣言受諾にあたって、旧日本国は国体の護持、具体的には天皇の戦争責任の不問を希求していたこと、戦後の占領政策を行うGHQが、秩序維持に天皇の存在の価値を認めたことなどがその理由とされる。つまり、天皇に戦争責任があるが、政治的配慮によって起訴されてなかったということであろう。

2023年3月10日金曜日

【GHQ占領と日本】01.GHQの日本占領政策

 GHQ占領と日本】01.GHQの日本占領政策

 第二次世界大戦で敗北した日本は、1945(s20)年から1952(s27)年の6年間、「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」による占領下におかれた。GHQは、戦前の日本軍国主義体制を解体し、日本をあらたな民主主義国家として再生させるために、「日本の民主化・非軍事化」を急激に進めた。

 1945年8月末、ダグラス・マッカーサー総司令官が厚木に降り立つと、翌9月2日に日本政府が降伏文書調印し終戦が確定する。9月半ばには、接収された第一生命ビルに「連合国軍本部」が設置され、本格的にGHQによる占領政策が開始される。

 占領軍の日本上陸とともに、旧日本軍の武装解除が開始され、10月15日には武装解除が完了する。並行して、「戦犯指定」された人物を逮捕し、これらは「極東国際軍事裁判」で審判に付された。また「自由の指令」と総称される諸指令を発し、「信仰、集会及び言論の自由」を制限していたあらゆる法令の廃止、「特別高等警察の廃止」、「政治犯の即時釈放」などが実施され、一方で、経済産業界の民主化としては、「財閥解体」、「農地解放」などが推進された。

 さらに政治の民主化や政教分離などを徹底するため、大日本帝国憲法の改正が指示され、これは紆余曲折しながらも、「日本国憲法」として、11月3日公布され翌5月3日に施行される。この日本国憲法により、日本国の主権は「国民」にあると定められ、天皇はこれらの統合の象徴であるとされた。

 これら民主化のための諸施策の中でも、もっとも広範に適用され、大きな影響力を及ぼしたのが「公職追放」であった。職業軍人をはじめ、「好ましくない人物」と判断された政治家、経済人、言論人、地方の実力者ら約21万人が追放され、社会的制裁を受けた。公職追放は何段階にも分けて行われ、当初は旧体制の幹部クラスだったのが、やがて地方官僚や警察官や教職員などにも及んだ。

 一連の「日本の民主化・非軍事化」政策は、GHQの政治行政を担当する「民政局(GS)」を中心に実施された。民生局は急進的に民主化政策を推し進め、共産党の合法化や労働運動の推奨など民衆の政治活動を解放し、また旧治安維持法逮捕・服役していた政治犯を釈放した。そして、合法化された共産党や労働組合に基盤を置く社会党など革新政党が、急激に勢力を拡大した。

 「GHQ民生局」が主導した「急進的な日本の民主化」は、共産党や社会党など革新系政党の指導の下で、労働組合活動の急激な活発化を招いた。そして、国全体に社会主義的な機運の高まるなかで、ついに1947(s22)年2月には、日本共産党主導で各労働組合員を総動員する「2・1ゼネスト」が予定告知された。共産党書記長の徳田球一は、吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を目指すと演説した。


 当時の首相吉田茂は、直接GHQにマッカーサーを訪問し、「2・1ゼネスト」が実行されると内閣のみならず日本の体制がひっくり返ると訴えた。そしてやっと事態を把握したGHQ司令長官マッカーサーは、ゼネスト実行前日に中止命令を発した。かくして「2・1ゼネスト」は中止に追い込まれ、伊井弥四郎共闘委員長はNHKラジオのマイクの前で涙しながら、マッカーサー指令によって止むを得ずゼネストを中止することを発表した。

 「2・1ゼネスト」中止をきっかけに、それまで民生局次長チャールズ・ケーディスらが仕切ってきた急進的な対日占領政策は、大きく転換された。占領初期の急激な非軍事化・民主化政策の見直しが始まり、ソ連など共産主義の脅威に対抗するために、日本の自立と安定保守政権の確立が必要だとする考えが高まってきた。

 このような方向転換は「逆コース」と呼ばれ、GHQ内部では、極端な民主化政策を推進してきた「民政局(GS)」局長「コートニー・ホイットニー」や局長代理「チャールズ・ケーディス」に対抗して、「参謀第2部(G2/情報担当)」 部長「チャールズ・ウィロビー」などの保守的勢力が強まった。これらのGHQ内部の対立は、その後の日本の政策に大きな影響を与えていく。

 そして1950年に「朝鮮戦争」が勃発すると、共産主義勢力に対抗するための「逆コース」の流れは決定的となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9

2022年10月22日土曜日

【歴史コラム】31.NHK大河「鎌倉殿の13人」

【31.NHK大河「鎌倉殿の13人」】


 NHK大河「鎌倉殿の13人」を楽しく観てる。とりわけ三谷幸喜の脚本が面白く、ほぼ後半の展開が見え始めた第39回あたりから、主人公北条義時が大きく変貌してゆく。いわゆる「ダーク義時」がその姿を現す。

 ここまで観てきて、物語の構成は、映画「ゴッドファーザー」のファミリーとの葛藤をベースにしていると思った。とりわけ、partⅡで二代目ゴッドファーザーを継承するマイケル・コルレオーネを、義時にかぶせている。

 そして時々はめ込むコメディタッチの場面などは、シェークスピア劇のコメディを踏まえているようで、たんなるドタバタに堕してはいない。

2022年7月12日火曜日

【歴史コラム】30.戦後ショービジネスと風俗小説 / 肉体の門

【30.戦後ショービジネスと風俗小説 / 肉体の門】


 戦後のパンパン(米兵などを相手にした娼婦はこう呼ばれた)風俗を描いた田村泰次郎作の小説「肉体の門」は、大きな話題を呼び、帝都座で新宿空気座によって初演されると、やがて1000回を超えるロングランとなった。「肉体の解放こそ人間の解放である」というテーマが受け入れられたのかどうか、その後何度も映画化やドラマ化された。

 「肉体の門」 (1964年/映画/鈴木清順監督)では、野川由美子(ボルネオ・マヤ)・松尾嘉代(ジープのお美乃)・宍戸錠(伊吹新太郎)というキャスティングで、パンパンたちが盗んできた生きた牛一頭を捌くシーンなど、迫力があった。

 この当時、当方は中高生で、講談社名作全集の「田村泰次郎集」というボロボロの本を、偶然に納屋で見つけて隠れ読みした。昭和25年発行・大日本雄弁会講談社刊となっている。旧漢字旧仮名遣い、戦後すぐの粗雑な酸性紙で変色しており、すり減った活字で印刷されている。それでも頑張って読んだ(笑)

 納屋には、ほかにも江戸川乱歩の猟奇シリーズとかがいっぱいあって、宝の山だった。どうやら好事家のコレクションを、まとめてもらい受けたものと思われる。当時の我が家には、この手のものを読むインテリジェンスはいなかったはずで、どんな経緯で我が家の納屋にあったのか不明である。 1947年8月 新宿・帝都座で初演された空気座による「肉体の門」の大ヒットは、その後の軽演劇に大きな影響を与えた。

2022年7月11日月曜日

【歴史コラム】29.十円硬貨の記憶

【29.十円硬貨の記憶】


 人生最初の記憶は何だったのか。父親が、祖母の田舎である富山に行ってきて、駅で受けとった釣り銭を示しながら、「これが新しい10円硬貨だ」と見せていたという記憶がある。

 十円銅貨は昭和26年から製造を始めたらしい。となると、わたし自身は昭和23年生まれだから、3歳前後の記憶となる。三島由紀夫は「仮面の告白」で、生れたときの産湯を使う時の光景を憶えているなどとデタラメを書いている。

 それはありえないが、3歳の記憶となると、結構早い時期だと思っていた。しかし調べてみると、発行されて流通しだしたのは28年かららしい。それだと5歳の時となるので、それならあり得ると納得した。

 小学生の頃、昭和31年発行の10円硬貨には、製造ミスで金が混じっているので高く売れると、小学生たちの間で噂になった。当時の小遣いは、そのつど10円玉一個もらって駄菓子屋に走るのだが、目を皿のようにして31年の硬貨じゃないかと確認した。

 結局、一度も巡り合わなかった。たまたまその年は、前年までの硬貨がだぶついていたので、一枚も製造されなかったということを、のちになってから知った。

 十円硬貨の表側には、宇治平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)が刻印されている。鳳凰とは、「鳳」が雄、「凰」が雌をあらわす伝説上の霊鳥であり、鳳凰堂の屋根の両端に鳳凰が取り付けられているのが、鳳凰堂という通称の所以である。

 その十円硬貨の鳳凰に、雌雄の区別があるという噂話がある。ネット上で調べても、尻尾が垂れ下がっているのが雄で、跳ね上がっているのが雌だとか、右が雄で左が雌だと断言しているものまである。

 実際には、一枚で雌雄の区別があるのではなく、発行初期のギザ十と呼ばれるタイプのコインに、両方ともに尾の下がったのがあるということだ。これはおそらく、途中から打刻する型枠が変更されたのだろうと思われる。しかし平等院の公式webでは、鳳凰堂の鳳凰に雌雄の違いは無いと断言されている。

 ちなみにギザ十とは、コインの周囲にヘリにギザギザの刻みがある十円玉のことで、昭和26年から昭和33年の間に製造された。本来は、金貨や銀貨の地金価値の高いコインで、周囲を削って地金が盗まれるのを避けるために付けられたもので、十円銅貨のような価値の低いものは、たんなる飾りに過ぎず、現在のものにはこの飾りは無い。


2022年7月10日日曜日

【歴史コラム】28.写真家・林忠彦と無頼派作家

【28.写真家・林忠彦と無頼派作家】


https://cardiac.exblog.jp/17894397/
 これは「紫煙と文士たち」と題した写真展の 展示作品集である。林忠彦という戦後間もない時期から活躍した写真家で、日本の風俗や文士・風景など多岐にわたる写真を撮影した。

 兵隊靴を履いた足でスツールにあぐらをかいて、めずらしく快活そうに酒を飲んで談笑する太宰治を写した有名な一枚の写真、この写真を撮った写真家として林忠彦の名前を知った。

 まだ戦後闇市が多く残る銀座にあったショットバー「ルパン」には、戦争を生き抜いた文士たちが集まった。なかでも「無頼派」と呼ばれる作家が談笑する場として有名になったのは、やはり林忠彦の作品が寄与したのであろう。
 林が「ルパン」で知り合った織田作之助のスナップを撮っていると、「俺も撮れよ」とからんできた酔っ払いが、上記の写真に納まった太宰だったという。その二年後、太宰はショッキングな心中をとげたため、一躍、写真家林忠彦を有名にした。

 紙屑に囲まれた仕事場の座卓で、下着姿のままでペンをとる坂口安吾の光景もまた、林忠の名を世に知らしめた一枚である。上記の織田作や太宰の姿や安吾の仕事風景は、「無頼派」とされる文士たちの文学作品を知らなくても、その作品世界を髣髴とさせる写真だった。

 最年少の織田作之助が、1947年(昭和22年)肺結核のため33歳で没。太宰治は、その翌年1948年(昭和23年)、38歳で三鷹の玉川上水に入水して没する。最も長くまで生きた坂口安吾でさえ、その剛健な身体も、戦後カストリ文化の象徴でもあるヒロポンやアドルムといった過激な覚醒剤・睡眠薬で蝕まれおり、1955年(昭和30年)脳出血で突然死、享年48。

 三者ともに、戦前戦中からすでに頭角を現わし、既成の作家として活躍したが、そのイメージは、戦後闇市・カストリ文化の中で討ち死にした文士として記憶される。「無頼派」という呼称がピッタリとくる所以である。