2023年3月10日金曜日

【GHQ占領と日本】01.GHQの日本占領政策

 GHQ占領と日本】01.GHQの日本占領政策

 第二次世界大戦で敗北した日本は、1945(s20)年から1952(s27)年の6年間、「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」による占領下におかれた。GHQは、戦前の日本軍国主義体制を解体し、日本をあらたな民主主義国家として再生させるために、「日本の民主化・非軍事化」を急激に進めた。

 1945年8月末、ダグラス・マッカーサー総司令官が厚木に降り立つと、翌9月2日に日本政府が降伏文書調印し終戦が確定する。9月半ばには、接収された第一生命ビルに「連合国軍本部」が設置され、本格的にGHQによる占領政策が開始される。

 占領軍の日本上陸とともに、旧日本軍の武装解除が開始され、10月15日には武装解除が完了する。並行して、「戦犯指定」された人物を逮捕し、これらは「極東国際軍事裁判」で審判に付された。また「自由の指令」と総称される諸指令を発し、「信仰、集会及び言論の自由」を制限していたあらゆる法令の廃止、「特別高等警察の廃止」、「政治犯の即時釈放」などが実施され、一方で、経済産業界の民主化としては、「財閥解体」、「農地解放」などが推進された。

 さらに政治の民主化や政教分離などを徹底するため、大日本帝国憲法の改正が指示され、これは紆余曲折しながらも、「日本国憲法」として、11月3日公布され翌5月3日に施行される。この日本国憲法により、日本国の主権は「国民」にあると定められ、天皇はこれらの統合の象徴であるとされた。

 これら民主化のための諸施策の中でも、もっとも広範に適用され、大きな影響力を及ぼしたのが「公職追放」であった。職業軍人をはじめ、「好ましくない人物」と判断された政治家、経済人、言論人、地方の実力者ら約21万人が追放され、社会的制裁を受けた。公職追放は何段階にも分けて行われ、当初は旧体制の幹部クラスだったのが、やがて地方官僚や警察官や教職員などにも及んだ。

 一連の「日本の民主化・非軍事化」政策は、GHQの政治行政を担当する「民政局(GS)」を中心に実施された。民生局は急進的に民主化政策を推し進め、共産党の合法化や労働運動の推奨など民衆の政治活動を解放し、また旧治安維持法逮捕・服役していた政治犯を釈放した。そして、合法化された共産党や労働組合に基盤を置く社会党など革新政党が、急激に勢力を拡大した。

 「GHQ民生局」が主導した「急進的な日本の民主化」は、共産党や社会党など革新系政党の指導の下で、労働組合活動の急激な活発化を招いた。そして、国全体に社会主義的な機運の高まるなかで、ついに1947(s22)年2月には、日本共産党主導で各労働組合員を総動員する「2・1ゼネスト」が予定告知された。共産党書記長の徳田球一は、吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を目指すと演説した。


 当時の首相吉田茂は、直接GHQにマッカーサーを訪問し、「2・1ゼネスト」が実行されると内閣のみならず日本の体制がひっくり返ると訴えた。そしてやっと事態を把握したGHQ司令長官マッカーサーは、ゼネスト実行前日に中止命令を発した。かくして「2・1ゼネスト」は中止に追い込まれ、伊井弥四郎共闘委員長はNHKラジオのマイクの前で涙しながら、マッカーサー指令によって止むを得ずゼネストを中止することを発表した。

 「2・1ゼネスト」中止をきっかけに、それまで民生局次長チャールズ・ケーディスらが仕切ってきた急進的な対日占領政策は、大きく転換された。占領初期の急激な非軍事化・民主化政策の見直しが始まり、ソ連など共産主義の脅威に対抗するために、日本の自立と安定保守政権の確立が必要だとする考えが高まってきた。

 このような方向転換は「逆コース」と呼ばれ、GHQ内部では、極端な民主化政策を推進してきた「民政局(GS)」局長「コートニー・ホイットニー」や局長代理「チャールズ・ケーディス」に対抗して、「参謀第2部(G2/情報担当)」 部長「チャールズ・ウィロビー」などの保守的勢力が強まった。これらのGHQ内部の対立は、その後の日本の政策に大きな影響を与えていく。

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