【GHQ占領と日本】03.「日本国憲法」の公布と施行
GHQの占領体制が一段落すると、GHQは1945(s20)年10月、当時の幣原喜重郎内閣に対し憲法改正を指示した。ポツダム宣言の主旨に基づき、「憲法の自由主義化」と「国民主権の基本原理」を旨として草案が起草され、第90回帝国議会にて可決され、昭和天皇の裁可によって成立した。第1次吉田内閣と昭和天皇によって、1946(s21)年11月3日に公布され、翌1947(s22)年の5月3日に施行された。
1945(s20)年10月、GHQ最高司令官が「憲法の自由主義化」を指示し、これをうけ日本政府による明治憲法の改正作業が開始され、翌1946(s21)年2月、改正案(憲法改正要綱)が総司令部に提出される。しかし日本政府による憲法改正案は、旧憲法の字句をいじった程度のものでしかなく、GHQの日本民主化自由主義化の意図に沿うものでなかったため、拒否された。
そこで、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは、「戦争の放棄」「象徴天皇制」「封建制の廃止」という「マッカーサー三原則」を提示し、1946(s21)年2月13日、新憲法のGHQ草案(マッカーサー草案)の起草作業を開始させた。草案の作成作業は、「GHQ民政局」を中心に、局長コートニー・ホイットニーと民政局アメリカ人スタッフなどで行われた。
その英文の民生局草案をもとに「憲法改正草案要綱(GHQ草案)」が提示され、日本政府はGHQ草案を受け入れることを決定し、GHQ検閲の下で日本語に翻訳してまとめたものを政府案として公表した。その後新憲法案は、大日本帝国憲法の憲法改正手続に従い、帝国議会の審議を経て新憲法案が可決され、1946(s21)年11月3日に公布された。
この新憲法草案のGHQ介入は、GHQ総司令官マッカーサーと極東委員会の対立をもたらした。「極東委員会」は、日本を連合国が占領管理するために設けられた戦勝国11ヵ国の代表からなる最高政策決定機関と位置ずけられ、日本の憲法改正に関する最終権限も有するとされていた。
マッカーサーは戦後の日本統治にあたって、日本国民における天皇の存在を認識し、天皇を利用することで統治を効率的に行えると考えていた。極東委員会の中には天皇の戦犯追及を求める国もあったので、極東委員会の介入前に草案決定を急いだという側面もあったようである。
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