2022年7月6日水曜日

【歴史コラム】24.カール・マルクス 「経哲草稿」より

【24.カール・マルクス 「経哲草稿」より】


《 労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。彼の労働は自発的なものではなく、強いられたもの、強制労働である。したがって、労働は欲求を満足させるものではなく、労働以外のところで欲求を満足させるための手段にすぎない。》

 日本人好みの「経哲草稿」での「労働疎外論」だ。「経哲草稿」が戦後になってから日本に紹介されて、「人間マルクス」としてインテリが飛びついた。同時期にブームになった「実存主義」と重ねて読んだのだろう。

 経哲草稿はマスクス初期の習作的なもので、マルクス自身は疎外論に深入りせず、「物象化」論に発展させていった。この段階では、単にヘーゲルの疎外論を「労働」に持ち込んだだけで、さらにそれを「転倒(唯物論化)」させる必要があったからだ。

 しかしこの疎外論は、実存主義と同様に、なぜか日本人に極めて分かりやすい。ここには「本来の自分」「本来の人間」「本来の人間労働」という思考パターンが、吟味されないままに埋め込まれている。そしてそれは、日本での仏教の「仏性」の考え方、即ち「人は本来、仏である」という思考と同形なのである。

 60年・70年の安保闘争は、マルクス主義を信奉する学生たちの反体制運動で、資本主義体制を倒して社会主義を確立するというものだった。資本家が労働者(プロレタリアート)を搾取するという、労働価値説に基づいており、その搾取のカラクリは、「資本」のダイナミクスを原理的に解き明かした「資本論」で展開されている。

 しかし大半の学生たちは、あの難解な資本論をまともに読んだことも無いのが普通で、「日本の社会は本来こうあるべきだが、一部の人間によりマヤカシに導かれているのはケシカラン」というアジテーションで動員されているに他ならない。大衆運動とはそういうもので、それがマレに世界を変えることもあるということだ。

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