【20._60年70年安保闘争/大学紛争メモ】
◎東大安田講堂事件
1969年1月(s44)、学生に占拠されていた東大安田講堂が、遂に封鎖解除された。この東大安田講堂の攻防は、京都の実家でぼんやりとテレビで観ていた。安田講堂バリケードへの機動隊導入と封鎖解除は、70年安保に向けて燃え上がった反体制運動の決定的な「転回点」となった。
学生および労働者などの活動家は、拠点となる大学に集結していた。東大のバリケードにも、東大全共闘のみならず、全国各地からの各セクトメンバーも集まっていた。最高学府東大の安田講堂は、パリ五月革命のカルチエ・ラタンと同じように、闘争活動の「象徴」となっていたわけだ。
その安田講堂に機動隊が導入され、決定的な落城の模様は逐一テレビなどで放映された。それぞれの立場にあったものからも、「これで終った」と思える事件だったのである。その後、各地の大学拠点にも次々と機動隊が導入され、開放されていった。
そして闘争する学生たちは、すべての「城」から追出された「敗残兵」として各地に散らばるしかなかった。その後は、地下にもぐり、過激暴力化し、孤立化し、内部分裂し、そして連合赤軍の顛末に見られるような自滅の末路をたどったのである。
この安田講堂事件が、「全共闘運動」の転機となった。東大全学共闘会議は、そもそも東大の一般学生が、各所属学部ごとに改革を称えて、一般学生が集まって意見交換会議を開いたのが始まり。それが、東大の全学で連合したものが「全学共闘会議」というわけだ。
ところが、革マル派や中核派など、各自色分けされたヘルの過激派セクト集団は、全共闘組織に入り込んで、実力で主導権を奪おうとした。それで、学内で内ゲバが激しくなり、東大構内でのリンチ殺人ゴッコが常態となっていた。
安田講堂事件の頃ともなると、各セクトが地方の大学から支援部隊を動員して、実力抗争を展開したため、元来の東大一般学生はほとんど排除されてしまっていた。その結果、安田講堂事件での逮捕者には、東大一般学生がほとんど居なかった。
東大封鎖解除によって、全国から動員されていた各セクトの学生は、居場所を失い、地方の母校へ帰って活動を始めた。したがって関西などでも、関東から半年ほど遅れて、東京から追い出されて来た過激派などのリードによって、大学占拠が始まった。
しかし、東大の「聖域」であったキャンパスに、一旦機動隊が導入され封鎖解除されると、雪崩をうつがごとく、他大学でも導入されて、次々と封鎖解除されて行った。そこで大学に拠点を持てなくなった連合赤軍などは、完全にテロ集団化していって、大菩薩峠などで戦闘訓練をやっていたというわけだ。
◎「1969年の1月、あなたはどこにいましたか?」(Where were you in '69?)
(神戸大学全学大衆団交の記録)https://naniuji.hatenablog.com/entry/20140823
同時期に自殺して、後日その日記が刊行されて話題となった高野悦子(立命館大学学生)の『二十歳の原点』に書かれていることと、ほぼ重なる地域で徘徊していたことになる。
その年の夏休みも迫った7月12日、当時の学長代行(ほとんどの大学で学長は心労で病気休養で、学長代行ばかりだった)の提案で、「全神大人結集集会」という名目の全学集会が行われた。神戸市西端の須磨区の団地造成地で行われ、須磨駅前には反対派の学生たちが集結する。私も冷やかしがてらに京都から出かけていった。
須磨駅の改札を出て、さてどうするかと見まわしていると、両側からガッシと腕を固められて、さあ行きましょうと、造成地に向けて坂道を駆け上ることになった。両脇には、薄汚いTシャツ、ジーパンのブスねーちゃん、仕方なしに、デモ隊の先頭に立って会場まで登りつめることになった(笑)
六甲山系を削って造成途中のむき出し赤土の会場は、さながら西部劇の舞台、入り口には屈強な機動隊ががっしり固めていて、両側から挟まれて一列縦隊のみで入場を許された。何をするまでもなく、そのまま機動隊に崖っぷちに追い込まれて万事休す。
会場でぐるりとUターンさせられて、帰るならこちらと誘導され、機動隊にサンドイッチにされながら一人づつ場外に出される。手慣れた機動隊員は、傷がつかないように、両側から腹にパンチや尻キック、眼鏡学生の眼鏡をチョップして落とす。
ということで、眼鏡と折りたたみ傘を失って、一般ノンポリ学生としての私の”闘争”は終焉した。そのときの議決(学長声明を読み上げただけ)とかで、学園封鎖は解除とされ、機動隊導入で簡単に大学は元に戻った。
かくして、大学2年生の夏休み明けから授業が再開された。それまで、自分はほとんど単位を取ってなかったので、教養部(1.5年間)で留年するつもりだったが、封鎖中の教室で、学生が出席簿を焚火にして暖をとったとかで、数枚のレポートだけで単位が取れてしまった。
◎「全学連」と「全共闘」
しかし1955年以降、日本共産党への批判派が登場し「新左翼」と呼ばれた。そして新左翼系の学生たちは、共産党支配下の学連から分離する形で、「反日共系」全学連を結成した。1958年には、新左翼系グループが統合されて「共産主義者同盟」(共産同/ブント)が成立し、各地域の学連の主流派となる。
理論的な対立から、共産同から「革共同」(革命的共産主義者同盟)が分離するなど、新左翼は分裂しながらも、60年安保闘争を主導していく。1960年6月、安保自動承認の期日が迫るなか、連日大規模なデモが行われ、ブント系全学連主導の国会突入事件では、東大生の樺美智子が死亡する悲劇が起こった。
最大の盛り上がりを見せた国会突入事件であったが、6月19日、新安保条約が自然承認され、岸内閣は責任を取って総辞職、経済成長を公約する池田内閣が登場すると、「政治の季節」は終わり一気に学生運動は沈静していった。と同時に、新左翼系団体は分裂を繰り返すことになる。
一方、後年から始まった「全共闘」は、「全学共闘会議」の略で、各大学ごとに一般学生が自主的に集まって、大学の個別的問題を語り合う会として始まった。60年安保後、新左翼系グループは分裂に分裂を繰り返し、政治的な学生運動は低迷しているなかで、分裂した各派が一般学生を巻き込む形で「全共闘運動」が登場した。
東大紛争で有名になった東大全共闘は、東大医学部を中心に、インターンなど研修医の待遇改善運動として始まった。日大全共闘は、大学理事会による多額の使途不明金が露見し、大学の経営陣を批判する集会として始まった。このように「全共闘運動」は、各大学ごとの個別の問題を一般学生が主導して、大学運営側を告発する活動であった。
しかし分裂抗争を繰り返していた新左翼系各派は、その組織力を活用し、一般学生の全共闘をジャックする形で、全共闘運動を牛耳ってゆく。そして70年安保継続が迫るにしたがって、より政治的な反体制運動となり、ゲバルト(暴力闘争)も辞さない急進各派が競い合うようになってゆく。
1969年1月の東大安田講堂攻防のあと、順次、全国の封鎖中大学にも機動隊が導入され、開放されていった。同年9月には「全国全共闘」という全国連合が結成されるも、実質的には各セクトによる「党派共闘」に過ぎなかった。翌70年6月に安保条約が自動継続となると、「学生運動」は急激に萎んでいった。そして大学から追い出された過激セクトは、もはや政治運動とも言えないテロ集団と化していった。
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