【13.お江戸の経済政策】
経済は難しいので正面からは語れないが、半世紀前の学生時代には、なぜか江戸時代の経済史を研究する教官のゼミだったのだ。
将軍綱吉・荻原重秀の拡大路線から、白石から吉宗の緊縮財政、さらに田沼の拡大、松平定信の緊縮引き締め、続く家斉大御所の弛緩財政と、交互に続いた。拡大か緊縮かは、時の経済情勢に対応して行うというのが、現在の財政・金融政策の常識だが、当時はケインズ理論もマクロ経済学も無いどころか、産業経済社会も成立していなかった。
経済指標も揃っていない時代に、何を目安にしたかと言うと、やはり「米」であり、米本位制などともいわれる。戦国が終わって間もない江戸時代の前半では、吉宗の頃あたりまで、米産出量と人口がそろって伸びていた。米本位制の江戸の世の中では、この二つがバランスとって上昇している間はなんとかなる。そして、それが頭打ちになるとその矛盾が表面化してくる。
産業化が進んでいない状態で、いびつな消費経済が進むと、その金は産業資本に転化されることなく、経済拡張は行詰り、いきつくところ商人資本、ないし金融投機資本に流れ込むしかない。荻原、田沼、大御所時代の失敗は、ここに起因する。平成のバブルのようなもんだ。
これは、封建社会の根幹を担っている、武士と農民の没落を意味するわけで、つまり封建的支配の根幹基盤が崩壊してゆくのである。米将軍と呼ばれた吉宗が、何をいちばん気にかけたかと言うと、当然、米相場であり、米価低落を阻止する政策を採る。これはつまり緊縮政策となる。
白石、吉宗、定信らの政策には経済発展などという概念はない。封建経済にもとづく幕藩体制を維持するためには、必然的に緊縮政治を行うことになる。それは彼らの限界であるとともに、江戸幕藩体制の限界でもあったと思われる。
(追補)
グラフは江戸期の人口趨勢と耕地面積の増分(実質的に米収量と見てよい)の対比である。江戸前半期(元禄末)までは、江戸時代の初期は、安定した政治のもとで、順調に人口と米の収穫高は比例して増加している。
ところが、第8代将軍吉宗が「享保の改革」を始めた時期から、ともに横ばいを始める。原因はいろいろ挙げられるが、一つは、あらたに新田開発に向いた土地が不足してきたことがある。また、京都・大坂・江戸などの大消費経済都市が出現したことは、物価高や住居不足などで、農村のように沢山の子供を養えないなど、諸理由がある。
吉宗は「米将軍」と呼ばれるほど米価対策に腐心したが、やはり消費経済が進み過ぎると幕藩体制に軋みが出るのを感じて、多岐にわたる制度改革を実施した。その後も、田沼時代の後をうけて「寛政の改革」、大御所時代の後には「天保の改革」と続くが、後になるほど強権的な引き締めばかりになり、その改革効果も薄くなる。
つまるところ、封建経済にとって、経済成長が不都合なことを示している。米生産と人口がバランスよく伸びているときはよいが、それが停滞し始めると、余剰金は生産投資に向かわず商人資本や金融資本に滞留する。それは、買占めでのぼろ儲けや高利貸しなどの金融投機に流れ込み、その金は紀伊国屋文左衛門のように、小判を遊郭でバラまくような使い道しか見つけられなかったわけだ。
封建時代のような統制政治の場合、統制が困難な経済の発展は、体制崩壊の原因となるのである。今でも強権的統制政治の中国共産党にとって、経済の圧倒的な拡大は、独裁政治の危機であり、それを考えれば、習近平が中国経済に不都合な無茶な政策を進めるのも、当然なのである。
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