【12.素人が考える「レトロ感覚と歴史観」】
江戸時代から昭和の末までを、自分なりにダイジェストしてきた。「歴史」をひと言で表すのは難しいし、確固たる考えがある訳ではないが、それなりに思うことを記しておきたい。
少なくとも言えることは、「事実」をいくら集めても「歴史」にはならないということだ。つまり歴史とはある種の解釈であって、特定の観点に立って「選択された事実」を並べたものだと言える。そして、その観点にあたるものが「歴史観」とされるのだろう。
しかしその歴史観というものが、明示的に示し得るかどうかは定かではない。むしろ記された具象的な歴史から、逆に抽象されてくるものではないか。作家や文筆家において言われる「文体」に相当するようなもので、いわば歴史が綴られる「場」のようなものだと思われる。
私自身が明確な歴史観を持っている訳ではないが、歴史をダイジェスト的に書きながら、漠然と浮かび上がってきたのは、その当時の時代感覚のようなものをつかみたいという考えだった。そのような臨場感と現在からの視点との交わりから、リアルな歴史が浮かび上がってくるのではないだろうか。
さて、自分が育って生きてきた戦後昭和という時代をどう捉えるか。少なくともその時代に育ってきたわけだから、まわりの時代感覚は経験的に感じ取っているはず。しかしその記憶そのままでは歴史にはならない。現在からの視点、大人になって社会性を帯びた視点からの検証を受ける必要がある。
自分の過去の記憶にある事象を、懐かしく思い起こすレトロ感というのがある。それはそれで良いのだが、記憶の中で都合よく変形された記憶なので、そのままで歴史だというわけにはいかない。現在の視線から検証を受けて初めて「歴史化」されるのだと考える。
自分が昭和30年代のことを書くと、Fecebookなどでは読者に、ひと回り以上年下の人が多く、時代感覚がまったく違うのに気付く。レトロな記憶が通じ合うのは双方に同じ時代経験があるからで、それが異なる場合には、やはり歴史化した事象として伝えるしかない。
そういう作業に、今は関心が向いている。自分の経験を記録して残すことは重要だが、いまやりたいこととは少し異なっている。平成に関しては、ほとんどがリアル経験しているわけだから、まだまだ「歴史化」するにはナマ過ぎると思う。平成の時代が終わって、少なくとも十年以上は時間が必要だと思うのであります。
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