【11.藩閥政府と政商岩崎弥太郎・五代友厚】
藩閥政治では、薩長土肥出身者が政府要職を占有し、政治を牛耳ったと言われるが、むしろ、政府要人と民間商人に下った同藩出身者が、政府の資金を私的に流用したことの方が問題がある。
長州出身の「山県有朋」が、政府陸軍大輔として、同じく長州奇兵隊あがりの「山城屋和助」に巨額の陸軍資金を私的に融資し焦げ付かせた山城屋事件があった。山城屋は事が露見して割腹自殺。
「岩崎弥太郎」は、同郷土佐藩の「後藤象二郎」参議とつるんで、戊辰戦争で各藩が乱発した藩札を整理するため、新政府が買い上げるという情報を後藤から得て、事前に藩札を買い集めてぼろ儲けをした、いわばインサイダー取引が出発点。
「五代友厚」は、同じ薩摩藩出身の北海道開拓使長官「黒田清隆」と通じており、黒田が開拓使官有物を五代友厚らに安値・無利子で払下げようとした開拓使官有物払下げ事件に絡んだ。ただし当初、北海道の事業者が払い下げ先であったのだが、資金が不足したので五代が代わって引き受けたという経緯で、疑獄に関わることは無かったといわれる。
維新三傑と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通には大きなスキャンダルはないが、明治10年前後に三人が相継いで亡くなると、第二世代にあたる長州の山県有朋・伊藤博文・井上馨らや薩摩の黒田清隆らは、商人となった後輩の同郷人とつるんで、力(権力)・金・色の三点セットで好き放題やった感じだが、結局、岩崎弥太郎だけが、うまく泳いですり抜けて大成功というわけである。
山城屋事件(山県有朋失脚)や尾去沢銅山事件(井上馨失脚)は、長州勢の失脚とその逆襲として「明六政変(征韓論政変)」につながった。また、開拓使官有物払下げ事件は、伊藤博文と井上馨の長州勢が大隈重信(肥前藩)を追放した「明治十四年の政変」に直結した。
前者は征韓論、後者は憲法制定において漸進派の伊藤(長州)と急進派の大隈(肥前)を巡る政策闘争が表面対立とされるが、実は裏では藩閥と利権をめぐる、このようなどろどろとした争いがあったのだ。
岩崎弥太郎は、龍馬の起こした海援隊を継承する形で海運業に特化した。外国船に太刀打ちできない江戸期以来の廻船業者に代わって、圧倒的に強力な貨客船を擁して日本の海運業を独占した。後藤象二郎が明六政変で下野したあと、大隈重信などの庇護を受けたが、特定の藩閥に拘泥することなく事業を展開し、台湾出兵や西南戦争では政府の軍事輸送を一手に引き受け、膨大な利益を得た。
一方、五代友厚は早くから、近代化事業に必須な鉱物資源に着目し、鉱山業に手を付けると鉱山王と呼ばれるほど大成功した。ただし、新政府の参与職外国事務掛をきっかけに大阪に赴任すると、経済地盤の低下しつつある大阪の産業振興に尽くし、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現大阪市立大学)などを設立するとともに、多くの関西系企業を創設した。
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