2021年1月26日火曜日

【21C_h3 2013(h25)年】

【21th Century Chronicle 2013(h25)年】


◎第2次安倍政権 アベノミクス政策

*2013.3.20/ 日銀新総裁に黒田東彦が就任する。

*2013.4.4/ 日銀は、大規模な金融緩和に転換することを発表する。

*2013.6.14/ 安倍晋三内閣、「日本再興戦略」を閣議決定し、アベノミクスは「三本の矢」で経済成長を目指すとアピールする。

*2013.8.9/ 国の借金が初めて1000兆円を超える。


 2012(h24)年12月に誕生した第2次安倍内閣は、その経済成長政策として「アベノミクス」を掲げた。政策運営の柱になる「三本の矢」は、「第一の矢:大胆な金融政策」・「第二の矢:機動的な財政政策」・「第三の矢:民間投資を喚起する成長戦略」とされた。

 第一の矢の「大胆な金融政策」は、デフレ対策としての量的金融緩和政策であり、リフレーション政策と呼ばれる。具体的には「2%のインフレ目標」「無制限の量的緩和」「円高の是正と、そのための円流動化」「日本銀行法改正」などがあげられる。


 第二の矢の「機動的な財政政策」は公共事業投資などの政府の財政支出で、ケインズ政策に属する。「大規模な公共投資(国土強靱化)」「日本銀行の買いオペレーションを通じた建設国債の買い入れ」など。要するに、政府が赤字国債発行などで借金をし、それを市場にばらまくことで、市場の流通拡大により消費を喚起すること。

 第三の矢としての「民間投資を喚起する成長戦略」は、イノベーション政策・供給サイドの経済学などを採用して、成長産業の投資競争を刺激し、成長力を拡張すること。具体策は「”健康長寿社会”から創造される成長産業」「全員参加の成長戦略」「世界に勝てる若者」「女性が輝く日本」などが並んだ。


 その後、いくつかの修正が加えられたが基本は変わらない。第一・第二の金融と財政政策はマクロ政策であり、経済政策としては両方重ね合わせて適用される。第三は基本的にミクロ政策で、諸分野の構造改革を通じて自由競争を拡大する。

 1990年代初頭のバブル崩壊を発端とし、長期にわたるデフレーションによって停滞した日本経済は、失われた20年といわれた。このような背景のもと、第2次安倍政権は、長期にわたる経済停滞を打破するため、アベノミクスを打ち出して、積極経済政策を展開した。


 2013(h25)年3月、日銀新総裁に黒田東彦が就任すると、日銀は大胆な金融緩和に転じ、大量のベースマネーを供給して、クロダノミクスと呼ばれる金融緩和を実行した。日銀が2%のインフレ目標を掲げ、政府も財政出動をして景気を刺激するというメッセージ効果は、投資家の期待を反映して、株価は東証平均8,000円から、20,000円台に突入するという急上昇を実現した。

  しかし、インフレ目標の2%は一向に達成されないで、一方で国債発行残高は1000兆円に達した。日銀の貸付利率はすでに0%にへばり付いており、金利政策での金融緩和には限界があり、日銀が国債を購入することでベースマネーを供給することになる。日銀が直接国債を引き受けるのは原則禁止だが、市場からの国債買い入れ制限は自主規制枠しかなかった。クロダノミクスはこの枠を無制限に拡大すると宣言した。


  第一の矢と第二の矢は、リフレ派と呼ばれる人たちによって推進された。それは、日本が長らく陥っているデフレ不況を脱するために、量的緩和や日銀の国債引受、ゼロ金利政策の継続など、インフレ目標値を設定した上でのさまざまなマクロ経済政策を推進することだとされた。

 同じく総需要の拡大を目指すケインズ政策では、政府による財政出動による有効需要創出を重視するが、リフレ派は市場への通貨供給の拡大を重視する。これは、流通している貨幣流通量が物価の水準を決定するという、近年の経済学では疑念の持たれている「貨幣数量説」にもとづいており、日銀がお札をどんどん刷って市場に出せば、デフレが収まるというわけである。


 しかし日銀が市中銀行の保有する国債を買い取る形で、銀行の口座に通貨が移転しても、さらにそれが市中に貸出されて初めて市場での流通貨幣量が増えるわけで、デフレで景況が悪い状態では、そもそも借り手が居ない。銀行にお札がブタ積みされているだけでは、インフレ目標2%達成など有り得ないことになる。

  さらに有効需要創出が有効なのは、ケインズが指摘したように「デフレギャップ」が存在するときであり、それは潜在成長力(成長能力)がありながら、需要不足で抑えられている状況のことである。そして潜在成長力は「人口増加率×一人当たり労働生産性上昇率」で示される。


 日本の人口減が半永久的に進むなかで、先進国中最下位の労働生産性のままでは、はたして潜在成長力が期待できるのか。人口増加が困難な状況では、労働生産性を上げるしかない。そしてアベノミクスの第三の矢こそ、それであったはずだが、項目を見る限り、総花的にスローガンを並べただけであった。結局アベノミクスが残したものは、膨大な国債残高という、将来世代への負の遺産でしかなかった。

 そもそもが、インフレ目標を達成すればデフレから脱却するというのは本末転倒の理屈で、経済が活発で好況になるからこそインフレ率が上がるのである。このような発想を、ケインズは「長いベルトを買うことによって太ろうとするようなもの」と切って捨てている。貨幣量は単なる制約要因の一つにすぎないのであり、貨幣量を増やしさえすればデフレ不況から脱却できるというのは、とんでもない間違いなのである。


◎沖縄 普天間基地移転問題

*2013.12.27/ 沖縄県の仲井真知事が辺野古沿岸部の埋め立てを承認する。


 1945(s20)年、沖縄戦の最中に、宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊により中頭郡宜野湾村(現 宜野湾市)に2,400m級滑走路の飛行場が建設された。当時の飛行場建設の目的は、来る日本本土攻略に備えるためだった。

 終戦後の1950(s25)年、朝鮮戦争が勃発すると、共産勢力防衛のため沖縄基地の戦略的重要性が高まったため、宜野湾基地の恒久化を目的とした建設が進められ、1953(s28)年には、滑走路が2,800メートルに延長、ミサイルも配備され、陸軍から空軍に管理を移管された。


 さらに1960(s35)5月、 施設管理権はアメリカ海兵隊へ移管され、民有地は琉球政府が住民から土地を一括で借り上げたうえで米海兵隊に又貸しをし、軍用地料はアメリカ側から琉球政府に支払われたものを住民に分配する方法が採られた。

 1972(s47)年5月、沖縄返還とともに行政事務が琉球政府から日本政府に引き継がれ、日米地位協定に基づく米軍施設となった。そして1974(s49)年1月、一部の無条件返還および移設条件付返還が合意され、その後に一部が返還されるが、主要地域の機能は現在も保持されたままである。


 1995(h7)年の沖縄米兵少女暴行事件を契機に、沖縄の米軍基地に反対する運動や普天間基地の返還要求の運動が高まり、普天間基地の移設問題が持ち上がった。当初は5年から7年以内の返還を目標としており、様々な移設候補地が検討されたが、なかなかまとまらなかった。

 2004(h16)年に沖縄国立大米軍ヘリ墜落事件が起きたことで、地元の返還要求はさらに強まった。当時アメリカ軍は、世界規模での軍再編を実施中であり、日米政府はこれに普天間移設を絡め、基地の移設のみならず、駐留する海兵隊の削減を盛り込んだ交渉の末、削減されることになった海兵隊は、グアムに移転することになった。


 基地の移転計画案も、辺野古周辺で各案を比較した後、2014(h26)年までに代替施設を建設し、移転させるというロードマップが決まった。ところが2009(h21)年に民主党政権の鳩山由紀夫内閣が成立すると、首相自身が「(移転先は)最低でも県外」と発言し、すべてが白紙に戻ってしまった。

 鳩山内閣によって様々な代替案が提示されたが、結局2010(h22)年には県外移設は不可能との結論に達し、再度辺野古のキャンプ・シュワブへの移設で決着したが、腹案無き首相の思い付き発言が、日米双方の現場の努力を無駄にし、10年のロスをもたらした。


 沖縄県宜野湾市の普天間基地は「世界で一番危険な基地」と言われているが、そう言われるようになった根拠は不明で独り歩きしている。2003(h15)年、普天間を上空から視察したラムズフェルド国防長官が述べたとされるが、米政府でももっとも強硬派といわれるラムズフェルドが、どういう意図で述べたのかも定かではなく、普天間移転問題ではその言葉が独り歩きして、もっぱら基地反対派に援用されている。

 移転先決定の経緯は、まず1997(h9)年1月、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ地域が移設候補地とされた。2006(h18)年1月、名護市長に基地建設容認派が推す島袋吉和が当選、2006(h18)年11月、同じく基地建設容認派に推されて仲井真弘多が沖縄知事となる。これらにより、辺野古沿岸を埋め立てる現行案(滑走路V字型配置案)施設案の具体化が進められた。


 しかし、2009(h21)年民主党の鳩山由紀夫政権誕生、2010(h22)年1月、辺野古移設反対派が推す稲嶺進が名護市長に、2014(平26)年11月、辺野古移設反対を公約した翁長雄志県知事が誕生するなどで、基地移設問題は根本的に状況が変わってしまう。

 2013(h25)年12月、第2次安倍内閣の安倍晋三首相は、仲井真 弘多沖縄県知事と会談、大幅な基地負担軽減策を示したことで、仲井真は名護市辺野古沖の埋め立て申請を承認する。しかし2014(h26)年12月、仲井真に代わって就任した反対派の翁長雄志県知事は、あらゆる手段を使って辺野古移転を阻止しにかかる。


 その後の2018(h30)年2月、名護市長選挙で移転推進派の渡具知武豊が当選し、翁長県知事の「オール沖縄」体制は崩れたが、2018(h30)年8月、翁長雄志知事の死去に伴う県知事選挙で、翁長知事の遺志を受け継ぎ玉城デニーが新知事に就任した。玉城知事は翁長同様に基地移転工事に抵抗を続けるが、国側は、すでに基地移転は認可済として、粛々と工事を進めつつある。


(この年の出来事)

*2013.10.8/ 東京三鷹で女子高校生が殺害され、元交際相手の男が逮捕される。

*2013.11.20/ 小笠原諸島の西之島付近で海底火山が噴火し、新島が出現する。

*2013.12.19/ 京都に本社がある「餃子の王将」社長が、本社前で拳銃で撃たれ殺害される。


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