【21th Century Chronicle 2005(h17)年】
*2005.2.8/ ライブドアがニッポン放送の筆頭株主になり、フジサンケイグループと業務提携狙う。
1996(h8)年、東京大学に在学中の堀江貴文らが設立した「オン・ザ・エッヂ」は、インターネット関連ビジネスで急成長を遂げ、東京証券取引所マザーズ市場への上場を果たしてファイナンス力を増すと、いくつもの関連事業を買収して事業拡大、2004(h16)年2月には「ライブドア」と社名変更した。
2004(h16)年6月、日本プロ野球のオリックス・ブルーウェーブとの合併が報道された近鉄バファローズに、ライブドアが買収を申し出た。しかし買収提案を拒否されると、今度はそれまで球団のなかった東北に新球団を設立する計画を発表する。すると後を追うように、オンラインモールの「楽天」も同じく仙台に新球団設立を申請した。
プロ野球選手会が球団削減に反対してストライキを実行するなかで、オリックスと近鉄の合併を強引に承認したプロ野球機構側は、仕方なく1球団減少の穴埋めに新球団を承認する流れに傾いた。旧来の制度に敵対的に参入しようとする新興IT企業ライブドアに対して、楽天は、オーナーらとの人間関係や旧来の球団経営を尊重するなど、古臭いオーナー連を安心させて取り込むのに成功し、ライブドアを出し抜いて「楽天イーグルス」が誕生することになった。
球団経営を拒否されたライブドアは、さらに事業拡大を進め、2005年2月には通信と放送の融合を目指して、AMラジオ放送会社の「ニッポン放送」の株式を取得し筆頭株主となった。ニッポン放送とフジテレビには、その設立の過程から込み入った資本関係があり、小規模なニッポン放送がフジテレビの親会社であるといういびつな状況にあった。
もともとニッポン放送は、財界のバックアップを受けて誕生し、財界から鹿内信隆が送り込まれ社長となると、文化放送と共同してフジテレビの新規免許を取得、さらに経営悪化していた産経新聞社も取り込み、鹿内信隆が「フジサンケイグループ」の統帥となる。
鹿内信隆は1985年に、息子 鹿内春雄にグループ総帥を引き継ぐが、春雄が早逝、一時復帰した信隆も続いて死去し、婿養子 鹿内宏明がグループの議長を継いだ。宏明は先任者以上の権力集中を進め、グループ各社トップとの確執を生んだ。そして、1992年7月、フジテレビ社長日枝久らを中心にクーデターが発生、宏明は解任され鹿内家のグループの経営支配は終焉した。
鹿内家が筆頭株主のままだったので、その持株比率を低下させるためにニッポン放送を東証二部に上場させ、フジサンケイグループにおける鹿内家の影響力を排除した。ただそれにより、第三者がニッポン放送の株式を取得しやすくなったのも事実だった。
以後、フジサンケイグループは実質的にフジテレビを中心として運営されることになったが、そのフジテレビの筆頭株主は、グループ内の一企業で総資産規模もはるかに小さいニッポン放送である、といういびつな構造はそのまま放置され、資本のねじれ現象が続いていた。
2005年1月、鹿内家の株式放出の情報を得たフジテレビ側は、ねじれの解消を目標に、公開買付け(TOB)を発表した。しかし、2月8日午前8時すぎのわずか30分の間に、堀江貴文率いるライブドアが、東京証券取引所の時間外取引で発行済み株式を追加取得し、ライブドアは35%を占める事実上の筆頭株主となった。これに対抗して、フジテレビは目標を重要議決拒否権をもつ25%超以上とするTOBを進め、ニッポン放送を媒介にしたライブドアからの間接支配を排除する方針をとった。
その後も、あらゆる株式売買手法を駆使したライブドアとフジテレビ側の攻防は、裁判所をも巻き込んで錯綜したが、やがてライブドアはフジテレビ株の取得を凍結し、フジサンケイグループとの業務提携交渉を優先させる方針に転じた。
2005年4月18日、ライブドアとフジテレビが和解し、両者が業務提携するとともに、ライブドアグループが所有するニッポン放送株全てをフジテレビに譲渡し、フジテレビがライブドアに出資すると発表され、買収騒動は一旦の解決をみた。
その後もフジテレビは防衛策を進めたが、ライブドアの業務提携は両者間の不信が大きく具体的には進展しなかった。一方で、すでに和解が発表されたころから、検察によるライブドアの粉飾決算の捜査が始まっており、翌2006(h18)年1月23日、証券取引法違反の疑いで堀江貴文・宮内亮治らライブドア幹部が逮捕されるに及び、提携問題も霧散することになった。
*2005.3.25/ 「愛・地球博」が愛知県で開幕する。
「2005年日本国際博覧会(愛知万博)」は愛称「愛・地球博 ”EXPO 2005 AICHI, JAPAN”」として、2005(h17)年3月25日から同年9月25日まで、長久手会場および瀬戸会場の2会場で開催された。日本では、1970(s45)年大阪万博以来の大規模な国際博覧会(旧一般博、現登録博)となった。
「自然の叡智」をメインテーマに、「地球大交流」をコンセプトに、日本の万博史上最多の120を超える国々が参加して開催された。長久手会場は、愛知青少年公園跡地の起伏に富んだ地形を生かし、改変を最小限にとどめ、空中回廊「グローバルループ」で会場全体がひとつに結ばれた。
会場中心にテーマ館のグローバルハウスが設けられ、その他に日本ゾーン・市民参加ゾーン・国内企業ゾーン・森林体験ゾーンなどが区分けされた。また瀬戸会場は、里山の自然が残る緑豊かな会場で、愛・地球博のシンボル的な場所となった。会場までの足には、常設路線として初の磁気浮上式リニアモーターカー「リニモ」が走り、話題となった。
これまで万国博は、「開発型」「国威発揚型」が中心で、国家の開発力や国力のアピール合戦の傾向があったが、国際博覧会条約への改正後初となった愛・地球博では、21世紀の新しい博覧会の形として、人類共通の課題の解決策を提示する「理念提唱型」の万博として開催された。
計画では総事業費は1,900億円と見積もられたが、実績としては総事業費は2,085億円となった。会場建設費については「国庫補助金・関係地方公共団体・民間等」によって負担され、運営費については、入場料収入や営業権利金収入などで賄う計画で、結果的に129億円の黒字を計上した。
「国際博覧会」は、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて開催されるが、それまで「一般博」と「特別博」だったものが、1994(h6)年条約改正によって区分変更され、大規模で総合的な「登録博覧会(登録博)」と、小規模な「認定博覧会(認定博)」という区分となった。
「愛・地球博」は、日本国内で開催される5回目の国際博覧会であり、大規模な総合博覧会としては大阪万博以来2度目であったが、新条約の発効の遅れなどから、旧条約の「特別博」として開催申請することになり、事後的に「事実上の登録博」と認定されている。
愛知万博は構想から開催決定まで10年近くの年月を要し、この間に「開発型」から「環境保全型」へと万博を取り巻く情勢が大きく変わったため、当初は「従来からの開発型の万博」との批判を受けたが、時代に合った強い理念とテーマを発信し、環境保全に万全を期した会場の設計と建設を行い、新しい万博理念に沿った博覧会との評価を得ることになった。
*2005.4.25/ JR福知山線で、脱線による大事故が発生する。
2005(h17)年4月25日午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市久々知にある福知山線塚口駅~尼崎駅間の上り右カーブ区間で、宝塚発JR東西線・片町線(学研都市線)経由同志社前行き快速の前5両が脱線転覆した。うち前4両は線路から完全に逸脱し、先頭の2両は線路脇の分譲マンションに激突、原形をとどめないほどに大破した。
この事故では、乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷し、JR発足以降最悪の死者を出す事故となった。事故列車は、直前の停車駅である伊丹駅でオーバーランしており、この遅れを取り戻すために、当該列車の運転士はかなり慌てていた模様で、区間最高速度の120km/hいっぱいで、事故現場のカーブ区間に入り、耐えきれず脱線転覆したと考えられる。
運転士は事故死しているため供述はとれないが、制限時速70km/hとされた事故現場急カーブに、120km/h近くの速度で侵入し脱線転覆した。運転士の過失は明らかだが、その背景には、その当時JR西日本が採用していた「日勤教育」という、懲罰的な再教育があり、運転士はそれを恐れて焦っていたと想定された。
しかし当時のJR西日本の態勢に、幾つもの問題が指摘される。まず、従来の福知山線は尼崎駅にむけて直進していたが、JR東西線と直通運転するために大きくカーブするように付け替えられていた。そして事故列車は、カーブを曲がり切れず直進する形で、旧線跡に建てられた現場マンションに直撃した。
また、当時のJR西日本は経営のゆとりがなく、安全設備投資に対する動きが鈍かったとされ、当該線区に設置されていた自動列車停止装置 (ATS-SW) は古いタイプのままで、速度超過した列車を自動で減速できなかったとされる。
さらに、JR福知山線は阪急電鉄の路線と競合しており、対抗策としてダイヤ速度競争や正確な定時運行目標が掲げられ、これら過密なダイヤの下での定時運行厳守は、運転士に大きなプレッシャーを与えるものだったとされた。このようなJR西日本の、安全より速度重視の経営姿勢は、事故への間接的要因として大きく作用したと考えられる。
事故後の刑事裁判では、当時の歴代社長などの責任が問われたが、そのほとんどが業務上の注意義務違反の責任は問えないと不起訴となった。その後、検察審査会がJR西日本の歴代社長3人について「起訴相当」と議決した。さらに検察審査会の再度の議決のため自動的に「強制起訴」となったが、最終的には起訴となった歴代社長3名の無罪が確定した。
電車が激突したマンションはJR西日本が買い取り、倒壊の危険があるマンションを撤去し慰霊碑を建てることを提案したが、マンション住民や事故遺族の意見が分かれて紛糾した。しかし、マンション4階までを残し、衝突跡が残る部分などを慰霊施設として保存することで工事が進められ、現在は完成した慰霊施設で、毎年事件日に慰霊式が行われることになっているが、2020(r2)年は新型コロナウイルスの蔓延で、ほとんどの遺族が参加できない状況で行われた。
*2005.8.8/ 郵政民営化法案が参院本会議で否決され、小泉首相は衆議院を解散する。
*2005.9.11/ 小泉郵政解散による第44回衆院選で自民党が圧勝する。
*2005.10.14/ 郵政民営化関連法案が成立する。
かつて、「三公社五現業」と呼ばれる公共企業体ないしは国営企業が存在した。これらは国の根幹ないしインフラを担う必須の事業であり、一方では、自由主義経済の生成期において、脆弱な民間では担えないような資本・労働の集中投入が必要な産業部門であった。
三公社とは、専売公社・電電公社・国鉄であり、五現業には、郵政事業・国有林野事業・国立印刷局・造幣事業・アルコール専売事業があげられる。しかしこれらは、高度成長期が終わる1970年代の終わりごろには、公営としての非効率性や、その独占的地位による民業圧迫など、弊害が目立つようになってきた。
三公社は「土光臨調」などの奮闘により、80年代に順次民営化されたが、五現業では、アルコール専売事業が日本アルコール産業として民営化された以外は、国の直轄必然性が強い事業として、そのまま維持されてきた。
国有林野事業・国立印刷局・造幣事業郵政事業は国固有の事業と言えるが、郵政は郵政三事業と呼ばれるように、「郵便事業」のほかに「郵便貯金」・「簡易保険」という事業を営んでおり、民間の銀行業や保険業と大きく事業分野が重なっており、その全国規模の展開から民業を脅かす存在となっていた。
しかも「郵便貯金」や「簡易保険」という金融関連業務は、全国から膨大な資金が集まり、この資金は日本国政府に貸し出され、政府の一般財政とは別枠の「第二の予算」と呼ばれる「財政投融資」の原資とされた。これらは、旧日本道路公団や住宅金融公庫などの特殊法人へ貸し出されることになっている。
しかしこれら特殊法人は、経営の不透明さや、官僚の天下り先となっている点が批判の対象となった。費用対効果を無視した「どんぶり勘定」の非効率な運営は、多額の赤字を計上し、それらは国の一般会計から補填されることになり、国民の税金の無駄使いとなる。
かねてからの郵政民営化論者であった小泉純一郎は、内閣総理大臣に就任すると、小泉内閣として郵政民営化を重要施策の一つとして掲げ、小泉自身も「行政改革の本丸」であると主張した。
一方で、郵政三事業の民営化は行政サービスの低下につながるとして激しい反対論が、野党はもとより与党である自民党内からも噴出し、衆議院で否決される事態となった。2005年7月衆議院本会議ではかろうじて可決されたものの、参議院本会議で否決されるなど、与党内からも多数の造反議員が出て、紛糾した郵政国会となった。
この結果を受けて、小泉は郵政民営化の賛否を国民に問うとして、衆議院を解散(郵政解散)、郵政民営化に反対した国会議員と徹底対決する「郵政選挙」としてアピールし、「刺客」「小泉チルドレン」などの流行語が飛び交う「劇場型選挙」となった。
そして9月11日に実施された第44回衆議院議員総選挙では、与党で2/3の議席を超える「圧勝」という結果になった。選挙後、自民党は郵政民営化に反対した国会議員に対して、除名や離党勧告などの重い処分を科し、後の特別国会で、10月14日に同内容の関連法案が可決・成立された。
(この年の出来事)
*2005.3.3/ 堤義明コクド前会長が、証取法違反容疑で逮捕される。
*2005.10.1/ 道路公団が民営化される。
*2005.11.17/ 耐震強度偽装事件が発覚する。
*2005.11.22/ 広島 小1女児殺害事件が発生する。
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