2021年1月17日日曜日

【21C_h2 2004(h16)年】

【21th Century Chronicle 2004(h16)年】


◎イラク 自衛隊派遣

*2004.1.9/ イラクの復興支援で陸上自衛隊に派遣命令がでる。

*2004.4.8/ イラクで日本人3人が拘束される。


 自衛隊は日本国憲法第9条のもとで、これまで海外展開は抑制されてきた。しかし冷戦の終結とともに、経済的貢献だけでなく人的な寄与も求められるようになり、1991(h3)年の湾岸戦争終了後、自衛隊の実任務として初めて、自衛隊掃海部隊のペルシャ湾派遣を行うこととなった。

 これをきっかけに、武力紛争の非紛争地域という条件付きで、救難・輸送・土木工事など後方支援などに軽武装の部隊を派遣するようになった。1992年には、「PKO(国連平和維持活動)法」成立と「JDR(国際緊急援助隊)法」改正により、紛争に起因する戦災がPKO、それ以外の自然災害がJDRという区分になった。


 2003(h15)年のイラク戦争に際して、12月に航空自衛隊の先遣隊を派遣したのに続き、南東部のサマワで給水などの活動を行う陸上自衛隊の先遣隊と、イラク国内の飛行場間で輸送活動を行う航空自衛隊の本隊に派遣命令が出され、陸上自衛隊の先遣隊30人が成田空港を出発した。

 自衛隊イラク派遣は、この2003年12月から2009年2月まで行なわれ、「イラク人道復興支援特別措置法案(イラク特措法)」に基づいて実施された。活動の中心は人道復興支援活動と安全確保支援活動であり、活動は「非戦闘地域」に限定するとされたが、事実上は戦闘地域との分別が不可能で、小泉首相は国会討論で「自衛隊の活動している所が非戦闘地域」などと答弁した。


 2004(h16)年1月9日、陸上自衛隊の先遣隊と航空自衛隊の本隊に派遣命令が発令され、やがて順次サマワに到着、海上自衛隊の輸送艦や護衛艦もクウェートに向かい、航空自衛隊のC-130などもイラクでの初任務に就き、2月8日には、陸上自衛隊の本隊第1陣がサマワに到着して派遣部隊の体制が整う。

 しかし4月になると、サマワの宿営地近くに迫撃砲弾のようなものが着弾したり、日本人3名が武装勢力に拉致されるなど、「非戦闘地域」での活動という建前が脅かされる事態が続き、国会でも政府が追及されることになった。


 4月7日に誘拐された3名は、ボランティア・ジャーナリスト・NGO活動員などの民間人で、現地武装勢力の犯行グループは、サマワ駐留自衛隊の撤退を要求するも、小泉純一郎首相はこれを拒否、一方で、人質日本人3人の家族が人質解放を訴えるなど対応は錯綜した。

 その後も、12ヵ国40人前後が人質に捕われるなど混乱は続き、新たに日本人2人が誘拐され、イタリア人人質の1人が殺害されるなど、交渉相手の犯行グループさえ特定できない状態が続いた。しかし4月15日、日本人3名はイラク・イスラム聖職者協会の仲介などで無事解放される。日本政府が身代金を払ったなどと噂されたが、実態はうやむやのままの解決となった。


 当初、後方支援活動から始まった自衛隊の海外派遣活動だが、1992年の「国際平和協力法(PKO法)」の成立は、国連によるPKO活動や国連その他の国際機関等が行う人道的な国際救援活動に参加するための、自衛隊海外派遣の根拠となった。

 しかし派遣される状況はさまざまに異なるため、その都度のPKO協力法改正や特別措置法で対応されることになる。その根本的な背景には、憲法における自衛隊の位置づけが適正に為されていないことがあり、それが解消されない限り、そのつど国会で些末な議論が繰り返さることになる。


◎佐世保 小6女児同級生殺害事件

*2004.6.1/ 長崎 佐世保の小学校で小6女児が同級生を殺害する。


 2004年6月1日午後、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女子児童が、同級生の女児にカッターナイフで切り付けられて死亡するという事件が発生した。被害者の死因は、首をカッターナイフで切られたことによる多量出血だった。動機はインターネットの書き込みをめぐるトラブルであったとされる。

 加害女児N(11)と被害者M(12)は、コミュニティーサイトの提供するウェブサイトを利用し、互いにパソコンでチャットや電子掲示板で書き込みをする仲だったが、Mの書き込みをきっかけに、加害者と被害者の関係は悪化していったという。


 加害女児Nは、当日午前中の授業が終わった後の給食準備中、被害者Mを3階の学習ルームに呼び出し、椅子に座らせ手で目を隠し、背後からカッターナイフで首と左手を切りつけた。首の傷は深さ約10センチ長さ約10センチ、左手の甲には骨が見えるほど深い傷があったという。

 加害女児は、ホラー小説を好んで読み、話題となった小説「バトル・ロワイアル」のファンだった。バトル・ロワイアルでは、無作為に特定のエリアに集められた中学生が殺しあうことを強いられるというストーリーで、その暴力的な内容が話題にされた。ただし、これらの影響が、加害女児Nの行動にどれだけ反映されたかは一概に言えるものではない。


 加害女児Nと被害女児Mとは仲が良く、ウェブサイトや他の子を交えた交換日記での付き合いもあった。二人は地域のミニバスケットボールクラブに所属していたが、5年生の終わり頃に、加害女児Nは中学受験のために退会し、それと並行して精神的に不安定な様子をみせるようになったという。

 6年生になった5月下旬頃、遊びで被害女児Mが加害女児Nをおんぶしたとき、「重い」と言われたことにNが腹を立てたという。さらに被害女児Mがウェブサイトに、Nのことを「ぶりっ子だ」と書いたため、Nはパスワードを使って被害女児のウェブサイトの記述を削除した。これらは一般にみれば些細なことと思われるが、加害女児NはMに殺意を抱くことになったと供述している。


 加害女児は、事件後の自立支援施設で発達障害(広汎性発達障害・アスペルガー症候群)と診断されているが、そうではないという専門家の意見もありさだかではない。ただ、小柄で痩せていたというNが「重い」と言われたのは、ちょっとしたMの冗談かもしれないのに、真に受けて腹を立てたり、ぶりっ子と書かれただけで殺意を抱くというのは、なんでも言葉どうりに受け取るアスペルガー資質が影響しているのかもしれない。

 長崎家庭裁判所の審判では、加害女児は情緒面で同世代より遅れがあり、対人的なことに注意が向きづらい特性、物事を断片的に捉える傾向など、女児Nの性格的傾向を上げているが、これらは障害と診断される程度には至らないとした。1997年の「神戸連続児童殺傷事件」の犯人の少年に見られたような、猟奇性や殺人志向のような性格異常性も、少女Nにはほとんど見られない。 


 この時期のネット上では、加害少女Nの写真が拡散され、”NEVADA”と書かれたパーカーをまとった少女が可愛げに写っているとして、ネットの若者間では「ネバタン」とアイドル視する不謹慎な状況も見られたという。

 性格の異常性ではなく、また衝動的でもない、普通の12歳の少女の殺人をどう捉えるかは、極めてむつかしい。暴力的なゲームや書物の反乱、犯罪の低年齢化、学校生活の疎外感など、社会的時代的背景からの説明は幾つもあるが、この少女の内面はリアルには浮かび上がってこない。

 この事件が起こって間もない時期に考察したものがあるので、それのリンクを貼っておく。「普通の少女の内面形成」の問題として考察したもので、ある種の文学的フィクションでもあると考えてもらいたい。

【長崎小6少女殺人事件】1-4 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20040714


◎アテネオリンピック開催

*2004.8.13/ アテネオリンピックが開幕する。


 「2004年アテネオリンピック」は、2004年8月13日から8月29日までの17日間、ギリシャの首都アテネで開催された。アテネは、古代ギリシャ オリンピアで開催されていた競技の祭典(オリンピア大祭)の中心都市であり、1896年の近代オリンピック第1回大会の開催地ともなった。

 アテネは近代オリンピック開催100周年を記念して、1996年大会の開催都市に立候補したがアトランタに敗れており、その8年後の2004年大会に、ローマとの決選投票に勝ち、108年ぶり2回目の開催となった。


 聖火は、ギリシャのオリンピア遺跡で太陽光を利用して採火され、聖火ランナーによってオリンピック開催地まで届けられることになっている。アテネは採火地と近いため逆に、過去の開催地を中心とした世界5大陸の全てを巡回してから、アテネにまでリレーする試みがなされた。

 開会式では、通常は先頭がギリシャで、以降アルファベット順に出場国の選手団が行進し、最後に開催国の選手団が入場することになっているが、この大会では先頭にギリシャ国旗のみを行進させ、次に出場国の選手団が行進したあと、最後に開催国としてのギリシャの選手団が入場することとなった。


 メイン競技場のアテネ・オリンピック・スタジアムでは、開会式のほか花形の陸上競技が行われ、メダリストにはメダルの他に、古代オリンピックにならいオリーブの枝で作った葉冠が贈られた。そして、会期最終日の男子マラソンは、古代ギリシャの故事にちなんで、マラトンの丘からアテネのオリンピック・スタジアムまでのコースで行われた。

 マラソン競技では、35km地点過ぎまで、快調に先頭を走るブラジルのバンデルレイ・デ・リマ選手が、突然乱入してきた男に抱き着かれ、10数秒の時間ロスとともに大きくリズムを乱され、その後なんとか奮闘して3位でゴールするというアクシデントが起きた。


 水泳競泳競技では、オーストラリアのイアン・ソープが自由形200m・400mで金、100mでも銅と圧倒的な強さを見せ、またソープのあと追うように現れた米のマイケル・フェルプスは、バタフライ100m・200mや個人メドレー200m・400mの金など計8個のメダルを獲得して「水の怪物」と呼ばれた。

 男子バスケットボールでは、アメリカのドリームチームがまさかの銅メダルに終わり、アメリカを破った勢いでアルゼンチンが金メダルを獲得するという番狂わせがあった。一方、サッカーではアルゼンチンが、6試合を戦って17得点0失点という異次元の強さをみせ優勝した。


 アテネ大会では日本選手も各競技で活躍し、競泳男子 北島康介は平泳ぎ100mと200mで日本人初の個人種目2冠を達成した。また女子マラソンでは、シドニーの高橋尚子に続き、野口みずきが金を獲得し、日本女子マラソンの黄金期を示した。

 日本得意の柔道では、男子60kg級で野村忠宏が前人未到の3大会連続で金メダル、また女子48kg級では谷亮子が2大会連続の金メダルを獲得するなど、日本勢は男女合わせて8階級を制覇した。また、体操競技男子団体総合では、日本が28年ぶりの金メダルを獲得した。


◎プロ野球界 再編問題

*2004.9.18/ プロ野球選手会が12球団体制の維持などを求めストライキ。

*2004.11.2/ プロ野球 パ・リーグに楽天が新規参入する。

*2004.12.1/ オリックスと近鉄が合併した新球団「オリックス・バファローズ」が発足する。

*2004.12.24/ ソフトバンクによるダイエー球団の買収が承認される。


 日本プロ野球の再編問題は、戦後、大きく分けて3度数えられる。戦後最初の再編は、1949(s24)年の2リーグ分裂問題であった。戦前は学生野球が圧倒的人気でイロモノ扱いだった職業野球は、敗戦後のGHQの奨励もあり、一気に人気が盛り上がった。

 急激に人気興業化したプロ野球には加盟申請が殺到し、一方、未成熟な既存プロ野球球団側も対応が分裂し、結果、セ・パの2リーグに分裂することになった。セ・リーグとパ・リーグの間での熾烈な引き抜き合戦など、大きな混乱を生みながら、やがて2リーグ12球団体制に落ち着いていった。


 1973(s48)年のプロ野球再編問題は、1リーグ制移行を視野とした日拓ホーム・フライヤーズとロッテ・オリオンズとの合併問題が契機となったが、その背景には、パ・リーグの長年の観客動員不振とオーナー企業の経営不安定があった。そんな中で、1969年から1971年にかけて、西鉄ライオンズを中心に、いわゆる「黒い霧事件」で球界は大揺れとなる。

 西鉄ライオンズは身売りして「太平洋クラブ・ライオンズ」→「クラウンライター・ライオンズ」と次々と名称が変わっていったし、東映フライヤーズも身売りして「日拓ホーム・フライヤーズ」に改称していた。結局、日拓が日本ハム株式会社に球団買収されることにより、1リーグ構想は破綻し2リーグ制は維持されたが、その後もパ・リーグの球団経営問題は続いた。


 パ・リーグでは観客動員策として、指名打者制・予告先発制・プレーオフ制度導入など幾つもの工夫をしたが、セ・リーグとの格差は縮まらず、2004年6月、近鉄バッファローズは、経営不振からオリックス・ブルーウェーブとの合併を発表した。

 この合併構想には、1リーグ制移行を前提にした球団数の削減が含意されていたため、選手数の削減を憂慮したプロ野球選手会は、この合併に強く反発し、ストライキも辞さない決議を含めて、プロ野球全体の改善策を提言した。


 この時期、サッカー界でJリーグが誕生し、強力なライバルのプロスポーツに育ちつつあったため、危機を感じたプロ野球界でも、多すぎる球団を再編成して、8チームでの1リーグ制に凝縮しようという動きがあり、球界のリーダーを自負する読売ジャイアンツのオーナー渡辺恒雄を筆頭に、一部球団オーナーたちが強引にこの構想を進めようと画策し、反対する他のオーナーや選手会との軋轢が高まった。


 選手会側がオーナーたちとの対話を求めている、という情報を耳にした読売オーナーの渡辺が、「たかが選手が、無礼な」などという高圧的な発言をして、選手やファンの声を無視するオーナー側に対して猛反発する感情が強まった。


 水面下では第2の合併構想も進められており、さらにライブドアや楽天が新規参入を表明したりする流動的な状況下で、オリックスと近鉄との合併は一方的に決定された。選手会は「2リーグ12球団維持」を求め、プロ野球機構(NPB)との交渉を持ったもののまとまらず、選手会はついに9月18・19日の2日間にわたって、日本プロ野球史上初のストライキを決行した。

 その後の交渉によって、新規参入の確約など12球団維持の合意を得ることとなり、やっとストライキは停止された。一方で新規参入問題も右往左往して、先行して手を上げていたライブドアと、その行き詰まり状況をみてから名乗り出た楽天とが競う形となり、混迷するプロ野球界の突破口を開く形を作ったライブドアが、世論の支持を受けていたにも関わらず、オーナー同士の人間関係など目に見えない繋がりから楽天が選ばれるなど、プロ野球界の不透明な旧来の体質は温存されたままとなった。


(この年の出来事)

*2004.2.27/ オウム真理教 松本智津夫元死刑囚に死刑判決。

*2004.8.13/ 米海兵隊ヘリが沖縄国際大学に墜落する。

*2004.11.17/ 奈良で小1女児の誘拐殺人事件が発生する。


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