【21th Century Chronicle 2003(h15)年】
*2003.2.1/ スペースシャトル・コロンビア号が大気圏突入で空中分解し、宇宙飛行士7人全員が死亡する。
2003(h15)年2月1日、アメリカの宇宙船スペースシャトル「コロンビア号」が大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の間の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士が犠牲になった。コロンビアは、その28回目の飛行であるSTS-107を終え、地球に帰還する直前であった。事故原因は、打ち上げ時に外部燃料タンクから剥がれ落ちた断熱材の破片が、高速で左翼前縁に衝突し耐熱パネルが損傷していたためだとされた。
コロンビアは、2003年1月16日にケネディ宇宙センターから打ち上げられ、リック・ハズバンド船長ら7人が乗り組み、16日間にわたって地球を周回する軌道上で科学実験など任務をこなした。2月1日午前8時44分ごろ、地球に帰還するため大気圏に突入したが、着水予定の10数分前に交信が途絶え、その後、空中分解によって墜落したと断定された。
コロンビアは打ち上げ直後、外部燃料タンクの断熱材が落下し、シャトルの左翼前縁部に当たり損傷させた。宇宙センターからは、断熱材の塊が左翼前縁部を直撃したことをハズバンド船長に連絡、耐熱材への悪影響はなく帰還には何の心配もないと伝えた。
しかし、帰還のために大気圏に突入した際、衝突による損傷部から超高温の空気が流入したために機体が空中分解したと推定された。断熱材の脱落は過去に頻繁に起きていたが、それまでNASAは抜本的な対策を講じておらず、今回の飛行でも、損傷を甘く判断してそのまま帰還させようとしたことが批判された。
1986年1月のチャレンジャー号の事故では、打ち上げの73秒後に爆発したため、地上のNASA宇宙センターでは為すすべがなかった。一方、コロンビア号では、打ち上げ時に断熱材が剥がれ落ちたのは地上局で認識されていた。しかしこれまでの打ち上げでも、断熱材などの剥落は何度も起こっており、それが深刻な事態を招く事故とは考えられず放置された。
もし断熱材の脱落が危険な状態を招くと予測していれば、NASAには幾つか対応策が考えられた。一つは、当時発射準備作業中であったアトランティスで救出に向かうというものである。通常、シャトルの発射準備には相当な期間が必要であり、急遽救援機を打ち上げるわけにはいかないが、この時はアトランティスが3月1日発射予定に向けて準備に入っていたし、またコロンビアも軌道滞在期間延長が可能で、最長で2月15日までは軌道に滞在することが可能であったとされる。
もう一つは、飛行士の船外活動によって破損箇所を点検し修理する方法である。しかし、コロンビアには、船外活動の飛行士を運ぶカナダ・アームという装置は搭載されていないため、かなりリスクのある活動になり、また修復可能な損傷かも確認できないとして、NASAはこの試みを避けた。
たが、NASA幹部に大気圏再突入時の危険性が認識されていれば、可能な限りの手を打ったであろうし、コロンビア号事故調査委員会も、 少なくとも何も手を打たないよりは飛行士が生還できる可能性は高かったはずである、としている。
コロンビア号事故により、シャトル計画は長期の中止を余儀なくされた。シャトルは国際宇宙ステーション(ISS)の一部区画を宇宙に運搬する唯一の手段であったため、ISSの建設にも大幅な遅延が生じた。シャトルの復帰2005年7月にまでずれ込み、この間、ISSへの飛行士の往還には、ロシアのソユーズ宇宙船に頼るしかなくなった。
スペースシャトル計画自体、宇宙への往還に複数回利用するという採算性から計画されたが、実際には複数回使うのはオービター(シャトル本体)のみで、それ以外の打ち上げロケット部分は従来どうりの使い捨てであり、オービターの再点検整備や事故対策に掛かった費用を含めると、従来の方式を上回ることになった。
事故から1年も経たない頃、ブッシュ大統領は「宇宙開発の展望」を表明し、2010年のISSの完成とともに退役させ、その後は月面着陸や火星飛行のために新規に開発された「有人開発船(Crew Exploration Vehicle)」に置き換えることを明らかにした。
*2003.3.12/ WHOが、新型肺炎のSARS流行で注意を喚起する。
重症急性呼吸器症候群(SARS)は、SARSコロナウイルス (SARS-CoV) によって引き起こされるウイルス性の呼吸器疾患で、動物起源の人獣共通感染症と考えられている。2002年11月に、中華人民共和国広東省で最初のSARS症例が報告され、同月に同省で流行が発生した。
現在の症例定義では、「38度以上の高熱及び咳、呼吸困難、息切れのいずれかの症状」「レントゲン検査において肺炎の症状」を呈し、ウイルス検査で陽性となった者とされており、感染経路としては飛沫感染や接触感染が考えられている。
2002年11月から2003年7月にかけて、中華人民共和国南部を中心に起きたアウトブレイクでは、広東省や香港を中心に8,096人が感染し、37ヵ国で774人が死亡した(致命率9.6% WHO発表)とされ、このアウトブレイク終息後は、いくつかの散発例があったが、現在に至るまで、新規感染報告例は無い。
2003年2月、中国に渡航したアメリカ人ビジネスマンが、飛行中に肺炎様の症状を呈し、ベトナム・ハノイのフレンチ・ホスピタルに搬送されたが、さらに転院先の香港で死亡した。世界保健機関(WHO)のハノイ責任者であったイタリア人医師のカルロ・ウルバニは、いち早く感染危機に気づき、WHOとベトナム政府の連携を要請して感染拡大阻止に尽力したが、彼自身はSARSに罹患して死亡した。
2003年3月12日、WHOはグローバル・アラートを発令し、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) もこれに続いてアラートを発表、これを受けて日本の厚生労働省でも、2003年4月3日に、SARSを感染症法の「新感染症」に指定した。
SARS感染拡大は、トロント、オタワ、サンフランシスコ、ウランバートル、マニラ、シンガポール、台湾、ハノイ、香港で見られ、中国国内では広東省、吉林省、河北省、湖北省、陝西省、江蘇省、山西省、天津市、内モンゴル自治区などに拡大した。
日本では、2003年5月に観光旅行で来日した台湾人医師が、帰国後SARS陽性と分かったが、日本国内での二次感染は確認されず、水際防衛に成功した。海外では、香港を中心とした流行の後、中国本土・カナダ・台湾での流行がこれに引き続いたが、WHOは2003年7月5日、SARS封じ込めの成功を発表した。
封じ込め成功には、カルロ・ウルバニらよるいち早いの情報公開や、各地域における感染者隔離など、いくつもの対策が功を奏したと考えられる。SARSを世界最速で封じ込めたベトナムの例などにみると、意外にもローテクノロジーによる努力が大きかったとされる。
SARSは発症してから感染力を発揮する関係上、院内感染が多く発生し、しかも患者の20%以上が医療関係者であった。そのため、患者の早期入院・隔離と徹底的な院内感染対策がキーとなった。当時ベトナムでは、陰圧室(空気感染を防ぐための隔離室)を備えた病院は少なく、代わりにSARS患者を1つの病院に集め、病室の窓は中庭に開け放ち、換気を徹底して、院内感染を減らしたという。「徹底的な換気」こそが、SARS封じ込めの大きな理由だったのである。
現在猛威を振るっている新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)では、SARSと異なり、発症患者からだけではなく、無症状感染者・潜伏期間中の無症状人・風邪と区別できない軽い症状の人(不顕性感染者)などからも拡散されるため、市中感染が拡大すると隔離対策だけでは対応できないという困難がある。そのため、「エアロゾル感染」対策としての換気以外にも、「飛沫感染」「接触感染」を防ぐために、人との距離(社会的距離)の確保・マスク装着・手の触れる場所の消毒や手洗いなどが重要となる。これらは、何よりも各人の心がけに大きく関わってくるのである。
*2003.3.20/ 米軍主体の有志連合軍がイラクを攻撃、イラク戦争が始まる。
*2003.7.26/ イラク復興支援特別措置法が成立する。
*2003.11.29/ 日本人外交官2人がイラクで殺害される
*2003.12.13/ イラク駐留米軍が、フセイン元大統領を拘束したと発表する。
*2003.12.26/ イラク復興支援で航空自衛隊が出発する。
2003(h15)年3月20日、アメリカは国連決議がないまま、イギリス、オーストラリア等と「有志連合」を結成し、イラクのサダム・フセイン政権が大量破壊兵器保持しているという疑いを理由に、「イラクの自由作戦」と名付けて侵攻を開始した(イラク戦争/第2次湾岸戦争)。2003年5月には、ジョージ・W・ブッシュにより「大規模戦闘終結宣言」が出された。
しかし、ブッシュ大統領が侵攻理由とした大量破壊兵器の発見には至らず、しかもフセイン政権崩壊後のイラク国内の治安は極度に悪化し、内乱状態でその後も戦闘は続行された。やっと2010年8月31日、バラク・オバマにより、改めて「戦闘終結宣言」が出され米軍撤退が始まったが、イラクの治安はいまだ安定しない。
アメリカの介入は、1990年8月 、サダム・フセインのイラク軍が、突然隣国クウェートに侵攻したことに始まる。国際連合安全保障理事会は、即時無条件撤退を求める安保理決議行った。安保理決議にもとづいて、1991年1月、アメリカは「多国籍軍」を結成しイラクに侵攻、フセインのイラク軍を撃破した(湾岸戦争)。
1991年3月3日に暫定停戦協定が結ばれ、イラクにはクウェートへの賠償や大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄・不保持が課されたが、イラク軍の主力は多くが温存され、また、国際原子力機関(IAEA)による核査察をも拒否した。これらフセイン軍事力の温存が、後の懸案事項として残された。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、首謀者はイスラム過激派テロ組織「アルカイダ」と推定され、アメリカは、指導者ウサマ・ビン・ラディンらが拠点としているアフガニスタンを攻撃するが、フセインのイラクも関与しているとの疑いを持った。
ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において「悪の枢軸」発言を行い、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ支援国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、2002年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。
2003年1月9日、国際連合監視検証査察委員会(UNMOVIC)の中間報告では、決定的な証拠は発見されていないものの、イラクの査察非協力も含めて、生物兵器・化学兵器廃棄が確認されないなど、イラク側が申告には虚偽があるとした。これを受けてアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議に違反したものとして攻撃の準備を始めた。
アメリカとイギリスは、攻撃の国連決議採択を行おうとしたが、フランスなどが慎重な態度を示し、決議が否決される可能性が高まると、アメリカとイギリスは決議無しでの攻撃に踏み切ることにした。日本の小泉純一郎首相は、戦闘そのものには参加できないものの、いちはやく「アメリカの武力行使支持」を表明した。
「有志連合軍」は、2003年3月19日に開戦を宣言すると、空襲による「イラクの自由作戦」を開始、翌20日には圧倒的な制空のもとで、陸上部隊が進攻を開始した。湾岸戦争の半部以下の投入兵力だったが、高性能誘導爆弾などハイテク兵器を効果的に用いて、特定の拠点をピンポイントで破壊し、開戦直後にイラク軍の組織的抵抗力をほぼ喪失させた。
5月1日にはブッシュ大統領が「大規模戦闘終結宣言」を発表、連合軍の圧倒的勝利という形で攻撃を終了したが、進攻当時、大規模兵器を早々と放棄し抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍は、小型の武器弾薬をこっそり隠して、地下にもぐりレジスタンス攻撃を継続した。
フセイン政権が強圧的に部族間の対立を抑えていたが、独裁政権が取り除かれたとたんに、イスラム宗派間の対立やクルド人独立運動などが火を噴き、イラクの治安は戦前以上に悪化し、収拾の取れない泥沼化に陥った。
そして、ブッシュ大統領が開戦の理由とした大量破壊兵器は、解放後の捜索でもまったく見つからず「大義なき戦争」となった。さらにアルカイダとの関係証拠も見つからず、解放したはずのイラク国民からは米軍が歓迎されず、そして潜伏した旧イラクのバース党員たちが、テロリスト集団ISIL(イスラム国)で軍事的な部門の重要な担い手になるなど、イラクの混乱を中東全体に拡散するという最悪の結果をもたらした。
*2003.6.19/ 女子学生への集団暴行事件で早大生らが逮捕される。
早稲田大学のインターカレッジ・サークル(大学間横断的なサークル)で、イベント開催などを企画する「スーパーフリー」のメンバーである大学生らが、1998年4月頃から常習的に女子大生らへ輪姦を行っていたことが判明し、犠牲になった女性の数は数百人にのぼると言われる。
2003年5月18日、警察に被害届が出され発覚したが、早稲田大学の他にも東京大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、日本大学といった著名大学の学生らも関わっていたことで世間を驚かせた。これら大学の学生ら14人が準強姦罪で実刑判決を受け、この事件の重大さから、翌2004年には集団強姦罪・集団強姦致死傷罪が創設された。
起訴されたのは3件の輪姦事件についてのみだが、それ以前から数年にわたって組織的に行われており、被害届が出されず立件できなかった案件は多数あった。そのため、関与し事情聴取された者は多くいたとみられるが、14人以外は逮捕されず、通称「スーフリギャルズ」と呼ばれた女性メンバーにも、輪姦を幇助した女性が多数存在したとされる。
逮捕のきっかけは、2003年5月18日、東京都港区六本木のビル12階にある居酒屋での二次会で、代表者Wら5人が、当時20歳の女子大生を泥酔させ、ビル11階のクリニック入口の玄関マットで輪姦するという事件からだった。被害者が被害当日に、警視庁麻布警察署に被害届を提出したことから発覚した。
この事件で、輪姦を行ったスーパーフリーの代表者W及び男子大学生メンバーらが、強姦容疑で麻布署に逮捕され、さらなる捜査で、それ以前2001年12月19日と2003年4月27日の事件も立件され、最終的に代表Wら14人が実刑判決を受けることになった。
Wは中央大学に1993年に入学するが、八王子の山間のキャンパスには思惑がはずれ、1994年4月、都心にある早稲田大学の政経学部に再入学することとなった。Wは入学直後に、街で先輩に偶然声をかけられ、その先輩が所属していたスーパーフリーに入会する。
スーパーフリーは、1982年に早稲田大学に設立された老舗のイベント系サークルであったが、当時は飲み会を月1回開く程度のサークルで、2年生になったWは、1995年6月に第15代目の代表になるが、中心スタッフは男3人だけという小規模なサークルであった。
1995年9月から、Wは六本木のディスコクラブ兼イベントスペース ヴェルファーレでバイトを始め、そこで見聞きしたイベントなどからノウハウを得る。ヴェルファーレのバイトを辞めた1998年4月、Wはスーパーフリーのイベントを六本木のクラブで開き、この企画は500人以上を集める大成功を収め、これを機にイベントにのめり込むようになる。
これをきっかけとして、他大学の学生も関与するインカレサークルとなり、イベントの情報交換なども活発になり、スーパーフリーは変質していった。他大学のイベントサークルであったという輪姦事件の話も耳に入り、その時期開いたサークルの飲み会で、泥酔した2人の女性を自宅に連れ込み、数人で輪姦した。
特に問題化されることなくうまくいったことに味をしめ、その後、逮捕されるまでの5年間、回を重ねるにしたがって、スーフリの輪姦の手口は洗練されていった。代表者Wが作り上げた輪姦システムは、Wを頂点に輪姦の序列までも決められ、飲み会盛り上げ役、事後の慰撫係りなど役割分担が作られ、さらにターゲット女性を安心させるためにと、勧誘役の女性メンバーもリクルートされた。
2001年にはスーパーフリーは、イベントビジネスを行う有限会社となって、大阪・名古屋などに支部を持って全国展開するようになった。スパーフリーはすでに学生サークルの域をはるかに超えており、一流会社に就職したOB、イベントに参加したタレント、広告企画会社、マスコミ、会場を仕切る半グレや族集団など、幅広いコネクションを持った組織となっており、リーダーたちは、ビジネスや芸能界の花形になったような錯覚に陥っていたようだ。
時期的には、「ベンチャー」や「起業」といった言葉が流行り、学生起業がブームとなり、早稲田大学も一時はスーフリを公認サークルに認定するなど、積極的にベンチャー起業を支援するという風潮があった。そんな流れに乗って、スーフリも出来の悪い芸能プロダクションのようになって行ったのであろうと思われる。
(この年の出来事)
*2003.2.11/ 自殺サイトで知り合った男女3人が集団自殺する。
*2003.3.28/ 日本初の情報収集衛星の打ち上げに成功する。
*2003.11.14/ 大卒就職内定率60%と、就職氷河期が続く。
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