【21th Century Chronicle 2002(h14)年】
*2002.1.1/ 欧州12ヵ国で、単一通貨ユーロが流通開始される。
2002(h14)年1月1日より、ヨーロッパの単一通貨「ユーロ(€;EUR)」の紙幣と硬貨の流通が、ドイツやフランスなど12ヵ国で開始された。3億人の市民が共通の貨幣のもとで生活することになり、ヨーロッパの経済統合は新しい段階に進んだ。
ヨーロッパに単一通貨が必要とされた理由は、欧州連合としての政治的統合の一環として、関税撤廃以来の実体経済の統合と、ブレトン・ウッズ体制崩壊以降の為替相場の不安定化に対応した、通商政策上の問題への対策である。
歴史的には、1970年、ルクセンブルク首相のピエール・ヴェルネらが構想した「ヴェルネ計画」で単一通貨の導入に触れられていたが、ブレトン・ウッズ体制の崩壊のために挫折した。しかし1972年には欧州為替相場同盟が、1979年には欧州通貨制度が導入され「欧州通貨単位(ECU)」が創設された。
欧州通貨制度は各国の通貨の相場が大きく変動することを防ぐものであり、欧州通貨単位ECUの紙幣が発行されることはなかったが、欧州での取引単位として使われ、のちのユーロの基礎となった。そして、1988年、当時の欧州委員会委員長ジャック・ドロールのもとで「ドロール報告書」が作成され、経済通貨統合にむけて具体的なステップが示された。
EUにおける政治的統合とともに、経済的統合は不可欠であり、しかもはるかに複雑な処理が必要となる。EEC(ヨーロッパ経済共同体)以来、経済的な自由化は段階的に進められてきたが、EU(ヨーロッパ連合)という政治的一体化を実現するには、経済的な完全域内単一市場化が必須で、EU共通の経済政策を一元化する必要がある。
そのために「ドロール報告書」では、具体的な3つのステップを提示した。第1段階としては、欧州経済共同体の加盟国のあいだで「資本の自由な移動」が可能となった。続いて第2段階では、統一的な通貨政策が可能な「欧州中央銀行の設立」が前提とされ、その前身である欧州通貨機構が設立された。そして最後の第3段階として、統一通貨「ユーロの発行と流通」である。
統一通貨ユーロに先立ち、1979年3月からはバスケット通貨として「欧州通貨単位(ECU)」が、欧州連合の計算単位として使用されていたが、その後の1999年1月に、銀行間取引など非現金取引を対象に「ユーロ」が導入され、そしてこの2002年1月、単一通貨「ユーロ(€;EUR)」の紙幣と硬貨の発行流通が開始され、名実ともに欧州統一通貨が実現されたのである。
しかし、1992年の「欧州連合条約(マーストリヒト条約)」では、ユーロの導入にあたって厳しい収斂基準を満たさなければならないとされた。各国それぞれの経済情勢で、一定の財政の均衡を維持し、物価や金利の安定性を維持することが必要とされた。この収斂基準を満たさない加盟国は、一定の猶予期間のあとから加盟を許される。また、ユーロを通貨としていまだ導入していないすべての欧州連合加盟国も、収斂基準を満たして単一通貨ユーロを導入することが義務づけられている。
ユーロ圏の成立により、アメリカ・ドル圏に次ぐ大規模市場が形成され、従来のような為替相場リスクが避けられるとともに、ユーロ圏内での通商や経済協力が増大することが期待され、加盟国の経済成長をもたらす大きな要因となった。また、世界通貨ドルに対抗しうる唯一のグローバルな通貨として、ヨーロッパの国際競争力と発言力を高める役割が期待された。
しかし一方では、内部にそれぞれ異なる経済状勢をもつ特殊な経済圏が、ユーロという単一の通貨を持つことは、それぞれ個別に適切な金融政策を打ち出すことが困難となる弊害がある。また、単一通貨への参加による為替相場の固定によって、域内地域格差があるなかで、それぞれに適した為替レート政策を取ることができない。
上記のような不均等問題は、単一市場単一通貨のもとで、徐々に均等化されていくはずであったが、現状はむしろ、その格差が拡大する方向に働いている。そしてそれらの不満は、個別の国の内部での政治不満へと向かい、EUの危機の大きな一因となりつつある。
*2002.1.17/ 文科省「学びのすすめ」が公表される。
*2002.4.6/ 学校週5日制 毎週土曜日が休みの完全実施なる。
「ゆとり教育」とは、文部科学省(旧文部省)が提示した正式な名称ではなく、1980年代から始まったゆとりある学校をめざした教育方針であり、各教科の指導内容の精選と大幅な授業時間削減が具体的な特色である。ゆとり教育の範囲も曖昧で、1980(s55)年度から施行された学習指導要領による教育方針、1992(h4)年度から施行された「新学力観」に基づく教育や、さらには、2002(h14)年度から施行された「生きる力」を重視する教育を、狭義のゆとり教育であるとする説もある。
1980(s55)年度施行の学習指導要領からは、「ゆとりのある学校生活」を目標とし、思考力を付けることを目指した学習内容が盛り込まれ、受け身の学習から能動的・発信型の学習への転換が図られたが、並行して学習量及び時間の大幅削減が進められた。しかし、国際学力テストなどで順位を落とすなど学力低下が指摘され、各方面から批判が起こった。
そして2007(h19)年6月、安倍政権下の教育再生会議が授業時間増加を提言し、安倍内閣が授業時間数の1割増の方針を示すなどし、「脱ゆとり教育」と称される方向に転換された。文科省はゆとり教育でも詰め込み教育でもなく、生きる力をはぐくむ教育として、ゆとり教育からの方針転換とは明言していないが、「ゆとり教育と決別」と表現するなど、流れが転換されたことは明らかである。
ゆとり世代と言っても幅があるが、狭義のゆとり教育(2002年実施の学習指導要領)を受けた世代は、1987(s62)年度から2004(h16)年度生まれとなる。ただしそれ以前からゆとり教育の一部は導入されているから、1970年代後半生まれあたりから「ゆとり教育」の影響を受けていることになる。
ゆとり教育が本格導入される前史として、それまでの戦後教育に対する反省があった。第2次世界大戦後の日本の教育は、戦前への反省もあり、「生活・経験」を重視する教育が重視された。しかし戦後生まれの団塊世代などが学齢になると、大人数学校・大人数教室に生徒があふれ、それらを効率よく指導するために、「系統・構造」重視のカリキュラムが進められたが、これは「詰め込み教育」につながった。
並行して高度成長経済が進行すると、経済的余裕が進学熱を高め、受験戦争などと呼ばれる過当な知識詰込み競争などで、弊害が顕著となってきた。知識暗記中心の教育は、自主性・創造力の欠如をもたらし、一方で、高度で過密な教科内容から落ちこぼれる生徒を多く生み出した。
そのような状況をふまえ、1970年代の教育界で大きな発言力を持った日本教職員組合(日教組)が、「ゆとりある学校」を提起し、授業時間の削減などが行われた。一方で、当時の中曽根内閣は、文部省と日教組の力関係だけで行われる教育政策に疑問を呈し、内閣主導で民間有識者による「臨時教育審議会(臨教審)」を発足させた。
臨教審では「公教育の民営化・自由化」という流れのなかで、「個性重視・生涯学習体系・国際化情報化」というキーワードで、学校教育と社会教育の分担などで教育の枠を広げ、学校教育に「ゆとり教育」を導入する答申をまとめて、それらは1993(h5)年度施行の学習指導要領に反映された。
さらに、校内暴力・いじめ・不登校など、学校教育や青少年にかかわる社会問題を背景に、橋本内閣下の1996(h8)年7月、中央教育審議会の第1次答申が発表され、全人的な「生きる力」の育成が必要であるとした。そして1998(h10)年、小渕内閣下で新学力観として「生きる力」を重視し、完全学校週5日制実施など学習内容や授業時間を削減するという、本格的な「ゆとり教育」をスローガンとした学習指導要領が成立した。
この学習指導要領は、小中学校では2002(h14)年度(高等学校では2003年度)から施行されたが、学習内容を削減した分、「総合的な学習の時間」や各教科で「調べ学習」など能動的に思考力を付ける学習内容が盛り込まれた。しかし、「新学力観」や「生きる力」といった抽象的な理念を掲げても、それを実現する手法・具体策が備わっておらず、学習到達度調査(PISA)などの国際学力テストでは、数値で示される学力低下が明らかとなり、各方面から批判がまき起こった。
「ゆとり教育」の評価は立場によりまちまちであるが、「ゆとり側」が提示した「生活力」や「創造力」というような理念は客体的に示せないものであり、一方で従来の教育で偏重していたとされる「知識量」のなどは、学習到達度調査のようなテストで数値的に示されるので、後者での批判が強調されがちである。
いずれにせよ、何か能力的に不備があるような様子が見られると、「ゆとり世代だから」と揶揄されるような状況が現実にあるならば、間接的にせよそれが無用な混乱をもたらしたとは言えるだろう。
*2002.5.31/ サッカーW杯 日韓大会が開幕する。
「2002 FIFAワールドカップ」は、2002(h14)年5月末から6月末にかけての1ヵ月、日韓2ヵ国共同で開催された。 大会招致にあたっては、いち早くW杯開催立候補の意思表示をし、招致活動を開始していた日本が先行したが、日本の立候補を知った韓国は、「アジア初」をかけて日本に続く形で立候補を表明、国を挙げての招致活動に乗り出した。
対抗戦実績では上だとのプライドからも、韓国は「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。事実上2国の候補争いとなり、FIFA視察団が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックしたが、視察団は日本の開催能力を高く評価するなど、状況は圧倒的に日本優勢で進んでいた。
並行して、これまで20数年にわたってFIFA会長を務めてきたアヴェランジェ会長の改選時期が近づいており、ブラジル出身のアヴェランジェに対抗して、欧州勢力はヨハンソンUEFA会長を推し、次期会長職を巡って2大勢力の南米と欧州が対立し始める。
アヴェランジェ会長派は日本開催を支持していたが、対抗する反会長派の欧州理事たちは、日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進しだした。そして、会長選でボーダーラインを握るとされるアフリカ票が、反会長に流れると知ったアヴェランジェは、急遽「日韓共催」を自ら提案するに至り、結果的に日本側が屈する形で「日韓共同開催」が決定した。
各地域の予選では、オランダが予選落ちしたのが最大の波乱で、結果的には強豪国が勢揃いし、それに予選免除の前回大会優勝国フランス・開催国の日本・韓国が加わって32ヵ国が選ばれた。
本戦1次リーグで、日本は1次リーグ初戦でベルギーと2-2の引き分け、第2戦はロシアに1-0で初勝利、第3戦はチュニジアに2-0で勝ち、初の決勝トーナメント進出をはたした。もう一方の開催国の韓国もまた、ポーランドとポルトガルから勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。
決勝トーナメントでは、日本はラウンドオブ16でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国はイタリア、スペインに勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。そして準決勝を勝ち上がったブラジルとドイツが、横浜国際総合競技場で決勝対決し、この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。
大会の正式名称を巡っては日韓両国が優先表示を争い、最終的にはFIFAの仲裁提案で国名部分を省略して「2002 FIFAワールドカップ」との表記で統一されることになった。また、今大会ではラフプレーや誤審、審判買収問題が話題を集めた。とくに一方の開催国である韓国の試合において、多数の疑惑の判定や主審の買収が報じられた。
*2002.9.17/ 小泉首相が訪朝し、初の日朝首脳会談が行われる。
*2002.10.15/ 拉致被害者のうち5人が24年ぶりに帰国する。
2002(h14)年9月17日、小泉純一郎首相が北朝鮮の平壌を訪問、金正日総書記と会談し、戦後初めての日朝首脳会談が実現した。その席で金正日総書記は、13人の日本人を拉致したことを公式に認め謝罪の意を示した。総書記は、自分が承知してからは関係者は処分されたと述べ、拉致した日本人のうち5人は生存しているが8人は死亡したと主張した。しかし死亡したとされる8人に関する情報はすべて捏造であったことが、後日判明している。
その後の交渉で、地村夫妻・蓮池夫妻および曽我ひとみさんの5人の拉致被害生存者は、一時帰国を条件に2002(h14)年10月15日に帰国が実現した。一時帰国した被害者は「北朝鮮へ帰すこと」が条件とされていたが、日本政府はこれを拒否し、さらに5人の家族の帰国も要求する方針をとった。
金正日総書記が一連の拉致を認めて謝罪した事で、それまで控えめだったマスメディアも、日本人拉致問題を大々的に報道して北朝鮮を激しく糾弾し、国民の多くも激怒して対北朝鮮制裁を強く訴えるようになった。
小泉首相は2年後の2004(h16)年5月22日、2度目の平壌訪問をはたし、北朝鮮側との会談を行った。前回の訪朝で帰国をはたしていた蓮池夫妻・地村夫妻の子供たちは、交渉によって両親の祖国日本への帰国が実現した。曽我ひとみさんの夫は、朝鮮戦争時に脱走亡命した元アメリカ兵なので、アメリカ軍法との兼ね合いで難航したが、その後の7月に帰国がかなった。
拉致事件は、1970年代を中心に実行されたことが後日になって判明している。北朝鮮工作員の日本国内への侵入は、日本海沿い海岸線が複雑で長いこともあり、海上警備当局の警備能力では行き届かず、きわめて簡単に実行されたと伝えられている。しかも、民間人を拉致することなどは想定外だった。
1980(s55)年1月に、産経新聞が拉致事件を初報道し、3月になって国会の質問で言及されたが、本格的な話題にはならなかった。1988(h1)年1月、衆議院本会議で、初めて北朝鮮による拉致の可能性に触れられた。さらに3月の参議院では、大韓航空機爆破犯金賢姫が、拉致された日本人とされる「李恩恵(田口八重子)」の情報をもっているとして、具体的な名前が出てくるにいたった。
相手が国交がなく実態もつかめない北朝鮮ということで、政治家や警察も慎重になるなかで、1990年代半ばになって、元北朝鮮工作員からの証言を元にした著作が発刊され、また元北朝鮮工作員で脱北者の証言が出るなどして、国民の声も大きくなると、やっと政府も本格的な動きを始めた。
2001(h13)年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、ジョージ・W・ブッシュ米大統領は、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」のテロ国家だと宣言した。さらに2002(h14)年1月に、北朝鮮工作船による九州南西海域工作船事件が発生した。そして2002年4月、国会で「日本人拉致疑惑の早期解決を求める決議」が採択され、北朝鮮対応が危急の問題となった。
この時期、北朝鮮では深刻な飢饉が発生しており、金正日は緊急に食料や資金を必要としていたため、小泉訪朝が実現し、2002年9月17日「日朝平壌宣言」が発表された。宣言には統治時代の過去の清算、日朝国交正常化交渉の開始などが盛り込まれたが、実質的には日本側が拉致問題の解決を強く要求、上述の5人の一時帰国が実現し、北朝鮮には、25万tの食糧支援や1000万ドル(約11億円)相当の医薬品などが提供された。
これは拉致問題の解決の始まりに過ぎなかったが、北朝鮮側は他は全員死亡したとして譲らず、横田めぐみさんらの遺骨として送って来たものは、まったくデタラメだったことが明らかになる。そしてそれ以降、返還交渉は暗礁に乗り上げ、現在でも、まったく展望が持てない状況が続いている。
(この年の出来事)
*2002.1.23/ 雪印食品 輸入牛肉の国産偽造発覚
*2002.2.9/ ソルトレイクシティ冬季オリンピック開幕
*2002.5.8/ 中国 瀋陽の日本総領事館 亡命未遂事件
*2002.12.16/ インド洋にイージス艦派遣
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