【20th Century Chronicle 2000(h12)年】
*2000.1.1/ 2000年問題で、無事に新年度を迎え政府が安全宣言をする。
2000年問題とは、西暦(グレゴリオ暦)2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた問題である。前年ぐらいから、この問題が危機感をもって語られ、考えられる限りの対策が講じられてきたが、実際にどんな問題が起こるかはその時が来てみないと分からない状態だった。
そして実際に西暦2000年に年号が変わったあとの午前0時50分から、小渕首相が記者会見して、「全国の電力・ガス・交通・通信などに重大な問題は発生していない」と発表し、ひとまずは安心というわけだった。
2000年当時、すでに世界のあらゆる場面で使われるようになっていたコンピュータやICチップは、埋め込まれたタイマーで年や日時を認識し、それに基づいて動作している。しかし初期のICチップなどは、容量が少なく処理速度も格段に劣っていたため、西暦年号を下二桁で表現する仕組みを取っていた。
つまり、その数字が「00」なら1900年、「99」なら1999年を意味した。つまり西暦2000年までの20世紀の間は、前二ケタ分の「19」を省いてもよかったわけである。しかし、西暦2000年になったとたんにタイマーは00に戻り、これをコンピュータは2000年ではなく1900年と認識してしまう。その年号誤認識によって、コンピュータシステムが正常に動かなくなることが懸念されたわけであった。
もう一つの問題は閏年の扱いに関する問題で、グレゴリオ暦の「置閏法」と呼ばれている。現行のグレゴリオ暦では、4年に1回、4で割り切れる年を閏年として、2月29日を挟み込むことは広く一般に知られている。しかしこれだけでは、地球の公転周期と暦の間にさらに微妙なずれが残る。そこで100で割り切れる年は本来閏年であるが、閏年を飛ばして平年とすることになっている。
ところがそれでもごくわずかの誤差が生じるので、さらに400で割り切れる年は、平年になるところを閏年とすることで調整する。すると、1900年は平年扱いだが2000年は閏年となる。しかし初期のコンピュータでは、この3重にわたる煩雑な調整ルールをプログラミングされていない恐れがあり、2000年に誤動作を起こす可能性があるというわけだ。
1960年代から1980年代にかけて組まれたプログラムの多くでは、年数を下2桁に縮めてメモリリソースの節約をするのは当然の技法であった。そしてコンピュータシステムなどの日進月歩の世界では、2000年までには新しいシステムに更新されているであろうと想定し、2000年問題には充分な対策が施されていなかった。
そこでこの西暦2000年になる時、懸念された問題は、発電送電システム、水道水の供給システム、鉄道・航空管制など交通システム、銀行・株式市場など金融関連システム、電話・インターネットなど通信システム、医療関連機器の機能、工場のロボットなどの機器などなど、社会インフラシステムが大打撃を受ける可能性もあったのである。
結果としては、2000年になって早々に小渕首相が会見で無事を宣言したように、生活に直結するほどの大きな混乱は起きなかった。ただし置閏法関連で言えば、閏日(2月29日)の誤認識問題は、その日になってみないと分からないということもあった。
いずれにせよ大地震など自然災害のように、いつ起こるか分からないのとは違い、1月1日や2月28日のそのタイミングに、関係者が集中して監視することで、大事故を防止できるという、対応するタイミングが明白だったことで、万全の対策をもって臨むことができたのであった。
なお今後にも、2025年問題、2038年問題というのが残されている。2025年というのは昭和100年に相当する。となれば、2000年問題と同様の「下二ケタ」問題が発生する。もちろんパソコンなどの処理機器はすべて西暦で内部処理されているが、行政関係や金融関係など古い手書き書類を継承しているものは、当時の和暦、つまり「昭和」の年号で管理されているものが残っている。
もっとも、その大半は「平成」に変わる時点で、西暦に一元化されたはずで、例えば最近のカレンダーを見れば、平成だの令和といった元号は書かれていないものがほとんどである。
もう一つの2038年問題というのは、パソコンなど処理機器内部演算で使われる2進数の限界問題である。古いコンピュータやパソコン(UNIXやC言語)では、内部での時刻管理は、それらが使われ出した1970年1月1日午前0時からになっている。
そしてそれからの累積秒数を二進数の乗数に換算して扱える最大桁数が、2038年1月19日午前3時4分8秒(GMT)で上限に達するというのである。しかし近年のパソコン類は32bitや64bit処理がベースなので、扱える二進数の桁数が圧倒的に増えている(それこそ乗数的に)ので、何の問題もないはずであると考えられる。
*2000.4.5/ 小渕首相が緊急入院し辞職したため、その小渕内閣の閣僚全員を引き継ぐ形で、森喜朗内閣が発足する。
小渕恵三首相が脳梗塞で緊急入院、職務遂行が不能として辞職したため、小渕第2次改造内閣を急遽そのまま引き継ぐ形で、2000(h12)年4月5日、森喜朗内閣が発足した。そのため、自公保連立政権もそのまま維持された。この内閣は事実上の選挙管理内閣であり、その後の総選挙後、2000(h12)年7月4日、あらためて第2次森内閣が成立した。
これが森喜朗が総理として組閣した事実上の初代森内閣であり、やがて、小渕内閣でほぼ枠組みが決まっていた「中央省庁再編」を実現させると、それに合わせて、2000(h12)年12月5日第2次森改造内閣を組閣した。しかし翌年4月26日に支持率低迷を理由に退陣したため、1年少しの短命内閣となった。
政策では小渕政権の政治目標を継承することを重視、沖縄サミット、景気回復対策、対ロシア外交、教育基本法問題、対アフリカ外交などに注力した。首相としての最初の外国訪問地にはロシアを選択し、シベリアの日本人墓地をプーチン大統領とともに訪れた。
森喜朗首相は、第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣するなど、自民党内では文教族として頭角をあらわし、ラグビーを通して早稲田に入学した由縁などから、体育会系を中心とした教育界に隠然たる影響力を持った。
小渕内閣を受けて教育改革を掲げた森は、諮問機関として教育改革国民会議を発足させ、ノーベル物理学賞の江崎玲於奈を座長に据えて話題を作った。教育改革国民会議は最終報告として「教育を変える17の提案」を森喜朗総理に提出したが、「人間性豊かな日本人を育成する」といった抽象的な人間教育観を提示するに終わった。
当時の2000年前後は、インターネットとパーソナルコンピュータの劇的な発展期で、「IT革命」という言葉が世間に普及した。森首相も2000(h12)年9月、国会で「e-Japan構想」を公表した。e-Japan構想では「IT基本法」の策定、「IT戦略会議」「産業新生会議」の設置などで、政府主導のIT戦略を推進した。
また、一般へのIT振興啓蒙策として、「インターネット博覧会(インパク)」を開催するとともに、IT政策の目玉として、全国のパソコン初心者に対する無料「IT講習会」を展開した。地域自治体の主導で約550万人の人達に受講してもらい、ITリテラシーを拡大するとの計画で推進された。
この講習の講師として、私自身が居住地の自治体主催のIT講習会に参加することになった。森首相のおかげで一年近く、ぎりぎりの生活費を稼がしていただいたが、講習自体の費用対効果には、まったく疑問を持った。
担当した地域では、週1回3時間×4回=12時間が1パッケージの講習だったが、平日午前中のコースなどは高齢者ばかりで、しかも一度もキーボードに触れたことがないという人が大半だった。しかも自宅にパソコンもなく、家に帰っても練習する機会が無いからまったく身につかない。「マウスを上げて」というと、卓上から上に持ちあげて「センセ動きません」などといった笑い話が多かった。
しかも、当の森首相がテレビの会見で「アイテー・アイテー」と発言しているのを見ると、はたしてITが何たるものか、分かっているのかはなはだ疑問だった。森内閣の政治成果は何だったのかと考えてみても、この発言だけしか思い出せないのであった。
◎少年による犯罪頻発 少年法改正
*2000.5.1/ 「豊川市主婦殺人事件」が発生する。(17歳の少年)
*2000.5.3/ 「西鉄バスジャック事件」が発生する。(17歳の少年)
*2000.6.21/ 「岡山金属バット母親殺害事件」が発生する。(17歳の少年)
*2000.11.28/ 改正少年法が成立し、刑事罰の対象が14歳以上となる。
2000(h12)年5月1日、愛知県豊川市の住宅の玄関先で、65歳の主婦が刃物で約40ヵ所を刺されて死亡する。逮捕された高校3年生は容疑を認め「人を殺す経験をしてみたかった」などと供述した。少年は学校でも成績は良く、テニス部に所属するなど、健全な生徒と見られていたが、精神鑑定ではアスペルガー症候群などが指摘された(豊川市主婦殺人事件)。
2000(h12)年5月3日には、福岡県太宰府市の九州自動車道で、包丁を持った17歳少年が高速バスを乗っ取るというバスジャックが起こされた。広島県までの移動中に乗客の女性1人を刺殺、5人に重軽傷を負わせた。翌日に、広島県警が停止中のバスに強硬突入し少年を逮捕した。
少年は高校に行かず引きこもりの状態で、事件の前に親に精神科の病院に入院させられ強い不満を感じていたという。警察の調べに対して「派手なことをして社会にアピールしたかった。世の中を正しいものに変えたかった」と話した(西鉄バスジャック事件)。
2000(h12)年6月21日、高校3年生17歳の少年が、後輩の野球部員4人を金属バットで殴打し重軽傷を負わせたうえ、自宅で母親(42)を殺害して逃走する。7月6日に秋田県内で逮捕された少年は、野球部の後輩から虐められており、その仕返しに殺害を決意したという。
さらに、母親に迷惑をかけるので母親も殺さなければならないと思ったと供述したが、父親によると、必ずしも仲がよかったとは言えないとしている。少年は公立高校の進学コースに在籍し、印象はおとなしくまじめな生徒だったが、まじめすぎて融通が利かなかったためか、日頃からからかわれたり虐められたりしていて、その鬱憤がたまっていたと思われる(岡山金属バット母親殺害事件)。
これらの少年犯罪の増加から法的対策を求める声が高まり、2000(h12)年11月28日の改正少年法では、刑事処分の可能年齢が「16歳以上」から「14歳以上」に引き下げられた。
*2000.7.21/ 九州・沖縄サミットが開幕する。
第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)は、2000(h12)年7月21日から23日まで、日本の沖縄県名護市の万国津梁館で開催された。20世紀最後のサミットであり、出席首脳は、ジュリアーノ・アマート(伊)、トニー・ブレア(英)、ウラジーミル・プーチン(露)、ビル・クリントン(米)、森喜朗(日)、ジャック・シラク(仏)、ジャン・クレティエン(加)、ゲアハルト・シュレーダー(独)、ロマーノ・プローディ(欧州)であった。
日本で開催されるサミットとしては初めての地方開催であり、いくつもの有力都市のなかで沖縄が選ばれたのは、沖縄の歴史的経験を配慮して推奨した小渕総理大臣の英断と高く評価された。沖縄サミットを記念して二千円紙幣が発行され、沖縄にちなんで紙面には守礼門が描かれた。
首脳会合では、「一層の繁栄」「心の安寧」「世界の安定」をキーワードとして、紛争予防、IT革命、重債務貧困国救済、感染症対策、貿易問題、国際犯罪や薬物対策、生命科学及び環境問題などの重要な討議が行われ、最終日の7月23日に「G8コミュニケ・沖縄2000」として採択され、世界に発信された。
開催地沖縄県では、「沖縄を世界に発信」「県民総参加型」「自然体」「したたかさ」の4つを基本コンセプトに、全県的な推進組織を結成して開催準備に取り組み、沖縄を世界に発信する契機にしようと、全県をあげて取り組んだ。
沖縄での開催を決定した小渕恵三総理大臣は、サミットを前に脳梗塞を発症して倒れ、代わった森喜朗首相がホスト国首相の役割を務めた。森喜朗首相がクリントン大統領に対して、"Who are you ?"と礼を失した挨拶を行ったという、いかにも有りそうな報道がなされたが、さすがにそれはデタラメで、報道姿勢が問われた。
晩餐会では、沖縄名産の石垣牛や泡盛が提供されたということが話題になったが、逆に言えば、先進国首脳が集って討議しあうほどの、これと言った緊急の重要話題がなかったことが、平和のしるしであったと言えよう。
*2000.9.15/ シドニーオリンピックが開幕される。
2000年シドニーオリンピックは、2000年9月15日から10月1日までの17日間、オーストラリアのシドニーで開催された。2000年代最初のオリンピックであり、南半球での開催は1956年メルボルン大会以来44年ぶりとなった。
開会式は9月15日午後7時から行われ、日本選手団は「虹色の鮮やかなマント」を着用して登場したが、欧米では「LGBT(性的少数者)の象徴」を意味するため、奇異の目で見られるシーンもあった。また、南北首脳会談が実施された韓国と北朝鮮が統一旗を掲げて合同入場行進を行ったり、インドネシアから独立した東ティモールの選手たちが五輪旗を掲げて入場するなどの場面が印象的だった。
競技では、柔道で田村亮子が悲願の金メダルを獲得、他にも野村忠宏、井上康生、瀧本誠らが金メダルを獲得したが、100kg超級の篠原信一が、決勝で審判の誤審により銀メダルにおわるという悲運もあった。さらに、女子マラソンでは、高橋尚子が日本女子陸上競技初の金メダルを獲得して、日本中を沸かせた。
日本で人気のある野球では、初めてプロの参加が認められたが、日本はプロ側の足並みが揃わず、プロアマ混成チームで出場、準決勝でキューバに敗れるなど、4位となりメダルを逃した。一方サッカーは、フィリップ・トルシエがA代表監督との兼任で率いたが、ベスト8で敗退となった。
なおこの大会は、25,000人にも及ぶボランティアが成功をもたらした大会として画期的で、その活動は閉会式でサマランチ会長からも絶賛されることになった。後日、ボランティアが主役となるパレードも行われ、ボランティアにはシドニーの名誉市民の称号が与えられるなど、ボランティアの活動が着目される大会となった。
*2000.11.5/ 旧石器の発掘で、遺物などが捏造されていたことが発覚する。
東北旧石器文化研究所副理事長F(当時)が、旧石器発掘の捏造をしていたことが毎日新聞の報道で発覚した。遺跡に自分で石器を埋めている場面がスクープされ、「国内最古の石器の発見」などと偽っていたことが明らかになった。疑惑の遺跡の検証や教科書の修正など捏造の影響は多岐にわたり、日本の考古学会に激震が走った。
Fは1970年代半ばから各地の遺跡で「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を、2000(h12)年11月5日の毎日新聞朝刊に公開され、不正が発覚した。それまで群馬県岩宿遺跡で発見された石器が、3万年前とされ日本最古であったが、Fの不正な「発掘」によって、日本の歴史は70万年前の「前・中期旧石器」にまで遡るとされていた。
Fは民間研究団体「東北旧石器文化研究所」の副理事長をつとめており、捏造発覚までの約25年間、周囲の期待するような古い年代の石器を次々に掘り出して見せ、「神の手」と呼ばれるまでになっていた。彼によって捏造された「偽遺跡」は、宮城県を中心とし、一部北海道や南関東にまで及んでいる。
当時から批判的な研究者による論文もあったし、現場で発掘作業にかかわる考古学愛好家からも疑いが出ていたが、長期にわたって捏造は放置され続けた。冷静に出土状況を観察してみると、不可解で不自然な遺物や遺跡である事があきらかにもかかわらず、当時の研究グループは都合のいい解釈をあてて、それらの事実を無視し続けた。
当時の学会は「前・中期旧石器」の発見に沸きたち、政府も関連遺跡を国の史跡に指定するなど、その「考古学的大発見」を無批判に歓迎する風潮にあり、また、それら遺跡を、地元観光資源として活用したい関係者の声も大きく、それらが事件を助長し放置させる要因となった。
日本列島の「前・中期旧石器」の研究は、Fの発掘成果によって70万年前の旧石器時代にまで遡るとされた。しかし捏造発覚により、日本の前・中期旧石器研究は全て瓦解し、東北旧石器文化研究所も解散に追い込まれた。さらに、日本史の検定済学校教科書の石器に関する記述さえも、抹消されるにいたった。
(この年の出来事)
*2000.1.28/ 9年にわたる少女監禁事件が発覚する。(新潟少女監禁事件)
*2000.7.18/ 三菱自工が車の欠陥情報を隠蔽していたことを、運輸省が公表する。
*2000.11.21/h12 野党4党提出の内閣不信任案に乗る予定の自民党加藤派らが、直前に決定を覆したため「加藤の乱」と呼ばれた。
*2000.12.31/ 東京世田谷の一家4人殺害事件が発覚する。
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