2021年1月12日火曜日

【20C_h1 1999(h11)年】

【20th Century Chronicle 1999(h11)年】


◎ドコモ iモード開始

*1999.2.-/ NTTドコモからiモードサービスが始まる。


 1999(h11)年2月、NTTドコモより「iモード」のサービスが開始された。 iモードは、従来の携帯電話(フィーチャーフォン/ガラケー)でインターネットに接続できるサービスで、爆発的な勢いで加入者が増加した。


 持ち運びできる携帯電話でインターネットのサービスが受けられるのは、当時としては画期的で、他の大手携帯キャリアも同様のサービスを始めた。ただし携帯の脆弱なシステムと小さな画面で、パソコンなどと同等のサービスを受けるのは無理で、さまざまな工夫と制限がなされた。


 まず通信プロトコルが、携帯とインターネットでは異なっており、携帯の通信信号の形式をインターネットの形式と変換する仕組みが必要となる。さらに当時の通信速度の遅さと携帯の小さな画面では、利用できるコンテンツに制限がある。

 まず通信プロトコルの変換を、ドコモへのアクセスポイントの「iモードセンター」で行うとともに、インターネット上のドコモ公認「iメニューサイト」に掲載された、携帯で利用できる規格で作成されたコンテンツが利用できる仕組みを取った。


 しかし2007(h19)年、アップルがiPhone OS(現iOS)を搭載した「iPhone(アイフォン)」を発売し、2008(h20)年には、Googleが主導するオープンソースのAndroid OSを搭載した「スマートフォン」が、携帯各社から発売され、iモード搭載のフィチャ―フォンは淘汰されていった。

 現在、5G(第5世代移動通信システム)が実用化されようとしているが、これは通信システムの5世代目(5th Generation)という意味で、一方で携帯電話端末そのものは、ベーシックフォン、フィーチャーフォン、スマートフォンと発展してきたと言われる。


 携帯電話は、音声通話とSMS(ショートメッセージ)だけの「ベーシックフォン」、それにカメラやカレンダー、ゲームなど様々な機能を付加された「フィーチャーフォン(feature=特徴のある)」、そして一般化されたOSと、随意にインストールできるアプリケーションによって構成され、より汎用的な利用が可能になった「スマートフォン」へと発展してきた。

 これらの言葉は、あくまで便宜的に使われているだけで、たとえばスマートフォン普及の旗手とされるiPhoneが、仕組み上からはスマートフォンに分類されない場合もある。ごくごく大雑把に言えば、音声通話の「携帯電話」から、さまざまな機能を付加されて発展したフィーチャーフォンと、逆に、携行できる「パソコン」に、通話・通信機能を付加することでモバイル通信機器となったスマートフォンと言えば分かりやすいか。


 高度な多数の機能とiモードを搭載した、3G時期の日本のフィーチャーフォンは、当時最先端のモバイル機器と思われた。しかし、ジョブズが高らかにうたい上げたiPhoneが登場し、一方で各社からAndroidスマホが競って発売されて、高機能低価格化が進むとともに、スマートフォンはフィーチャーフォンを駆逐していった。

 そして、世界最先端と思われていた日本のフィーチャーフォンは、「ガラケー(ガラパゴス化した携帯)」と自嘲的に呼ばれる存在として消えていった。ウォークマンのソニーが、何故iPodを生み出せなかったか。iモードのドコモが、何故iPhoneを生み出せなかったか。これらは、既存技術に工夫と改善を加えるのが得意な日本企業の、限界を示しているのかも知れない。


◎コソボ紛争 NATO軍がユーゴ空爆

*1999.3.24/ コソボ紛争で、NATO軍がユーゴ空爆(アライド・フォース作戦)を開始する。


 第2次大戦で成立した「ユーゴスラビア連邦人民共和国」の終身大統領となったヨシップ・ブロズ・チトーは、統一を維持するために、複雑に入り組んだ民族による民族主義者を徹底弾圧した。なかでも最も人口が大きく最大の勢力であったセルビアの力を抑制するために、比較的アルバニア人が多く住むコソボなどを分離して自治権を与えた。

 しかしチトーの死(1980年)後、1989年からの東欧共産圏の自由化の流れとも相まって、分離を阻止しようとするセルビアと、スロベニア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナなどが激しい内戦を経て次々分離独立していった。


 そのような状況下で、1990年にセルビア共和国大統領に就任したスロボダン・ミロシェヴィッチは、さらに1997年、モンテネグロ共和国とセルビア共和国との連合によって発足した(新)ユーゴスラビア連邦共和国の大統領に選出された。

 ミロシェヴィッチは、独裁者としてセルビアの強国化をはかり、コソボの自治権を剥奪し事実上併合した。そのようなセルビアの強権に反発して、アルバニア人たちが過激化し、コソボ解放軍を作って独立を目指すようになり、1998年2月、コソボ解放軍による攻撃が激化し、ついに初の本格的な戦闘が始まった。


 コソボ解放軍は西側諸国およびイスラム世界からの支援を受けており、セルビアによる惨殺が報じられ、数十万人のアルバニア人が家を追われ、冬に向かう中に難民化しつつあった。これを西側諸国は、ミロシェヴィッチによる「民族浄化(ジェノサイド)」と捉え、人道的な見地からも、NATOによる介入を模索していた。

 セルビアに対する国際社会の圧力が強まるなか、ミロシェヴィッチ大統領に対して、NATO側から平和維持部隊の活動を要求し、1998年10月停戦合意が取り付けられた。合意では非武装の和平監視団の設置が認められたが、その監視団は当初より不十分なものと危惧されていた。


 そして1998年12月、コソボ解放軍が戦略的に重要な地域で活動を始めると、停戦は数週間のうちに破棄され戦闘が再開された。コソボ解放軍とセルビア側との戦闘は翌1999年冬にかけて続き、1月にラチャクの虐殺が引き起こされると、西側諸国や国際連合安全保障理事会から非難されることになり、ミロシェヴィッチ大統領と政権首脳は戦争犯罪者とみなされた。

 この虐殺が、戦争の大きな転換点となった。NATOは、NATOの支援の下で平和維持のための武力を投入が解決の唯一の手段であると考えを定めた。1999年2月にフランスのランブイエで交渉が持たれたが、セルビア側は、コソボの自治は大幅に認めるが、NATO軍の直接投入だけは認められないとして、交渉は失敗に終わった。


 そして1999年の3月24日から、「アライド・フォース作戦」と呼ばれるNATO軍による空爆が開始され、航空機による爆撃や巡航ミサイルによる攻撃は、6月11日まで続けられた。ミロシェヴィッチによる抵抗はNATOの予想に反して強く、NATO軍による在ユーゴスラビア中国大使館誤爆事件なども発生し混乱する。

 しかし、最終的にはロシアの支援も期待できないと判断し、ミロシェヴィッチ大統領はフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボ平和維持部隊(KFOR)の駐留に同意した。そして6月12日、KFOR がコソボに到着し、その後もKFORの駐留により、かろうじて紛争の沈静化が保たれているという。


 ミロシェヴィッチは、2000年秋のユーゴスラビア連邦大統領選挙の際の選挙不正に怒った国民の抗議行動(ブルドーザー革命)で退陣し、コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、長引く裁判中の2006年3月、収監中の独房で死亡した。

 なお、NATOによるユーゴスラビア空爆の正当性は、大きく議論の的となった。国際連合安全保障理事会による裏づけのないままの攻撃であり、また、NATOの憲章は加盟国の防衛のための組織とされているが、NATO加盟国に直接の脅威を与えないNATO非加盟国に対する攻撃だったことも批判の対象となった。

 結果的には「国際的な人道危機」を理由に正当化されたが、そのような抽象的な動機でNATOという大規模な連合軍隊が動いてよいものか、そしてその中立性も疑われるのである。


◎日産・ルノーが提携

*1999.3.27/ 日産とルノーが提携で合意する。


 日産自動車は、継続的な販売不振により2兆円あまりの有利子債務を抱え、倒産寸前の経営状態となった1999(h11)年3月、フランスの自動車メーカーのルノーと資本提携(ルノー=日産 アライアンス)を結び、同社の傘下に入り更生を図る事となった。

 両社の文化的土壌の違い・車種ラインナップの重複・日産自動車の負債の大きさ・労働組合の抵抗などの理由から、多くの専門家がその展開を危惧した。日本人社長の塙義一は解任され、ルノー副社長のカルロス・ゴーンが新たな最高経営責任者(CEO)に就任した。ゴーンは、「日産リバイバルプラン(NRP)」を発表し、徹底したリストラを進めた。


 カルロス・ゴーンCEOは、東京都武蔵村山市の日産自動車村山工場・京都府宇治市の日産車体京都工場などの生産拠点の閉鎖と資産の売却、および2万人超の従業員削減を実施し、さらに子会社の統廃合・取引先の統合・原材料の仕入の見直しなどによって、大幅にコスト削減を達成した。

 一方で、車種ラインアップの整理とデザインの刷新および積極的な新車投入を行い、大きく販売台数を増加させて、国内シェア第2位の座を奪回した。これらの対策によって、2003年6月には当初の予定から前倒しで負債を完済し、コストカッター=ゴーンとしてV字回復を演出して見せた。


 その後、2016(h28)年4月に三菱自動車で、燃費偽装問題が発覚し経営危機状態に陥ると、日産が三菱自動車の再建を支援するとし、三菱を加えて「ルノー・日産・三菱アライアンス」を形成することになった。そして2017(h29)年上半期の自動車販売台数では、トヨタ自動車グループやフォルクスワーゲン・グループを抑え初の世界首位に立つなど、世界のトップグループとなった。


 日産自動車は、第2次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であり、グループの持株会社であった日本産業が社名の由来となって、「日産」となった。海外ではニッサンよりもダットサン(DATSUN)のブランドで浸透している地域も多い。

 これは日産の源流となる会社が最初に生産した車に、「脱兎のごとく走る」というのにかけて「脱兎号」と名付けたことに始まる。社名もダット自動車製造となり、さらに作った小型車には、「DATの息子」=DATSONと命名した。さらに英語で同音のSUN(太陽)に変えて、DATSUN(ダットサン)となったという。


 日産は創業時より技術力の高さには定評があり、戦前から故障が少なく高速走行を得意として、医者の往診に愛用されたことから、「医者のダットサン」としても親しまれた。さらに戦後には、小型車ブルーバードを発売し、それまで日野ルノーとしてライセンス生産され、タクシーなどで普及していたルノー仕様車をしのいで、国民車的な地位を占めた。


 1966(s41)年には、戦闘機製造で有名な中島飛行機などの流れをくむプリンス自動車工業と合併、スカイライン、グロリアなどの名車をラインナップして、「技術の日産」としての名声をさらに高めた。

 しかし一方で、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」に連なっていた、日本国内各地の地元有力ディーラーの大半がトヨタ自動車に組織化されたため、販売力でトヨタの後塵を拝することになり、1980年代以降にはトヨタとの差は広がる一方となっていった。


 1990年代、バブル崩壊で高価格で収益性の高いシーマ、セドリック、グロリアなどの高級車の販売が減少、そして、吸収や合併による複雑な人員構成も影響して、労働組合の力が強く人員整理が進められなかったため、財務体質は悪化の一途を辿り、1998(h10)年には事実上ルノーの傘下に入ることとなった。

 結局、日本人経営者では、過去のしがらみや情実に引きずられて思い切ったナタを振るうことができず、ルノーからコストカッターとして実績のあるゴーンを受け入れることになった。その結果、日産は息を吹き返し、本体のルノーをしのぐほどに復活した。しかし一方で、日産の経営はゴーンの思うままに支配され、やがて発覚する「ゴーンの犯罪」を許すことになった。


◎光市母子殺害事件

*1999.4.14/ 少年による山口県光市で、侵入した少年によって母子が殺害される。


 1999(h11)年4月14日、山口県光市の社宅アパートで、母親(23)と生後11ヵ月の乳児が、水道の検針を装って侵入した男に殺害された。警察は近くに住む当時18歳の少年を殺人の疑いで逮捕した。加害者少年Fは、幼少期から父親から暴力を受け、同じく暴力を受けていた実母は自殺している。Fは中学時代から性的な関心が高まり、性行為への衝動をうっ積させていたという。

 Fは1999(h11)年春に高校を卒業すると、地元の配管工事会社に就職して同年4月1日から見習い社員として働いていたが、事件前日の13日から欠勤していた。1999年4月14日、出勤する振りをして作業服でいったん外出、午後にまた外出したときには性衝動が亢進し、「強姦によってでも性行為をしてみたい」という気持ちになっていたという。


 布テープ・紐などを携帯し排水検査の作業員を装って、同じ団地内のアパートを戸別に訪ね、若い主婦がいる居室を物色して回った。そして14時過ぎに、排水検査を装って、偶然被害者方に入り込むことに成功する。そして被害者を襲うと大声を上げられたため、首を絞めて殺し強姦する。さらに泣き続ける11ヵ月の幼女も紐で絞殺した。

 その後、遺体を隠したり指紋を消去するなど隠蔽工作をしたあと、わずかばかりの金品しか入ってない財布を持ち去った。事件後、仕事から帰宅した被害者の夫が遺体を発見し、通報する。これを受けて山口県警は捜査本部を設置し、4日後の4月18日に、少年Fを殺人容疑で逮捕した。


 地検は同年6月11日、殺人・強姦致死・窃盗の罪状で被疑者Fを起訴した。Fは検察官の取り調べに対し全面的に容疑を認め、供述内容は一貫していたほか、被害者への謝罪の弁も述べていた。しかし弁護人からは、故意の強姦殺人ではないとの主張がなされ、強姦目的ではなく、「母恋しさから優しくしてもらいたいという気持ち」で抱きついた、などというFの供述を引き出してきた。

 一方、検察は、一審で無期懲役判決が出た後に、Fは知人に以下のような手紙を出しており、Fに反省の情が見られない証拠として提出した。そこでは、「終始笑うは悪なのが今の世だ。・・・ジャンキーは精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」などととぼけた告白をして、無期は数年で出られると、うそぶいていた。


 事件当時18歳30日の少年Fは、面識もない主婦とその幼女を殺害し、さらに遺体を屍姦したという、残忍な少年犯罪事件として刑事裁判を受け、一・二審で死刑求刑に対し無期懲役判決を受けたが、最高裁で破棄差し戻しされ、差し戻し後の控訴審で言い渡された死刑判決が2012(h24)年に確定した。

 裁判中はその残虐な事件内容と、少年犯罪における死刑の是非が問われ、マスコミで大きく取り上げられ、論議を呼んだ。また被害者の夫が、犯人の人権に比して、「犯罪被害者の権利」が不当に低く扱われていることを訴え、この問題が大きく取りあげられるきっかけの一つともなった。


(この年の出来事)

*1999.7.23/ 全日空61便ハイジャック事件で機長が殺害される。

*1999.8.14/ 神奈川県で、キャンプ中の13人が増水した川で流されて死亡する。 

*1999.10.5/ 自自公3党連立が成立し、小渕第2次改造内閣が発足する。

*1999.10.26/ 埼玉県の桶川で、女子大学生がストーカーに殺害される。


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