【20th Century Chronicle 1991(h3)年】
*1991.1.17/ 湾岸戦争が始まる。
1980年から8年にわたって戦われた「イラン・イラク戦争」は、両国に多大な経済的打撃を与えた。イラクは戦費のためクウェートに生じた負債を、石油の輸出でまかなおうとしたが石油価格の低下で思うにまかせず、1990年8月2日、ついにクウェートに侵攻した。
クウェートを占領し続けるイラクに対して、国連安保理では即時無条件撤退を求め、さらにイラクへの経済制裁を行う決議をおこなうも、サダム・フセイン大統領はこれを拒否、国連軍の編制は出来なかったため、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領(ブッシュ・シニア)は「多国籍軍」という名目で攻撃を決定し、利害のからむ英・仏をはじめアラブ産油国の多くが参加した。
1991年1月17日、アメリカを中心に非戦闘参加国を含む合計35ヵ国による多国籍軍が、イラクに対して攻撃を開始した。「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる多国籍軍の空爆が行われ、のちに「湾岸戦争」と呼ばれる43日間に及ぶ戦闘が始まった。
17日未明、多国籍軍はイラクへの爆撃を開始した。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく作戦で、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれた。
https://www.youtube.com/watch?v=eFjsa0RwhOY
アメリカ海軍は巡航ミサイル「トマホーク」を使用、アメリカ空軍はB-52から空中発射巡航ミサイル(ALCM)を発射し、米のニュース専門放送CNNがその空襲の様子を生中継して、世界中が居ながらにしてゲームさながらの電子戦争を目の当たりにした。アメリカ空軍はイラク軍防空組織に攻撃を加え、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。
フセイン大統領は、イスラエルへ向けスカッドミサイルを発射し、アラブ(イスラム)世界を、対イスラエルとその支持国(米国および親米追随国)に向けて協調させようと企図した。
イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イスラエル(ユダヤ)対アラブ(イスラム)の「異教徒間戦争」という、フセインの目論見通りになること防ぐため、アメリカや国連はイスラエル政府の自制をもとめ、フセイン大統領のもくろみは水泡に帰した。
続いてフセインは、サウジアラビアなど近隣アラブの多国籍軍協力国にミサイルで攻撃を行い、アラブの裏切り者を制裁するとしたが、「不法な侵略者イラク」という国際社会の認識は揺るがなかった。
1ヵ月以上にわった空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊され、2月24日に空爆が停止されると、多国籍軍は地上戦に突入しイラク領に侵攻した(砂漠の剣作戦)。地上戦開始から100時間後にイラク軍は撤退開始し、2月27日にはクウェート市が解放され、2月28日に戦闘は終結した。
3月3日に暫定停戦協定が結ばれ、4月3日には「クウェートへの賠償」「大量破壊兵器の廃棄」などの国連安保理決議が採択された。しかし、フセインはイラク軍の主力の温存に成功しており、その後も国際原子力機関(IAEA)査察を拒否するなど頑強に抵抗し、これが2003年のジョージ・W・ブッシュ大統領(ブッシュ・ジュニア)による「イラク戦争」の伏線となった。
◎信楽高原鉄道事故
*1991.5.14/ 信楽高原鉄道で、列車同士の正面衝突事故が起こり42人が死亡する。
1991(h3)年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町(現甲賀市信楽町)の「信楽高原鉄道」信楽線小野谷信号場 ~ 紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車(4両編成)と、京都発信楽行きのJR西日本の直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(3両編成)とが正面衝突した。
両方の先頭車両は原形をとどめないぐらい押しつぶされ、JR西日本側乗客の30名、信楽高原鉄道側乗員乗客の12名、合わせて計42名が死亡し、双方の乗員乗客600名以上が重軽傷を負う大惨事となった。臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.8倍)であったため、人的被害が非常に大きくなった。
信楽高原鉄道は、JR西日本草津線の貴生川駅から分岐し、 信楽駅に至る全長14.7kmの非電化単線路線で、もとはJR西の信楽線が転換され、第三セクター鉄道事業者の信楽高原鉄道(株)によって運営されていた。
信楽町は滋賀県の南東(甲賀地方)に位置し、奈良時代には聖武天皇の「紫香楽宮」が存在したとされ、現在は狸の陶磁器などの「信楽焼」で有名である。普段は山間にあるひっそりとした町だが、当時は「世界陶芸祭しがらき'91」が4月20日から開催されており、信楽高原鉄道の輸送能力をはるかに超える来場者輸送に追われていた。「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」の開催にあたって、信楽高原鉄道の輸送力が不足するので、実行委員会は信楽高原鉄道とJR西日本に対し協力を要請し、信楽高原鉄道は行き違いのできる無人の「小野谷信号場」を設けるなど、大幅な増強工事を実施するとともに、JR特別列車が直接乗り入れることを可能なシステムを構築した。
しかしそのために複雑な信号システムとなり、そこに信楽高原鉄道とJR西日本という運転システムが異なる慣れない乗務員が乗り入れることになり、十分な事前訓練もなされないまま、世界陶芸祭への臨時運行ダイヤが組まれた。
改修した急造の信号システムはトラブル続きで、その都度信楽高原鉄道の社員が、非常時対応マニュアルも整備されないまま手動で対応することになった。その上、信楽高原鉄道・JR西はそれぞれ別個に、各自無許可で信号制御の改造をしており、両社の意思疎通も取られていなかった。
このような状況で5月14日10時18分、JR西の京都駅発下り臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、2分遅れで貴生川駅を発車した。一方、信楽高原鉄道上り普通列車は、信楽駅の出発信号機が出発指示に変わらず待機していたが、10時24分手動信号に切り替え、10分遅れで列車を出発させた。
「貴生川駅」から「信楽駅」を結ぶ信楽高原鉄道は全線単線区間で、交互入れ替えできるのは新規設置された「小野谷信号場」だけであった。したがって、小野谷信号場より下り区間(信楽駅側)及び、信号機より上り区間(貴生川駅側)のそれぞれの区間は信号機による閉塞方式として、決して両側からの列車が同時に入らない仕組みとされていた。
出発信号が出ないため信号トラブルと考えた信楽高原鉄道側は、手動制御に切り替えるため小谷野信号場に車で社員を向かわせたが、渋滞で信号場に到着しない間に見切り発車させてしまった。これは明らかに運行手順違反であり、事故の第一の原因は信楽鉄道側にあるとされた。
しかし信楽駅からの上り列車の誤出発が検知された場合、小野谷信号場の下り列車用の信号が赤になるはずであったが、小野谷信号場の信号は青になっており、唯一生き延びたJR特別列車の運転士は、信号を信用して信号場を通過した。
信楽駅から信号場の区間には幾つかの小駅があるが、すべて単線通過駅であり、行き違い線は設けられていない。しかも信号場に最寄りの紫香楽宮跡駅を、信楽鉄道普通列車はすでに通過していた。そして10時35分、JR西快速501D列車と信楽鉄道534D列車とは正面衝突し、多数の犠牲者を出す大事故が発生した。
*1991.6.25/ ユーゴスラビア連邦から2共和国が独立宣言、内戦が始まる。
ユーゴスラビアは、第2次世界大戦中の1943年に「ユーゴスラビア民主連邦」として建国を宣言し、1946年には「ユーゴスラビア連邦人民共和国」となり、1963年には「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称された。ヨシップ・ブロズ・チトーの強力な指導の下、共産主義国として冷戦下の東側陣営にありながら、ソ連の衛星国とはならず独自の共産主義を推進し中立政策を維持した。
しかし、6つの共和国からなる連邦国家であり、民族構成の複雑さから「人種のモザイク」と呼ばれ、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」とも言われた。
チトーのカリスマ性のもとで東側陣営として1つにまとまっていた各民族は、1980年のチトーの死と1989年の冷戦終結によって、その統一性を維持できず、各民族が独立を目指すユーゴスラビア紛争が始まった。
ユーゴの中核を占めるセルビア共和国では、大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが大統領となり、アルバニア系住民の多いコソボ自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して1990年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となった。
1991年6月25日、スロベニアとクロアチアが同日に独立を宣言し、セルビアが主導権を握るユーゴスラビア軍と内戦となる。文化的宗教的に西欧・中欧に最も近いスロベニアは、10日間の地上戦で独立を達成した(十日間戦争)。ついで独立宣言をしたマケドニア共和国も、無血で独立する。
かつてからセルビアと最も対立していたクロアチアは、スロベニアと共に1992年1月、EC(欧州共同体)によって独立を承認された。しかし、クロアチア内にはセルビア人が多数を占める地域があり、それを支援してセルビア人主導のユーゴスラビア軍が介入、クロアチア人とセルビア人が泥沼の内戦を展開したが、4年の戦争の末に1995年に独立を獲得した(クロアチア紛争)。
ボスニア・ヘルツェゴビナでも独立の気運が高まり、1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。しかしボスニアには、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)が混在して住んでおり、セルビア人は独立に反対して国民投票を放棄した。こうした中で、宗教を異にする3民族が入り乱れての紛争に発展した。
数の上で最多で独立を主導したボシュニャク人は、オスマン帝国の支配下でイスラム教に改宗した南スラブ人であり、クロアチア人は同じく南スラブ人に属するが、ローマカトリック教徒が多い。さらにセルビア人は、南スラブ人の一派だが、正教会(ギリシャ正教)の信者でセルビア正教会に属している。
民族・言語的には似かよっているが、歴史的経緯から宗教的・文化的な相違が激しく、これら3民族が激しく戦うことになった。ボシュニャク人主導で独立宣言をしたボスニア政府に対して、セルビア人やクロアチア人は民族ごとの共同体を作って対抗した。
セルビア人の共同体は、「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」として、ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言し、旧ユーゴスラビア軍がそのままスルプスカ共和国軍となった。
ボシュニャク人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府と、セルビア人・クロアチア人の2つの分離派国家が鼎立し、互いに「民族浄化」と呼ばれる大虐殺を繰り返した。1994年にはアメリカの主導で、ボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立、両勢力は優勢だったセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われ、1995年に国際連合の調停で和平協定に調印し、やっと紛争は終結した(ボスニア紛争)。
さらに、多くの共和国が離脱した旧ユーゴは、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)として維持されていたが、2006年5月、モンテネグロは国民投票の結果で独立宣言し、ユーゴスラビアの名前は地図から消滅した。
また、アルバニア系住民が多数を占めるコソボでは、1990年にセルビアのミロシェヴィッチにより自治権を剥奪され、その反発からユーゴ内戦のきっかけになったが、1996年から1999年にかけて「コソボ紛争」と呼ばれる激しい独立活動に発展した。
2008年2月コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択したが、これにセルビアは反発し、国連加盟国による承認が進んでいるにもかかわらず、現在も公的には独立を認めていない。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の悲惨を題材とした映画は、数多く創られた。中でも、ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチによって描かれた「サラエボの花(2006)」は、最も悲しく,最も悲惨で,そして最も美しい作品と称され、ベルリン国際映画祭金熊賞などいくつもの賞を獲得している。
https://www.cinemacafe.net/movies/20025/
◎ソビエト連邦の崩壊
*1991.8.19/ ソ連で、保守派によるクーデターが起きるも失敗に終わる。
*1991.12.26/ ソビエト連邦が消滅する。
ソビエト連邦は、1917年ロシア帝国を倒したロシア革命に始まり、二月革命で成立した臨時政府を、ウラジーミル・レーニンらが指導するロシア社会民主労働党のボリシェヴィキが、十月革命で転覆させ、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国を設立した。
十月革命のあと、革命派赤軍と反革命派白軍との間にロシア内戦が始まったが、赤軍は旧ロシア帝国領に侵攻し、ソビエトを通じ現地の共産主義者の権力掌握を支援した結果、1922年、ロシア・カフカース・ウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)などの各共和国を統合し、マルクス・レーニン主義を掲げた「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が成立した。
1924年にレーニンが死去すると、ヨシフ・スターリンが政権を掌握する。スターリンは、世界革命を目指したレーニンの方針を継承するレフ・トロツキーなど政敵を次々と粛正し、マルクス・レーニン主義を国家イデオロギーとする一国社会主義を推進し、計画経済を中心にして、急速な工業化および集団農場化を達成した。
しかしスターリンは秘密警察と密告を最大活用し、政敵のみならず軍事指導者・共産党員・一般市民などを大規模に摘発する大粛清を行い、多数の国民を矯正労働や処刑に追い込む恐怖独裁政治を展開した。
スターリン独裁のソ連は、第2次大戦のナチスドイツの侵略を、多大な犠牲者を出しながらも防衛し通し、戦後には東ヨーロッパ諸国にスターリン主義的な社会主義政権を導入してソ連の衛星国とし、ワルシャワ条約機構で東側諸国を組み込んだ東側陣営を構成した。こうして戦後の東西冷戦時代が始まり、スターリンはベルリン封鎖や朝鮮戦争など世界各地で代理戦争を展開した。
1953年にスターリンが死去すると共同指導体制に移行したが、1956年にニキータ・フルシチョフ首相がスターリン批判を行い、スターリン路線の行過ぎた独裁政策は大幅に緩められた。
1964年、フルシチョフは、農業政策の失敗とキューバ危機での米国への妥協などで失脚する。レオニード・ブレジネフが指導者となると、中ソ対立が激化し中華人民共和国の西側への接近を許すことになるなど、東側諸国への支配力にゆるみが生じ、1968年のチェコスロバキア民主的改革(プラハの春)に対して軍事介入するが、ソ連は強い国際社会の批判を浴びた。
ベトナム戦争ではホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援したが、この戦争では南を支援したアメリカが疲弊した。しかし1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、逆にソ連経済を疲弊させるとともに、国際社会から批判を浴びて孤立を招く。このアフガニスタン侵攻が、ソ連崩壊の大きな原因となった。
ブレジネフ政権は18年にわたった長期政権で、その間に官僚主義がはびこり、改革は進まず経済面でも停滞し、一方で西側諸国の豊かな生活の情報が入り出すと、国民の不満が高まった。1982年にブレジネフは死去するが、後継のアンドロポフやチェルネンコは老齢で、内外に累積する問題に対処できず、短期政権に終わる。
そして、ますます深刻化した経済的危機を打開すべく、1985年3月に誕生したのがミハイル・ゴルバチョフ政権だった。ゴルバチョフは社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)・グラスノチ(情報公開)を掛け言葉に改革を推し進めた。
しかしこれらの一連の政治経済改革は一定の成果を上げた反面、改革の範囲やスピードを巡ってソ連共産党内の内部抗争を激化させた。保守派は、改革の進展により自らの既得権益が失われることに強く反発した。穏健改革路線をとるゴルバチョフは、保守派と急進改革派の板挟みになり、抜本的な改革を推進できなかった。しかもソ連経済は、すでに改革不可能なほど末期的であった。
急進改革派のボリス・エリツィンらは、遅々として進まない改革に不満をもつ民衆の支持を得て急激に勢力を伸ばし、この急進派の躍進は保守派を焦らせてクーデターへと駆り立てた。1991年8月、保守派がゴルバチョフを軟禁してクーデターを図るが、ロシア共和国大統領に転身していたエリツィンたちの反撃によって失敗に終わる。
1991年12月、エリツィンらに詰腹を切らされて、ゴルバチョフが大統領を辞任し一線を退くと、ソビエト連邦は解体されてCIS(独立国家共同体)という緩やかな国家同盟へと変容した。ソ連邦を構成していた12共和国のうち11共和国がCISに移行し、残されたロシア連邦共和国が、ソ連邦成立以前のロシア帝国の後継国家として継承し、約70年間にわたって続いた大国ソビエト連邦は解体し消滅した。
(この年の出来事)
*1991.4.26/ 自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣部隊が出発する。
*1991.6.3/ 雲仙普賢岳の噴火で、大火砕流発生し死者・行方不明者43人を出す。
*1991.9.17/ 南北朝鮮が国連に同時加盟する。
*1991.1.5/ 宮沢喜一内閣が発足する。
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