2021年1月5日火曜日

【20C_h1 1992(h4)年】

【20th Century Chronicle 1992(h4)年】


◎脳死・尊厳死

*1992.1.22/ 脳死臨調最終答申で「脳死は人の死」とされる。

*1992.3.18/ 日本医師会生命倫理懇談会が「尊厳死容認」を打ち出す。


 長年にわたって踏襲されてきた「人の死」に対する考え方が、大きく変更される提起が、「臨時脳死及び臓器移植調査会」と「日本医師会生命倫理懇談会」から相次いで表明された。1992(h4)年1月、首相の諮問機関「臨時脳死及び臓器移植調査会」が、「脳死」を人の死とし、脳死者からの臓器移植を認める最終答申を提出した。

 一方3月には、「日本医師会生命倫理懇談会」が、患者の自己決定を尊重する「尊厳死」を容認する見解を提示した。これらの規範変更は、人工心肺装置など生命維持装置の発達によって、従来の自然死から人工的に延命させることが可能になったために生じてきた問題である。


<脳死と臓器移植>

  従来から、心臓の停止によって人の死とする慣例に従ってきた。近年では一般に、心臓・肺・脳のすべての機能が停止した場合(三徴候説)を死としている。しかし人工心肺装置で血液を循環させ点滴などで栄養を供給すれば、半永久的に物理的な生命を維持することができる。これを「生きている」と言えるかどうか。

 脳死臨調での多数意見は、人間が死ぬということは「有機的統合体」でなくなるということであり、「脳死」とはまさに有機的統合体でなくなったということで、脳死を「人の死」と見なしてよいとする。

 しかし脳死の判定基準は、心肺停止のように簡単ではない。また、脳死と判定されても、それが不可逆的に復活不能かどうか、1%でも復元可能であれば、それは死とは言えない。しかも脳死臨調には、臓器移植を推進するという隠された目的もあった。


 そして5年後の1997(h9)年6月、「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」が成立した。この法律では、第6条において、死亡した者が臓器移植の意思を生前に書面で表示していて、遺族が拒まない場合に限り、「脳死した者の身体」を「死体」に含むとしてその臓器を摘出できると規定する。

 「脳死判定」が為されるのは臓器移植を目的とした場合に限定され、一般には従来通り、呼吸・脈拍・対光反射(三徴候)の消失を医師が確認して「個体の死亡」とされる。脳の全体機能が解明されつくしていないなか、「脳死」の規定は、「臓器移植」を推進するための苦肉の策という側面も持つ。


<尊厳死と延命医療> 

 「尊厳死」とは、人間が人間としての尊厳(dignity)を保って死に臨むことであり、インフォームド・コンセントのひとつとされる。「安楽死」や「蘇生措置拒否(DNR)」 と関連が深い。末期がん患者など治癒の見込みのない人々が、「クオリティ・オブ・ライフ(quality of life, QOL)と尊厳を保ちつつ最期の時を過ごすための医療が「ターミナルケア(end-of-life care 終末期医療)」である。

 1992(h4)年3月、日本医師会第3次生命倫理懇談会は答申を発表した。この中で「医師は患者に対して最大限延命をはかるべきだとされてきたが、医療の進歩にともなって必要以上に延命治療が行われる傾向が出てきた」とし、「患者の自己決定を尊重する」という立場から末期医療のあり方を見なおす必要があるとした。


 そのうえで、回復の見込みのない末期の患者があらかじめ尊厳死の宣言など文書によって「自然な死を迎えたいという意思」を示している場合、医師はその意思を尊重して「延命治療を打ち切っても、法的な責任を問われない」とし尊厳死を認める見解を示した。

 その後も2006(h18)年、2008(h20)年、 2014(h26)年の報告書で、重要な修正を加えている。それらの過程で深化されてきた論点では、これまでの形式的に「いのち」を捉えて、ひたすら延命のみを図る過剰な医療からの脱却、すなわち「延命至上主義からの脱却」を強調した。


 とはいえ、何が過剰で何が過少かは難しい判断に迫られるため、医療側では多職種による医療・ケアチームによる判断を、他方で患者の意思を尊重することが何より重要であり、さらに家族の理解も重要であり、これら「関係者の理解と合意」を目指す努力が必要だと指摘する。

 また、終末期といっても患者やその置かれた状況が多様であるため、一律的な判断ではなく、患者に合わせた対応が必要であるとし、その重要な例としては、小児難病のケース等を挙げている。


 そして最後に、「尊厳死法の法制化」について言及するが、一律の法制化に伴うデメリット(法律への過剰な対応・濫用の危惧など)もあり、日本医師会としては、「医療専門者間で設定されたガイドライン」によることで、医師の行為に法的な免責も得られる状況が望ましいとしている。

 以上のように、「人の死」に対する考え方が変遷してきており、さらに延命措置などの医療技術が急速な発展をみせるなかで、人の死の扱い方は複雑な要素が絡み合ってきている。したがって、医療関係者のみならず、患者およびその家族までが、死の扱い方に合意することが重要となってきている。


◎東京佐川急便事件

*1992.2.14/ 東京佐川急便事件で、前社長らが特別背任容疑で逮捕される。


 1992(h4)年2月、東京佐川急便の前経営陣らが、暴力団と関係のある企業などに巨額の債務保証や融資をしていたとして商法の特別背任の罪に問われた。さらに、自由民主党経世会の金丸信会長が、佐川急便(本社所在地・京都市南区)側から5億円のヤミ献金を受領していたことが明らかになり、1992年10月に衆議院議員辞職に追い込まれた。

 この政治献金スキャンダルへの対応をめぐり、経世会の小沢一郎と梶山静六が対立、経世会が分裂し、非主流派になった小沢一郎は経世会を離脱する。汚職は野党社会党議員にも嫌疑が及ぶなど国会は紛糾を極め、政治不信が蔓延し、その後の「55体制崩壊」にまで及ぶことになる。


 1987(s62)年、自民党次期首相をうかがう竹下登は、右翼団体日本皇民党による執拗なほめ殺し攻撃を受けていた。竹下は腹心の金丸信に相談、金丸は東京佐川急便の渡辺広康社長に、暴力団稲川会会長石井隆匡への仲介を依頼する。

 その結果事件は沈静化し、1987(s62)年11月、竹下登は首相に就任し、この成功により渡辺広康は政界に強いコネクションを持つことに成功する。京都府に本社を置く親会社 佐川急便は、関東にも勢力を伸ばすために、子会社東京佐川急便の渡辺社長を通じて、政界工作をしている最中だった。


 渡辺広康は稲川会石井の仲介に対して、石井と関係のある会社に対して、次々と融資や巨額の債務保証を行い、東京佐川急便はバブル崩壊により巨額負債を背負うことになった。その結果、1992(h4)年2月14日東京地検特捜部は、渡辺広康社長ら4人を特別背任容疑で逮捕した。

 数千億単位の資金が非合法組織に流れたため、東京地検特捜部が関連疑惑の追及を続け、その結果、1992(h4)年9月、金丸信が東京佐川急便から5億円の政治献金を受けていた事実が判明、金丸信は議員辞職に追い込まれた。


 この対応をめぐり、自民党最大派閥の経世会では、梶山静六は早期の事態収拾を図ることを選ぶが、小沢一郎は徹底抗戦を主張して経世会を割って出る。一方で、最大野党社会党議員にも東京佐川急便からの闇献金が明らかになるなど、国会は紛糾する。

 竹下登は1988(s63)年のリクルート事件で首相を辞任していたが、経世会を率いて大きな力を持っており、その後の宇野・海部・宮沢内閣を仕切ってきていたが、この東京佐川急便事件で経世会が分裂し、影響力を削がれた。


 1992(h4)年11月の衆議院予算委員会において、社会党が竹下登に対して証人喚問を要求し、さらに1993(h5)年2月の衆議院予算委員会で、小沢一郎を証人喚問するが、いずれも不発に終わり、一方自民党が、逆に社会党など野党議員の証人喚問を要求するなど、国会は泥仕合を繰り返し、事件解明はうやむやに終わる。

 1988(s63)年リクルート事件、1992(h4)年東京佐川急便事件と政界の不祥事が相次ぎ、国民の政治不信が極限に高まるなか、1993(h5)年6月、野党連合は宮沢内閣不信任案を提出、これに自民の小沢ら39名が造反し賛成票を投じたため、不信任案が可決、宮沢内閣は衆議院を解散し総選挙となった。


 総選挙に際して、小沢一郎、武村正義らが自民党を離党して、次々と新党を結成、これに前熊本県知事細川護煕が結成した「日本新党」が呼応し、総選挙では自民が過半数を割り、社会党も惨敗した。その結果、小沢一郎が画策して、日本新党・新生党・新党さきがけなどが連合し、1993(h5)年8月、非自民・非共産連立の「細川政権」が誕生した。

 これにより、1955(s30)年以来続いてきた自民党対社会党という構図の「55体制」が終焉した。細川政権誕生により蓋をされた形で収まった東京佐川急便事件だが、1994(h6)年3月に、細川護熙自身に東京佐川急便からの献金疑惑が浮上し、1994(h6)年4月細川護熙は総理大臣を辞職、細川連立政権は、9ヵ月の短命政権に終わった。


◎暴力団対策法(暴対法)

*1992.3.1/ 「暴力団対策法」が施行される。


 「暴力団対策法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律/暴対法)」は、1991年に制定公布され翌年3月1日から施行された。この法律は、暴力団員の行う暴力的要求について規制を行う・暴力団の対立抗争等による危険を防止する・暴力団員の活動による被害の予防活動を促進するなど、市民生活の安全と平穏の確保を図り、国民の自由と権利を保護することを目的とする。

 暴対法では、暴力団員に特有な犯罪の前歴者が一定比率以上含まれている団体を「指定暴力団」に指定し、組織の威力を背景にした借金の取り立てや地上げなど、これまで対処が難しかった暴力団の民事介入を禁止し、公安委員会の中止命令に従わないときは処罰できるようにした。この年の6月に山口組・稲川会・住吉会が「指定暴力団」に指定された。この法律により、刑法その他の従来の刑罰法規による取締りと並んで、行政的な手段により暴力団員の不当な行為を広範囲に規制することが可能となった。


 暴力団は社会経済情勢の変化に伴って、その組織や活動形態を変化させてきた。ヤクザ組織自体は、歴史的には江戸時代後期にまで遡り、任侠道やヤクザ道などと標榜し、親分・子分・兄弟分の縁などを結ぶなど、独自の組織的団結を維持してきた。戦後になると、既存の博徒・的屋(てきや)といった集団に、愚連隊と呼ばれる不良集団が加わり、闇市等の利権を巡って対立抗争がくりかえされた。

  社会的経済的秩序が回復すると暴力集団の再編が始まり、覚せい剤や芸能興行など新たな経済利権に活動が多様化し、暴力集団の境界があいまいになった。その後さらに暴力団の淘汰が進み、一部の暴力団がその組織力と安定した資金源で、弱小団体を吸収してその勢力を拡大していった。


 昭和40年代には暴力団への社会的反発も強くなり、警察の集中取締まりにより、幹部を含む構成員が大量に検挙された結果、非合法的資金源に依存する中小暴力団は打撃を受け、上納金制度を確立した大規模暴力団が中小暴力団を吸収し、大規模な広域暴力団へと組織化・系列化が進んだ。

 昭和50年代になると、一部暴力団は海外にその活動の場を求めるとともに、一方では非合法活動で得た利益を合法的企業を装った事業に投入するなど、「経済ヤクザ」と呼ばれる、合法的活動を偽装した大規模組織に移行してゆく流れができた。


 そのような従来の法では取り締まれない状況変化に対応するため、1992(h4)年3月、「暴力団対策法(暴対法)」が施行され、暴力団対策も新たな時代を迎えた。暴対法によって、公安委員会が指定した暴力団(指定暴力団)を対象として、それまで対処が困難であった「民事介入暴力」の取締りが効果的に行えるようになった。

 暴対法による「指定暴力団」は、予防的にその活動を大幅に制限されるようになった。これにより、指定暴力団員がその所属する指定暴力団等の威力を示して行う不当な行為が禁止され、公安委員会は、暴力団対策法に違反した指定暴力団等に対して、中止命令や再発防止命令を出し、その行為を中止させることができるようになった。


 近年では、暴対法および取り締まりや刑罰の強化の結果、構成員の組織からの離脱が進み、全国の暴力団構成員と準構成員は暴力団対策法施行後で最少となっており(平成27年版警察白書)、暴力団撲滅に一定の効果が上がっていると言える。しかし、既存の暴力団組織の衰退の隙間を埋めるように、これまでとは別の暴力集団が台頭しつつある。

 たとえば、不法入国者や不法残留などの外国人が、大都会などで徒党を組み〇〇マフィアなどと呼ばれ、既存暴力団の勢力を脅かすようになった地域がみられる。また、暴走族や不良集団から派生した「半グレ集団」などと呼ばれる暴力集団が、集合離散を繰り返し、実態がつかめないまま勢力を拡大している。これらはその実態が把握できにくいため、今後も大きな問題となっていく可能性がある。


◎冬夏オリンピック同年開催

*1992.2.8/ フランス アルベールビル冬季オリンピック開幕

*1992.7.25/ バルセロナオリンピック開幕


 1992年2月にフランスで、アルベールビル冬季オリンピックが開かれ、同年7月にはスペインで、バルセロナ夏季オリンピックが開催された。冬季と夏季の五輪が同年に開催されたのはこれが最後で、この2年後1994年のリレハンメル冬季五輪以降、夏季の間の4年ごとに冬季は実施されるようになった。


<アルベールビル冬季五輪>

 アルベールビル冬季オリンピックは、1992年2月8日から2月23日までフランスのサヴォワ県アルベールビルで行われた。アルベールビルはフランス東部のアルプスの山麓にある小さな町で、アルプスをへだててイタリアやスイスに隣接する。

 開会式および閉会式の演出は若手振付家・演出家フィリップ・ドゥクフレに委ねられ、夏冬通してオリンピック初の夜の開会式となった。開会式では、少女が一羽の鳩を空中に放ち「ラ・マルセイエーズ」を歌うオープニング、空中ブランコや竹馬などサーカスの技、南仏の民族舞踊、アイスダンスなどによって人々が華麗に空を舞い練り歩く祝祭が繰り広げられた。


 ソビエト連邦の崩壊やベルリンの壁の消滅といったヨーロッパ情勢の大きな変化を反映し、旧ソ連は統一チームEUNを結成、ドイツも旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)との統一チームで参加した。また新独立国として、旧ソ連のリトアニア、ラトビア、エストニアや東欧圏だったクロアチア、スロベニアなどの冬季競技の盛んな国が加わった。

 日本選手団では、ノルディック複合男子団体で荻原健司・河野孝典・三ヶ田礼一の日本チームが、ヨーロッパ以外の国では初の金メダルを獲得した。フィギュアスケート女子の伊藤みどり、スピードスケート男子 500mの黒岩敏幸は、ともに金メダルの期待もあったが銀メダルを獲得し、同500mの井上純一、1000mの宮部行範、女子1500mの橋本聖子、ショートトラック男子5000mリレーチームは銅メダルを獲得して、気を吐いた。


<バルセロナ五輪>

 1992年7月25日から8月9日までの16日間、スペインのカタルーニャ自治州の州都バルセロナで、バルセロナオリンピックが開催された。カタルーニャはピレネー山脈をはさんでフランスに接し、地中海に面した地域で、独自の文化・言語を持ち、スペイン中央政府からの独立運動が盛んな地域である。

 スペインは、カタルーニャ以外にもバスク、アンダルシアなど異なった歴史・文化を持つ地域をたくさん抱えており、首都マドリードよりも先にバルセロナで五輪が開催された意味も大きい。盛んなサッカーでも、リーガ・エスパニョーラでは、レアル・マドリードとFCバルセロナがライバルとして人気を二分している。


 開会式では、国王フアン・カルロス1世によって開会が宣言され、三大テノールの1人として著名なホセ・カレーラスが音楽監督を務めた。ソプラノ歌手ジェシー・ノーマンが「アメイジング・グレイス」を歌い、後半では坂本龍一が地中海の神話をモチーフにしたマスゲームの音楽を作曲、指揮した。

 聖火台への聖火の点火には弓矢が用いられた。担当したのはパラリンピックのアーチェリー選手のアントニオ・レボージョであった。この演出については、五輪史上最も劇的で美しいとの呼び声高い演出といわれる。

https://www.youtube.com/watch?v=MhHd9lDzXmM


 この大会では、アルベールビル冬季大会と同様、旧ソ連圏の独立国の大半がEUN選手団として参加、団体種目の表彰式では五輪旗とオリンピック賛歌が使われ、個人種目では各国の国旗および国歌が用いられた。EUN選手団全体では、金45個・銀38個・銅29個の合計112個と、アメリカを上回って最多のメダルを獲得した。

 競技別では、男子バスケットボールでアメリカが、NBAプレイヤーで固めた「ドリームチーム」を結成、他チームを圧倒して金メダルを獲得した。また、この大会から野球が初の正式種目となり、アマチュア大会で無敗記録を続けていたキューバが金メダルを獲得、日本は銅メダルにおわった。


 日本選手団では、柔道男子78キロ級で吉田秀彦が金メダルを獲得したが、その吉田との大会直前の乱取りで、日本柔道のエースで同71キロ級の古賀稔彦が左膝を負傷するという事故が発生する。しかし古賀は負傷をおして出場し、吉田とともに金メダルを獲得した。

 女子競泳では、当時中学2年生で14歳のダークホース岩崎恭子が、200m平泳ぎでオリンピックレコードを書き換えて金メダルを獲得した。陸上競技マラソンでは、男子で森下広一が24年ぶりの銀メダルを獲得、女子でも有森裕子が、女子陸上競技で64年ぶりとなる銀メダルを獲得した。バルセロナ五輪での日本選手団のメダル獲得数は、金3・銀8・銅11で合計22個となった。


(この年の出来事)

*1992.3.14/h4 東海道新幹線「のぞみ」運行開始

*1992.6.15/h4 国連平和維持活動(PKO)協力法成立

*1992.10.17/h4 米ルイジアナ州留学中の高校生 拳銃で撃たれて死亡

 

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