【20th Century Chronicle 1990(h2)年】
*1990.2.3/ オウム真理教から25人が衆院選に立候補する。
麻原彰晃こと松本智津夫は1955(s30)年、熊本県八代市で生まれ、智津夫は先天性緑内障で盲学校専攻科へ進んだが、「東大の法科へ行って政治家になる」と言って22歳で東京へ出た。結婚後、船橋市で「松本鍼灸院」を開き、やがて自然食品販売の「BMA薬局」を開業するも、薬事法違反で逮捕される。
このころから阿含宗の修行を始め、やがて阿含宗を去ると麻原彰晃と名乗り、1984(s59)年「オウム神仙の会」を設立する。何冊も著作を出版し、高学歴の弟子たちを次々と入信させるのに成功する。1987(s62)年「オウム真理教」に改称し、1989(h1)年には東京都から宗教法人の認証を受けた。
このころから、信徒の増加にともなって、法外なイニシエーション代や布施など、営利追求の姿勢も露骨になり、教団内で集団生活をいとなむ出家制度など、信者の家族などからの批判も高まった。1989(h1)年11月4日には、オウム批判団体の支援弁護活動をしていた坂本堤弁護士一家の失踪事件が起こるが、遺体などが発見されない状況で、オウム犯行説は噂の範囲でとどまった。
1989(h1)年8月に麻原は「真理党」を結成して、翌90年2月の衆議院議員総選挙に出馬を計画し、「アストラル・ワールド・コンサート」と称して、麻原本人による「彰晃マーチ」・青い象を模した「ガネーシャ帽子」・黄色い象の着ぐるみの「ガネーシャ等身大マスコット」・麻原のマスクをかぶった「彰晃軍団」が登場し、事実上の結成大会を華々しく行う。
そして1990年2月、麻原と信者24人が第39回衆議院議員総選挙に出馬する。しかし選挙立候補前の段階で、すでに「坂本堤弁護士一家殺害事件」を実行しており、候補者のうち6人の幹部が一家殺人に関わっていたことが、後日に判明する。
選挙では、信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子などもマスコミが取り上げ、知名度を上げた。
https://www.youtube.com/watch?v=rVSZvg00M-k
さらには、街頭宣伝活動は定められた時間をオーバーし、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレットや雑誌をばら撒き、麻原そっくりのお面を運動員に被らせるなど、公職選挙法違反を繰り返し、指摘されたら「布教活動だ」と答えさせるなど、平気でルール無視をした。
しかし結果は、麻原本人でさえ1,783票で、全員落選の惨敗を受けた。しかし麻原は「票に操作がなされた」などと惨敗を認めず、選挙では世界救済ができないので、無差別テロ計画を示唆し、オウム真理教の国家転覆計画を立てるなど、非合法活動を更にエスカレートさせていった。
*1990.4.1/ 「国際花と緑の博覧会開会(大阪 花博)」が開催される。(~9.30)
わが国では1970(s45)年の大阪万博以降、万博だの国際博といった名称の博覧会が数多く行われているが、4年に1回IOC主催で行われるオリンピックに比べて、その基準が分かりにくい。
現在では、1928(s3)年に締結された「国際博覧会条約(BIE条約)」に基づき、パリに本部が置かれる「博覧会国際事務局”Bureau International des Expositions/BIE”」が設立され、そのBIEに承認された博覧会のみが、国際法上「国際博覧会(万博))」を名乗ることができることになっている。
近代の博覧会の歴史は、1798年フランス革命の時期のパリで開催された国内博覧会にまでさかのぼるが、本格的な国際博覧会は、1851年第1回国際博覧会がロンドンで開催された。ほかにも、エッフェル塔が建設されたパリ万国博覧会(第4回/1889年)などが有名で、この時期は産業革命の最盛期であり、各回ごとに画期的な技術革新が展示され話題を呼んだ。
国際博覧会は会場の規模やテーマなどから、主に「登録博覧会(登録博)」と「認定博覧会(認定博)」の2つに大別される(以前は「一般博」と「特別博」に区分)。最大規模の国際博覧会である「登録博」は、1995年以降は5年ごとに開催されることになっており、その中間期間に規模とテーマが限定された「認定博」が開催できる。
日本が初めて参加したのは、幕末の1867年「パリ万国博覧会(第2回)」であり、幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加した。維新後の新政府としては、1873(m6)年のウィーン万国博覧会からの公式参加で、明治・大正期の国際博覧会では、日本の芸妓に接待役を務めさせたりして、展示された浮世絵がモネらフランスの画壇に影響を与えるなど、フランスを起点に「ジャポニスム」呼ばれる日本文化が欧米に紹介された。
万博の負の歴史としては「人間動物園」が挙げられる。1904(m37)年のセントルイス万国博では、アメリカ軍の捕囚となっていたアパッチ族の英雄ジェロニモらが、人間動物園として”展示”された。人間動物園は万博に限られたものではなく、当時の民俗学的関心に寄せて、帝国主義各国が植民地の諸民族の文化と西欧文明との差異を示し、植民地経営を正当化するために、各地の博覧会で積極的に行った。
万国博ではないが1910(m43)年の「日英博覧会」で、日本側は独自の美術品や建築模型を多く展示して好評を博し、また当時列強がこぞって誇った植民地経営の展示として、台湾・朝鮮・満州などの資源や文化をもアピールした。
これらの公式展示とは別に、アトラクションとして、力士による相撲や日本人農民による米俵製作の実演など、日本の伝統的な農村風景を紹介した。その他、アイヌや台湾パイワン族の実際の生活の様子や民族舞踏などのイベントも披露した。
これらはほとんど忘れられていたが、NHKが2009年4月5日放送の「シリーズJAPANデビュー/第1回『アジアの“一等国”』」で、パイワン族のアトラクションを「人間動物園」として紹介したので、意図的偏向演出ではないかと話題になった。
日本で開かれた大規模の「一般博(登録博)」は、1970年の「大阪万博」と2005年「愛知万博」だけであり、2025年には再度大阪で開催されることが決まっている。大阪万博以降に続いた「沖縄海洋博/1975」や「筑波科学博/1985」、そして「大阪花博/1990」などは「特別博(認定博)」として開催された。
「国際花と緑の博覧会(大阪花博 EXPO'90/The International Garden and Greenery Exposition)」は、大阪府大阪市鶴見区と守口市にまたがる鶴見緑地で、183日間の会期(1990年4月1日 - 9月30日)で開催された。
高度成長ピーク時の'70年大阪万博とことなり、低成長期になって環境問題や自然志向の流れが定着しつつあったので、”Garden and Greenery”というテーマは最適でもあった。「花と緑」という地味なテーマは、いささか万国博としてのインパクトに欠けたが、ちょうどバブル経済の頂点に差し掛かり、多くの国・国際機関や企業・団体が参加し、総来場者数は2,400万弱という特別博覧会史上最高を記録した。
◎イラク クウェート侵攻
*1990.8.30/ 日本政府が多国籍軍支援で10億ドルの支出を緊急決定。
石油の生産量をめぐって対立が続いていたイラクとクウェートの交渉が決裂すると、1990年8月2日未明、イラク共和国防衛隊(RG)はクウェート国境を越えて侵攻を開始した。
それまで8年にわたってつづいたイラン・イラク戦争で、経済的に疲弊したイラクは、自国で産出した石油でカバーするために、石油価格の上昇を目的に石油輸出国機構(OPEC)に石油の減産を求めた。しかしOPECはイラクの求めに応じず、クウェートとサウジアラビアは石油の増産をつづけた。
イラクはクウェート国境付近に軍隊を動員して威嚇したが、アラブ諸国は単なる脅しと見ており、欧米諸国も同様に考えて傍観した。イラク側も当初はクウェート北部への限定攻撃としていたが、侵攻前々日に急遽、全面侵攻に変更した。
イラク共和国防衛隊(RG)は準備不足であったが、隣国クウェートは小国でRGの戦力の50分の1しかなく、サウジアラビアなどに支援を要請する間もなく、わずか数時間のうちに制圧された。
当初、サダム・フセイン政権はクウェートの属国化を狙い「クウェート暫定革命政府」を成立させたが、これは事実上の傀儡政権で、国際社会はこれを承認しなかった。するとイラク革命指導評議会は、クウェートの併合を決定し、クウェート県としてイラクの一部に組み込んでしまった。
イラクの軍事侵攻に対し、国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議を採択、さらにイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議も採択した。しかし国連軍の編制までは決議できず、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ(パパブッシュ)は、有志を募るという形で「多国籍軍」を編成した。
アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した。サダム・フセイン イラク大統領は国連決議も無視し続け、さらにはクウェートから脱出できなかった外国人を「人間の盾」として人質にした。フセインの強硬姿勢に、さすがの国連安保理も撤退期限を設定し「対イラク武力行使容認決議」を採択することになる。そして翌1991年1月17日、多国籍軍はイラクへの爆撃を開始する(湾岸戦争/砂漠の嵐作戦)。
この時日本は憲法等の制約から多国籍軍に参加せず、日本政府は多国籍軍に対し計130億ドルなど多額の資金供出をしたが、10億ドルずつの逐次的支出などで印象に残らず、また人的貢献が無かったとして、同盟国のアメリカなどから徹底的に非難された。
◎東西ドイツ統合
東西ドイツの統一は、まず1989年11月9日のベルリンの壁崩壊から始まった。1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)をスローガンとする国内改革を実施し、それは東欧世界に波及した。
1989年夏、最初に複数政党制を導入したハンガリーが、オーストリアとの国境を開放すると、東ドイツの市民たちが、ハンガリーとオーストリアを経由して西側へ逃れ始めた。1989年10月9日のライプツィヒでのデモ行進をきっかけに、民主化運動は東ドイツ全域に広がり、その波を抑えきれないと判断したドイツ社会主義統一党(SED)の指導部は、大幅な規制緩和策を打ち出すことにした。
1989年11月9日、東ドイツ市民の大量出国にさらされていた東ドイツ政府が、旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を、発表担当者がテレビで「事実上の旅行自由化」という表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にはベルリンの壁の撤去作業が始まった。
これにより東西ベルリンの分断の歴史は終結したが、それだけで終わらずに、東欧諸国で続々と共産党政府が倒されるきっかけとなった。そして東ドイツでも、東西ドイツの統一が具体的なテーマとなってきた。
ヘルムート・コール西ドイツ首相は当初、急激な統合は東西ドイツに無理が生じると考えていたが、東ドイツの国家としての自壊が想像をこえて早く進み、それまで考えられていた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式で統一されることを決定した。
そしてベルリンの壁の崩壊から1年、1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒紅金の三色旗」が揚げられ、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。
ドイツは第2次世界大戦後から40年にわたって分断され、旧東西両国が資本主義と共産主義という違った経済体制を敷いていたため、旧西ドイツと旧東ドイツでは大きな経済格差があった。
旧東ドイツは東側の社会主義国の中ではもっとも経済発展しており、「社会主義国の優等生」とされたが、それでも世界屈指の経済大国である旧西ドイツとの差は非常に大きく、再統一後のドイツは深刻な不況に襲われ、その影響は長く続いた。
(この年の出来事)
*1990.6.1/ 米ソ大統領が「戦略兵器削減条約(START)」に基本合意する。
*1990.6.29/ 礼宮文仁殿下 紀子さまとご成婚。
*1990.7.6/h2 神戸高塚高校で、登校中の女子生徒が教師が閉めた門扉で圧死する。
*1990.11.12/ 天皇陛下の「即位の礼」が行われる。
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