【20th Century Chronicle 1982(s57)年】
◎ホテルニュージャパン火災
*1982.2.8/ 東京赤坂のホテル・ニュージャパンで火災が発生し、死者33人をだす。
1982(s57)年2月8日未明、千代田区永田町にあるホテル・ニュージャパンで火災が発生、9・10階を中心に昼過ぎまで9時間に渡って燃え続け、ホテル宿泊客など死者33名・負傷者34名を出す大惨事となった。火災の炎や有害ガスを含んだ煙から逃れるため、窓から飛び降りる人やシーツをロープ替わりに降りようとして墜落する人など、高層ホテル火災の恐ろしさがまざまざと現前した。
この赤坂のホテルは、'64東京五輪を前にした第1次ホテルブームに建設された高級都市型多機能ホテルで、また都心の一等地に立地する利便性からも、政財界人だけでなく、テレビ関係者やタレント俳優、外国ミュージシャンの来日時など、著名人にも多く利用された。しかし近隣に新規開業した大手高級ホテルなどとの競業により、経営面で苦戦した。
やがて買収王と呼ばれた横井英樹がこのホテルを買収し、従業員を半減させるなど、徹底した合理化で収益改善をめざした。その結果、従業員不足の上、防災教育不徹底や防火設備の不備など、安全性を軽視した杜撰な経営が続けられ、それが多大な犠牲者を出す大きな要因とされた。
横井は火災当日の朝トレードマークの蝶ネクタイ姿で記者団の前に現れ、手持ち拡声器で「早朝よりご苦労さまです」と呼びかける不謹慎さで、火災が上層階だけで鎮火したことを不幸中の幸いとしたり、火元となった宿泊客に責任転嫁するなど、その人格をさえ疑わせる発言を繰り返した。また、横井社長は火災発生当時、ただ呆然として従業員に指示を出せなかったり、やっと指示したかと思うと、人命救助よりもホテル内の高級家具運び出しを優先させたともされる。
「ホテルニュージャパン火災」 https://www.youtube.com/watch?v=BszKkM2nmAU
◎日航機逆噴射事故
*1982.2.9/ 日本航空の旅客機が羽田空港着陸寸前に墜落、24人が死亡する。(日航機逆噴射事故)
日本航空のDC-8-61型機が羽田空港着陸寸前に、空港沖東京湾に墜落した事故である。福岡から羽田まで順調に飛行してきたが、着陸直前に機長が、エンジンの推力を絞り逆噴射装置を作動させる操作を行ったため、滑走路直前の海面に墜落。墜落現場が浅瀬だったため機体の沈没は免れたが、乗客・乗員24名が死亡、149名が重軽傷を負う事故となった。
機長は、この事故の6年前に精神科の治療を受けており、初期の統合失調症、鬱状態、心身症などと診断されていた。この機長は、事故の前にもいくつかの異常行動が見られていた。前日の福岡行き飛行でも、離陸後、急角度旋回上昇を続け、副操縦士から修正されて事なきを得ている。事故後、機長は統合失調症であることが判明し、それを放置し乗務させていた日本航空の安全軽視が厳しく批判された。
「逆噴射」「心身症」「キャプテンやめてください!!」といった言葉が流行語となった。当時の私の職場にも機長と同姓の後輩がいて、機長、逆噴射やめてください、とかいじられていた。また当日は、ホテルニュージャパン火災の翌日であり、東京消防庁はその対応に追われている中での救助作業を強いられたという。
◎フォークランド紛争
*1982.4.2/ アルゼンチンが、イギリスと領有権を争っているフォークランド諸島を占拠し、フォークランド紛争が始まる。(〜6.14)
フォークランドってどこ?というのがニュースに接したときの第一印象。実際、地球の裏側の出来事ゆえ、アルゼンチン軍の空き巣的な侵攻に、英の女傑首相サッチャーが速攻でロイヤル・ネイヴィーを派遣、アルゼンチン軍艦を一発撃沈して奪回、みたいな理解で済ませていた。
だが詳細にみると、軍事政権下のアルゼンチン軍は周到に準備、国民の圧倒的支持と共に迅速に侵攻、人よりも羊とペンギンの方が多い島の手薄な英国守備隊をけちらかした。さらに、英軍が奪還のため派遣した巡洋艦シェフィールドが対艦ミサイル・エグゾセで撃沈されるなど、当初はアルゼンチン軍の善戦が目立った。
戦後の東西冷戦下での諸戦闘とは異なり、主として西側諸国の近代兵器同士で戦われたもので、仏製ミサイル・エグゾセが英艦船を撃沈したのが評判になったりした。そういう西側兵器の性能を測るという実験的な意味もあり、それが一時戦闘が拮抗した理由でもあったといえる。
当時、クーデターで政権奪取した軍事政権は、強権による弾圧と経済政策の大失敗で民心が失われていたため、その意識を外部に向けるためにフォークランド諸島(アルゼンチン名 マルビナス諸島)に目をつけた。しかし、衰えたとはいえ大英帝国の海軍力と、経済混乱中の軍事政権下にあるアルゼンチン軍とでは、その力の差は歴然としており、まもなく英国軍に制圧されたが、その間に3ヵ月を費やし、双方の犠牲も多かったという。
◎「愛のコリーダ」猥褻裁判
*1982.6.8/ 「愛のコリーダ」関連出版物で、猥褻文書・図画販売罪にとわれていた大島渚・竹村一に対する控訴審判決で、東京高裁が一審の無罪判決を支持する。(6.22無罪確定)
大島渚監督「愛のコリーダ」は日仏合作映画として 1976(s51)年に世界で一斉公開された。いわゆる「阿部定事件」を題材にした映画で、ノーカットで公開するために、すべてフランスで編集現像するなど、手の込んだ手続きを踏んだ。しかし当時の日本ではそのままというわけにいかず、編集された日本語版となった。それ故、映画自身は猥褻罪に問われることはなかった。
しかし、大島渚自身によるシナリオと映画スチル写真で構成された同題名の書籍が発行され、それが猥褻文書図画に当たるとして起訴された。当局としては、映画本体はうまくすり抜けられたが、そのままお咎めなしでは面子がすたるといったところか。結局、一審では無罪、この控訴審でもわいせつ罪には当らないとして、一審の判決を維持した。
それまでの「チャタレイ裁判」や「四畳半襖の下張裁判」と比べれば、双方ともに何とも気合の入らない訴訟であった。この後、映画や図画のわいせつ性については、かなりゆるやかになる転機でもあったという。ちなみに映画自体は、2000(h12)年には完全ノーカット版としてリバイバル上映されたようである。
いずれにせよ、当該法規や裁判論理構成はそのまま維持しながら、時代の流れにそって適用をさじ加減するという「わいせつ罪」とは何だろうかと思う。明確な物理的計測可能な基準を示すべきであろう。
◎土光臨調
*1982.7.30/ 第2次臨時行政調査会(土光臨調)が基本答申を提出。国鉄・電電・専売3公社の分割・民営化などを提起する。
1981(s56)年、鈴木善幸内閣の下「第2次臨時行政調査会」が、財界の重鎮土光敏夫を会長に発足した。別名「土光臨調」とも呼ばれ、瀬島龍三を参謀役にすえ、これまでにない行政改革の政策提言をした。行革の鬼とも言われた土光の率いる臨調は、「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの抜本的方針を打ち出した。
なかでも「三公社の民営化」という具体的明示的な方向を示したことは、戦後経済改革の中でも重大な役割をはたした。これらの政策は、実質的に土光、瀬島らを招きいれた中曽根康弘が次期政権を担うと、次々に実現されることになる。三顧の礼をもって招かれる形になった土光は、「臨調答申を必ず実行する」との約束を条件に引き受けたという。
公共企業体(三公社)や国経営の企業体(五現業)は「三公社五現業」と呼ばれ、戦後経済復興の過程で重要な役割をはたした。これらの事業体には膨大な初期投資必要であり、脆弱な民間資本では立ち上げ不可能な産業が多い。そのために初期には、国の財政や規制で独占的な立場を保証されて運営される必要があった。しかしオイルショック以降の安定成長期になると、それらも成熟産業となり民営でも充分に採算が合う事業となっていた。それとともに、競争相手がなく、また組合活動の力が強くなり、非効率的な運営が目立ってきていた。
もっとも難航したのが「国鉄分割民営化」で、国労・動労などの分割反対争議などは記憶に残る人も多いだろう。そして、膨大な累積赤字も国が処理したあと、地域別・業務別に分割され今の「JR」となった。このとき、旧組合員を継承会社に残すかどうかで、差別的な運用があると多くの訴訟が起された。
旧「電信電話公社」は、やがて訪れる情報通信社会を控えて、超優良企業となっていたが、それでも「親方日の丸」的な硬直した体質は改まらなかった。一例を挙げれば、その内部だけしか通じない専用用語で、たとえば「施設検討に掛ける」などというが、単に新規申し込みをしたとき「電話を引く空き回線の余裕があるか」調べるだけのことだったりする。
タバコ・塩・樟脳を扱う「日本専売公社」は、その商品の特殊性や課税対策として専売化されていたが、塩・樟脳は重要な位置を占めず漸次専売制からはずされた。タバコは大きな税収源であるとともに、一方で喫煙の害は社会問題にさえなっており、結局「日本たばこ産業(株)」(JT)として民営化されることになった。
なおその後の小泉政権のもと、五現業の一つであった「郵政事業」が、その分割民営化をめぐって政争の主題となったことは記憶にあたらしく、その困難さもうかがうことができるであろう。
土光敏夫臨調会長は明治生まれの芯の強さを発揮し、石川島播磨重工業・東芝などの社長・会長を歴任し、経済団体連合会会長に就任すると「財界総理」として、第1次石油ショック後の日本経済の安定化をすすめた。そしてその実績からミスター合理化」として、三顧の礼をもって「土光臨調」会長に迎えられた。その剛毅さの一方、私生活は質素を極め、夕食にメザシを食べる姿がTVで放映されると、「メザシの土光さん」として庶民にも親しまれた。
◎三越岡田茂社長解任
*1982.8.28/ 東京三越本店で開催中の「古代ペルシア秘宝展」の展示品がほとんどニセ物と判明する。
*1982.9.22/ 岡田茂社長解任。10.18 納入業者の竹久みちが脱税容疑で逮捕。10.29 岡田も特別背任容疑で逮捕。
社会的に大きな実害を与えた事件ではないが、老舗百貨店のある種の体質を表すような事件として記憶に残る。岡田茂は宣伝部長を経て銀座店店長となり、ヤングファッションを前面に出す営業政策や、マクドナルド1号店のテナント出店などで実績を上げた。やがて三越社長に上り詰めると「流通界の革命児」と呼ばれるとともに、一方では「岡田天皇」と呼ばれるほどのワンマン体制を固めて10年にわたって君臨した。
週刊朝日が4月に「三越・岡田社長と女帝の暗部」という記事を掲載すると、6月には優越的地位の濫用で公正取引委員会から審決を受ける。そして同年8月の「古代ペルシャ秘宝展」では、その出展物の大半が贋作であることが判明した。さらに「アクセサリーたけひさ」経営の竹久みちへの不当な利益供与も明るみに出た。竹久みちというのはアクセサリー・デザイナーとして、あの竹久夢二にあやかったペンネームだという。岡田は竹久を愛人として寵愛し、彼女は「三越の女帝」と呼ばれていた。
やがて密かに申し合わされた役員会で、岡田の解任動議を岡田を除く役員全員で可決、突然解任された岡田がその時叫んだ「なぜだ!」は流行語となった。岡田と竹久は特別背任罪で起訴され両者共に実刑判決が下りたが、岡田は上告中に死去、竹久は服役した後出所したが79歳で没。
なお「優越的地位の濫用」とは具体的に、納入業者などへのチケット等押し付け販売、各種協賛金や社員派遣の要請、種々の催し物への費用負担などがあるが、私自身、業者として百貨店に出入りした経験からいうと、この手の押し付けは程度の差はあれ、どこでも当時はあたり前のことだった。半年ごとのボーナス時期には必ずイージーオーダーのスーツを買わされたものである。
事件より数年前、最初の配属で百貨店担当部門になったときに、上司から岡田茂の著書を読めと渡された。こんな事件になるとは考えていなかったが、なんとなく嫌いなタイプなので、借りるだけ借りて一頁も読まなかった。けっこう良い勘を持っていたのかもしれない。いまアマゾンで検索すると、竹久の著書はまだ売られていたが岡田の本は見当たらなかった、やはり女は強しか。
(この年の出来事)
*1982.3.29/ 警察庁は、全国637の中学・高校の卒業式で警察官の立ち入り警戒を行ったと発表する。
*1982.10.9/ 東京の中野区で下宿の大学生が、テレビや子供がうるさいと、家主や隣家の母子ら5人を刺し殺す。(中野テレビ騒音殺人事件)
*1982.11.27/ 鈴木善幸首相の退陣をうけ、中曽根康弘により第1次中曽根内閣が成立する。
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