【20th Century Chronicle 1983(s58)年】
◎勝田清孝事件
*1983.1.31/ 名古屋市の銀行駐車場で強盗未遂の男が逮捕される。犯人の元消防士は1973年以来、男女8人を殺害していたことが判明。(勝田清孝事件)
名古屋市の銀行で従業員の給料を引き出した会社社長の車に、男が突然乗り込み拳銃を突きつけ金を要求するも、社長の反撃にあい駆けつけた警察官によって逮捕された。一見ドジな強盗事件であったが、犯人 勝田清孝の自供によると、なんとそれまで11年間にわたって計22人の殺人を犯したということが判明した。そのうち立件にこぎつけたのは8人の殺人、それでも死刑判決が下され、2000(h12)年に刑が執行された。
戦後の連続殺人事件は何件もあるが、それは一定の限られた期間に集注したものがほとんどであった。だが勝田の場合、11年にわたり断続的に行われており、その目的も遊行費を得るための窃盗・強盗などが主目的、必ずしも殺人を目的としたものではなかった。とはいえ、騒がれたり抵抗されたりした場合、躊躇なく殺してしまう。この期間に300件ぐらいの窃盗・強盗を起していたとされ、その中の一部が運悪く殺されただけなのに、それが22人にも達することに驚かされる。
勝田は京都府の南端、奈良との県ざかいの農村に生まれ育った。高校在学中にひったくりを繰り返し少年院に収容され、退院後も職を転々とする。その後結婚し、消防署員となり安定した家庭生活を送るかと思われたが、生来の浪費癖や虚栄癖で借金がかさむ。昼間は真面目な消防士、夜は空き巣・ひったくりなどで稼ぐという二重生活を送った。
水商売の女性が、単身住まいでしかもまとまった現金を持っていることが多いのに目をつけ、ホステスを狙いひったくりを繰り返し、騒がれると容赦なく殺した。勝田の犯行には計画性はなく行当たりばったりで、主な目的は金銭であったが、その場の流れで強姦したり殺したりと冷酷残虐だった。しかしその行当たりばったり故に、勝田と無縁の被害者ばかりであり、警察は怨恨などで関係者を捜索するも空振りに終る。
このような犯行を繰り返す一方で、勝田は夫婦でテレビのクイズ番組に出演するなど、実直な亭主の顔を見せ、本業の消防士としても何度も表彰され優秀であったとされるなど、おそるべき二重人格であった。
◎小林秀雄(80)没
*1983.3.1/ 文芸評論家 小林秀雄(80)没。
日本近代の文芸批評界の巨星墜つ、というところだろうか。文学評論家・批評家はたくさんいるが、良くも悪くも小林秀雄ほどにターゲットとされた批評家はいないだろう。小林は、単に文学だけでなく、絵画・音楽といった芸術に幅広く知見をもち、批評の素材とした。「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」といった西洋音楽・絵画から、哲学者「ベルクソン論」や日本の思想家「本居宣長」と広く深く渉猟した。
小林の文壇デビュー作は、雑誌「改造」懸賞評論2位入選「様々なる意匠」であった。なお1位は、のちに日本共産党のドンとして君臨する宮本顕治「”敗北”の文学」、自殺した芥川龍之介の遺体に鞭打つ徹底批判であった。これからも分るように、昭和初頭の文芸・思想界はマルクシズムが覆いつくさんばかりの勢いであった。
「意匠」はデザインの意味で使われるが、ここでは「ラベル貼り」ぐらいにとらえれば良い。すなわち「マルクス主義文学」「新感覚派」などといった「ラベルを貼って」理解したつもりになるが、はたしてそれが本体全体をつかみ取ったことになるか?と疑問を呈する。そして「批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」とその思いのたけを述べる。「己れの夢を懐疑的に語る」とは謙遜して言った言葉で、その実は「直接自分の言葉でものの本質をつかみ取れ」ということであろう。
かくして小林は、「自分の言葉、自分の文体」での批評を次々と展開してゆくことになる。小林秀雄は戦前戦後を通して活躍し「近代文芸批評の巨星」となった。残された批評・思想家の仕事はもはや、小林に追付け追越せではなく、課せられたのは「小林秀雄の乗り越え」であり「近代の超克」なのであり、それこそが「現代批評」となる。
奇しくも戦時中の有名な文芸座談会「近代の超克」に、小林も顔を連ねている。これは、行詰った西洋近代思想界を東洋の思想で組み替え救済しようというもので、それは当時の軍国主義が推進する「大東亜戦争」を理念化しようという意図をも、もっていた。実際にはそれほど緊張感をもったものではなく、散漫な論議がなされたに過ぎないといわれるが、戦後思想界からはほぼ抹殺されるような座談会であった。
戦後の小林秀雄も「無常といふ事」や「本居宣長」を著すなど、東洋旋回したという見方が出来る。しかし「西洋」の代りに「東洋」を持ち出して済ませられるほど「西洋近代」はヤワではない。それはむしろ近代自身によって「超克」されるべきものであり、その試みが「ポストモダン」とか「(フランス)現代思想」というという潮流であったと言える。しかしそれが確実に為されたかは疑問で、それこそ「己れの夢を懐疑的に語る事」に過ぎなかったのではないかと言う疑問も残る。
小林秀雄は、真理の問題は巧妙に避けて、ひたすら美学世界での印象を連ねる手法にたけている。AはAである、というのは最強論理であり、批判のしようがない。この種のものを批判するには、キルケゴールの言うロマンティッシュ・イロニーしかない。自ら無になることで、対象の無根拠性を批評するわけで、お化けを批評するには、自らお化けになって横に寄り添うことしかないというわけだ。オバケをオバカに入れ替えても同じで、これは私がよく使う手段だが(笑)
実は芥川龍之介の文学も、これと同じで美学的世界だけでぐるぐる回っている。「様々なる意匠」も、そのような世界への懐疑を表明したものだが、その懸賞論文で小林を差し置いて一等賞になったのが、宮本顕治の「”敗北”の文学」で、まさしく直前に自殺した芥川文学を徹底批判したものであった。宮ケンの批判は、死者に鞭打つどころか、ナタでぶちのめすようなもので、共産主義者としての怨念を込めたものであった。マルキシズムという宗教的信念に支えられているだけに、小林の懐疑を差し置いて一位になったのであろう。
さらに言うなら、同時代の谷崎潤一郎などは、徹底して美学的世界だけに遊ぶ文学なのだが、谷崎にはマゾという強い味方あったのであり、だから、芥川と谷崎の文学論争は、谷崎の圧勝となった。
◎寺山修司(47)没
*1983.5.4/ 詩人・劇作家の寺山修司(47)没。(7.31 劇団「天井桟敷」解散)
寺山修司の名前を耳にしたのは、「家出のすすめ(現代の青春論)」「書を捨てよ、町へ出よう」といった評論集・エッセーなどからであったと思う。それと同時に、アングラ劇団「天井桟敷」を主宰して賑やかな情報を発信し続けた。直接に寺山の書いたものを読んだり劇団のパーフォーマンスに接したことはないが、われわれ若者に向けて発信する寺山の「挑発、そそのかし」のメッセージは、当時購読していた「週刊平凡パンチ」などの若者向け雑誌を通して届いてきていた。
「天井桟敷」の主宰として幾つもの作品を上演し、ライバル劇団、唐十郎の「状況劇場」との派手なやり取りなども記憶に残るが、「時には母のない子のように」の作詞でカルメン・マキを歌手デビューさせたり、漫画「あしたのジョー」の登場人物力石徹のファンたちが集まった架空葬儀で葬儀委員長を務めるなど、幅広いサブカルチャー世界での活躍が話題を提供した。
この種の才能によくあるように、寺山も早熟の天才であった。高校生から大学に掛けて俳句や短歌の世界にいそしみ、早稲田入学後わずかで、その歌人として地位を固めていたという。劇団主宰として世に出てからも、東北弁を直そうともせず、朴訥で早口なズーズー弁でぼそぼそ話す姿は、寺山なりの演出もあっただろうが、歌人としての世界を継承しているようにも思えた。学生時代に罹患した腎臓病など内臓が弱かったせいか、生前の顔色はどす黒く悪かったが、この年、肝硬変を悪化させて死去、享年47。早熟、早世の多芸の天才は、文字通り一気に舞台を駆け抜けた観がある。
《漂いて ゆくときにみな われを呼ぶ 空の魚と 言葉と風と》
◎戸塚ヨットスクール事件
*1983.6.13/ 愛知県の戸塚ジュニア・ヨットスクール戸塚宏校長とコーチ2人が、訓練生への傷害致死容疑で逮捕される。1979年以来、3人死亡、2人が行方不明に。(戸塚ヨットスクール事件)
戸塚宏を校長とする戸塚ヨットスクールは、当初ヨット航海技術を教える学校だったが、情緒障害等に戸塚スクールでの指導訓練が効果があるとブームがおこり、親元からスクールに預けられる生徒が増加した。家庭や学校でもてあまされていた情緒障害をもつ生徒たちは、藁にでもすがる気持で戸塚のもとに預けられた。戸塚校長も自信満々でマスコミに登場するなど、当初は教育界のカリスマとしてマスコミにもてはやされた。
しかしその後に、訓練生の死亡・傷害・行方不明といった事件が次々に明らかになり、校長・コーチらの訓練指導は、教育的な体罰というより過酷な暴行だったと認知されるようになった。傷害致死罪で起訴された戸塚宏・コーチらは長期の裁判のあげく、戸塚の懲役6年実刑をはじめコーチ陣ら15人全員の有罪が確定した。
2006(h18)年、刑を終えて出所した戸塚は、自信満々に今後もヨットスクールを続ける意向を語った。死の瀬戸際まで追込んだ状況で、自身の生命力にめざめさせるという戸塚の信念は揺るがず、また実際に恢復し戸塚に心酔し感謝する親や訓練生が多くいたのも事実であった。
しかし意図的な暴行や事故などによって、何人もの訓練生に犠牲を出している以上、そのような成果とはまったく別問題として扱われなければならない。また近年に多くひき起こされて問題となる教師などによる体罰・暴行事件にも、この戸塚事件は何の参考にもならない。戸塚事件では、犠牲者のプライド・自尊心といった主体性侵害以前に、訓練生は物理的な恐怖のもとに傷害を受け、死に至らしめられ、自殺を計り、ゆくえ不明となったのであり、教育上の論点は皆無であるからである。
◎大韓航空機撃墜事件
*1983.9.1/ サハリン沖上空で、領空侵犯の大韓航空機が撃墜される。(大韓航空機撃墜事件)
大韓航空007便は、ニューヨークのJ・F・ケネディ空港を出発し、アラスカのアンカレッジ空港を経由、ソウルの金浦国際空港に向かう定期便であった。大韓航空のボーイング747機は、アンカレッジからソウルへの正規航空路を、北のソ連寄りに500キロ逸脱して飛行中、領空侵犯のスパイ機として、ソ連軍迎撃戦闘機の発射した誘導ミサイルにより撃墜されてしまった。
この事故で乗員乗客合わせて269人全員が死亡、韓国人、米国人についで日本人乗客28名も犠牲となった。事故現場はソ連領サハリン(樺太)とされるが、日本からすれば北海道宗谷岬の北・宗谷海峡樺太近海となり、当事国ソ連以外では最も近い国であった。最初の情報は、稚内基地のレーダーなどで捕らえていた日本政府が、大韓航空機が「サハリン沖」で行方不明になったことを公式発表し、各国の通信社が東京発の情報として大韓航空機の行方不明を報じた。
ソ連当局は当初、事故への関与を否定していたが、日米韓などの追及により「領海侵犯した航空機を撃墜した」と認めた。しかしあくまで「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機であった」との声明を発表するなどして幕引きを謀った。まず問題になるのは、大韓航空機の5時間を越える領空侵犯の原因である。これには、ミスによる領空侵犯と意図的な侵犯説があげられる。
ミスによる説では、慣性航法(自動航行)装置の設定ミスや操作ミスなどがあげられる。しかし5時間以上も異常航路を飛び、途中では正規空路にない陸地上(カムチャッカ半島・サハリン上空)を飛んでおり、その間飛んでいる場所を認識できていないなどは考えられない。これには、ボイスレコーダーで乗務員の頻繁なあくびの声が残されているなど、疲労による注意力散漫なども指摘されている。
意図的な領空侵犯説としては、「アメリカ軍部の関与説」と「燃料節約説」がある。アメリカ軍部の要請により、ソ連防空システムの現状を探るためだとか、何らかの情報をスパイするためだとかの説があるが、当時軍事政権下の韓国であるとはいえ、民間航空である大韓航空がそのような多大なリスクを犯すとは考えられない。「燃料節約説」も同じであり、乗客乗員の生命を犠牲にしてまで燃料経費を節約する航空会社があるとは、想像することさえ恐ろしいことではないか。
のこる疑問は、ソ連防空軍側が、大韓航空機007便に対してのどのように認識していたかである。当時の地上指揮官や撃墜したパイロットなどの証言から、大韓航空007便を「民間機を装ったスパイ機」と捉えていたとされる。民間機との認識はあったが、それはスパイ目的と考えたわけで、それは当時のソ連自体では当たり前にあったことであろう。
さらに'76年函館空港に強行着陸しアメリカに亡命していたベレンコ元中尉の証言によると、領空侵犯を見つければ、それが民間機であれ軍用機であれ、警告を無視した航空機を撃墜するのは至上命令で、もし侵犯をゆるせば逆に罰せられるという当然の行為だったと言う。
なお、大韓航空はこの5年前にも航法ミスでソ連領空を侵犯し、ソ連軍機に迎撃されている(大韓航空機銃撃事件)。この後の'87年には例の「大韓航空機爆破事件」、近年では話題になったナッツ・リターン事件など、自責他責さまざまな事件・不祥事に遭遇しているが、いまでも大韓民国のフラッグキャリアとしての地位を維持し続けている。
大韓航空は民営化されたとはいえ、軍事政権下から政府との密接な関係を維持し、大手財閥の経営という磐石の経営を続けているのは、民営化後破産し再生された日本航空とは大違いである。韓国の空の民主化は、大韓航空の真の分割民営化なしにはありえないが、北朝鮮との戦争中という準軍事国家韓国では考えられないかもしれない。
◎愛人バンク「夕ぐれ族」
*1983.12.8/ 愛人バンク「夕ぐれ族」が警視庁に摘発される。
1982(s57)年1月、東京都出身の短大卒を自称する筒見待子が、愛人を持ちたい男性と、お金を得たい女性とを仲介し愛人契約するための紹介所として、会員制の「夕ぐれ族」と称する愛人バンクを設立した。筒見は頻繁にマスコミに登場するようになり、交際紹介サロンという夕ぐれ族のユニークさと、筒見のあどけない顔がテレビ受けしたようで、「夕ぐれ族」は大繁盛し、次々と同様の組織が生れた。
1978(s53)年に刊行された吉行淳之介の中編小説「夕暮まで」は、中年男性と若い女性の愛人カップルの奇妙な関係を描いて評判になり、1980(s55)年には桃井かおりと伊丹十三の出演で映画化もされ、「夕暮れ族」という流行語も生れていた。筒見の愛人バンク「夕ぐれ族」は、そのブームに便乗したものと思われるが、作品内容との関係はない。
交際紹介サロンというのは建前で、実質は売春組織だったが、警察も明確な証拠がないままで、1983(s58)年8月まで派手に営業を続けていた。ところが8月末、「夕ぐれ族」のオフィスに泥棒が入り会員名簿が盗まれ、犯人は取り押さえたものの、その名簿が証拠物件として警察に押収され、売春の実態が判明してしまった。
1983(s58)年12月8日、「夕ぐれ族」のオフィスに警察が踏み込み、実質的な経営者と営業責任者が売春防止法違反で逮捕され、筒見も近くの自宅マンションで逮捕された。逮捕で筒見が月30万円で雇われた人寄せパンダにすぎず、その経歴もほとんどがでたらめだったことが判明する。
親が1部上場商社の役員と称してたが、小さなクリーニング屋の店主に過ぎず、短大卒も嘘で地元女子高の中退、アルバイトを転々とする職歴だけで、22歳と称していたが実は25歳だったという。執行猶予付きの判決を受けたが、その後、「夕ぐれ族」の実質経営者だった男と、融資仲介業の名目で詐欺を犯し、今度は実刑判決を受ける。
愛人バンク「夕ぐれ族」をネタにして、今度はニッカツ・ロマンポルノで映画化され、春やすこや松本ちえこの濡れ場シーンが話題になった。それほど面白い素材でもないと思うのだが。
(この年の出来事)
*1983.1.17/ 中曽根康弘首相が訪米し、レーガン大統領との首脳会談で「日本列島不沈空母化」という発言が論議を呼ぶ。
*1983.10.12/ ロッキード事件丸紅ルートで、田中角栄元首相に実刑判決が下される。
*1983.11.9/ レーガン米大統領が来日、中曽根首相と懇談し「ロン・ヤス」関係の蜜月を演出する。23日には胡耀邦総書記が来日する。
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