【20th Century Chronicle 1971(s46)年】
◎大久保清 連続婦女暴行殺人事件
*1971.5.14/ 連続婦女暴行殺人事件の犯人大久保清が逮捕される。
1971(s46)年5月14日に、3月から5月までの2ヵ月足らずの間に、路上で自家用車から声をかけて誘った女性8人を次々と強姦し、相次いで殺害した大久保清が逮捕された。大久保はすでに、1955(s30)年に2度も強姦事件を起こし服役している。さらに仮釈放後の1960(s35)年にも未遂事件を起こすなど、性犯罪常習犯であった。
その後結婚して子供もできるが、恐喝事件・強姦事件を何度も起こし、4年6ヵ月の懲役刑を受けるが、大久保は刑務所では模範囚として振る舞い、刑期満了をまたず仮釈放されている。釈放後の大久保は両親の住む自宅で暮らし、望んだ妻との復縁はかなわず、近親者からも突き放され、自暴自棄になったと供述しているが、そのほとんどが自業自得だという反省は一切なかった。
それでも仕事に必要と偽って親から資金を引き出し、最新鋭の白のクーペ車(マツダ・ファミリアロータリークーペ)を購入する。しかし仕事に使うどころか、この白いクーペをもっぱら犯行にフル活用し、1971(s46)年3月31日の最初の犯行から2ヵ月にも満たない間に、150人の女性に声を掛け、30人を車に誘い込むのに成功し、うち10数人と肉体関係を持ち、行動をともにした女性のうち8名を殺害したという。
ベレー帽にルパシカをまとい画家を自称、白いスポーツカーを乗りまわして、若い女性を絵のモデルにと誘い、あげく強姦、殺人、そして遺体を土中に埋めて遺棄、なんともやり切れない事件であったが、一方で、そのワンパターン性、幼児性は、被害者には不謹慎だが、笑えるぐらいである。
20代での最初の強姦事件では「大学生」(大久保は中卒)を装い、その次の1960(s35)年には60年安保で騒がれた「全学連活動家」と、インテリコンプレックスをそのまま反映、その後、詩集を自費出版するなど、多少の芸術への憧れをもったようで、つまるところ「ベレー帽にルパシカ、白のスポーツカー」で画家気取り。自分のコンプレックスの裏返しに過ぎない願望に、そのまま成り切ってしまうような露骨な幼児性が、見て取れる。
自白もずるずると引き伸ばして取り調べ警察官をわずらわせ、裁判でも弁護士解任したり検察官を訴えたりと引き延ばしをはかり、死刑確定後も自己弁護だらけの獄中手記を出版するなど、よほど往生際の悪い男だったと見える。
1976(s51)年1月、死刑確定から2年10ヵ月の異例のスピードで死刑が執行された。刑務官から執行を告げられると、腰を抜かし失禁して刑場まで刑務官に引きずられないとたどり着けないありさまだったと、執行時の様子が漏れ伝わっている。これも、執行関係者でしか分からない情報なので、よほど嫌われていたのがうかがえる。
◎ハンバーガーの「マクドナルド」が日本上陸
*1971.7.20/ 日本マクドナルドが、ハンバーガーレストラン「マクドナルド」1号店を銀座三越内に開店する。
コカコーラの日本上陸と並んで、マクドナルドの出店は刺激的だった。コカコーラを片手にマクドナルドにかぶりつく、これがアメリカの食文化かと感激したものである。当初は、この当時日の出の勢いだった中内功率いるスーパー・ダイエーが日本の代理店となる予定であったが、双方の条件が折り合わず、藤田田がそれに代って日本マクドナルドを設立した。中内は、マクドナルドと張り合うようにドムドムハンバーガーを作って、ダイエーのテナントとして展開した。
米本部からは郊外展開を指示されたが、藤田は銀座一等地への出店にこだわった。いまだと渋谷一等地に、海外ファッションブランドが出店するような戦略である。その通りで、ファーストフードではなくファッションとしての展開を意図したわけだ。日本の一等地でファッションブランドとして確立したマクドナルドは、やがて次々と全国展開してゆく。
開店時の価格は、ハンバーガー80円、チーズバーガーやフィレオフィッシュが100円、いまだと4〜500円ぐらいに相当し、かなり高価格のはずだが、当時日本の高度成長経済は、そのうちむしろ安いと思えるぐらいに成長していった。銀座通りの歩行者天国でにぎわうマクドナルド銀座三越店は、絶好のCMとなった。
全世界に展開するマクドナルドは、その国の経済指標にもなる。ビッグマックは全世界でほぼ同一仕様同一品質で販売され、その価格を比較することで「ビッグマック指数」というものが得られる。その国で売られているビッグマックの価格を、為替レートと比較すると、そのレートが過大評価ないし過小評価されているのが分かるという。
◎雫石上空で全日空機と自衛隊機が衝突
*1971.7.30/ 全日空機と自衛隊機が、岩手県雫石上空で衝突し旅客機の162人が死亡する。(全日空機雫石衝突事故)
予定航路を自動操縦で飛行中の全日空機ボーイング727に、訓練中の自衛隊F-86戦闘機が入り込んで空中衝突するという、考えられない事故が起った。衝突後、全日空機は音速の壁の衝撃波で空中分解し、人がバラバラと降ってくるという衝撃的な目撃情報もあった悲惨な事故であった。
自衛隊機のパイロットは脱出して生還、旅客機は乗員乗客162人全員死亡ということになり、これは85年の日本航空123便事故がおこるまで、1機での最大の航空機事故だった。直接の原因は、自衛隊側の訓練空域の設定ミスや、訓練教官の誘導ミスなどが問われたが、当時の航空行政がプロペラ機を前提にしたままであったりと、かなり遅れたものであったことが批判された。
◎「ニクソン・ショック」と「スミソニアン体制」
*1971.8.15/ アメリカのニクソン大統領が、金・ドル交換の一時停止、10%の輸入課徴金実施など、ドル防衛措置を発表する。16日、東証ダウは記録的大暴落となる。(ニクソン・ショック)
*1971.12.18/ ワシントンの10ヵ国蔵相会議で、金1オンス=38ドルなどで合意し、一時的に変動相場に移行する。73年には完全な変動相場制へ。(スミソニアン合意)
1944(s19)年からのブレトン・ウッズ体制に組み込まれる形で、1949(s24)年のドッジラインの施行時に「1ドル=360円」という長期の固定為替相場に入った。「ブレトン・ウッズ体制」とは、戦後先進国の自由貿易体制を維持する為に結ばれた通貨協定での経済体制で、ドルを基軸通貨とし、金・ドル固定相場で兌換を保証した「金・ドル本位制」であった。1ドル=360円という長期の固定為替相場を知っている人は、この時期の経験である。
しかしベトナム戦争での経済疲弊などにより、米の保有する金が流出、ドルが金兌換を維持できなくなってきた。そこで米大統領のリチャード・ニクソンは、ドルと金の兌換を一時停止するというドル防衛措置を電撃的に発表し、各国の証券取引所は株価の大暴落をひき起こした。いわゆる「ニクソン・ショック」である。
そして年末、ニクソン・ショック以後の世界の通貨体制再編成のために、「スミソニアン合意」が成立し、各国の為替相場が一時的に変動相場に移行する。まだ変動幅を決めるなど、従来の体制の枠組を維持しようとする合意であったが、やがてそれも維持できずに、1973(s48)年には、各国が完全な「変動相場制」に移行することになった。
スミソニアン合意時、円ドルレートは円高に振れたが、それでも1ドル=308円で、1ドル=100円前後の現在などは、当時は想像もできなかった。1ドル=360円の時代からすれば、3倍半もの円高になったわけで、逆に言えば、360円時代は実質的に超円安状態であり、それが戦後の輸出産業が支えた高度成長を達成させたともいえる。
(この年の出来事)
*1971.7.3/ 北海道で、東亜国内航空のYS-11「ばんだい号」が行方不明、4日、函館郊外の山地で発見され、乗員乗客68人全員が死亡する。
*1971.10.25/ 国連総会で、「中共(中国)召請・国府(台湾)追放」案が可決される。
*1971.12.3/ インドとパキスタンの両国が全面戦争状態に入る。17日に終結。
*1971.12.18/ 豊島区の土田警視庁部長宅で小包爆弾が爆発し夫人が死亡、24日には新宿の派出所脇でクリスマスツリー爆弾が爆発するなど、爆弾テロが続発する。


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