2020年12月14日月曜日

【20C_s5 1972(s47)年】

【20th Century Chronicle 1972(s47)年】


◎元日本兵横井庄一 27年間グアムの密林で生存

*1972.1.24/ グアム島の密林内で、元日本兵 横井庄一が発見される。


 「恥ずかしながら帰って参りました」という第一声が報道され流行語にもなった。終戦から27年後まで、グアム島のジャングルに掘った穴で過し、野草や小動物を食べて生き延びた。日本に帰還後は、高度成長下で激変した戦後日本にも、おどろくほど柔軟に対応し、耐乏生活評論家と称し講演活動なども行った。

 だがその2年後、フィリピン・ルパング島で小野田寛郎少尉が「投降」する姿をみて、さらに日本人は驚くことになる。その帝国陸軍将校としてふるまう姿は、凛々しくさえ感じられた。しかし徴兵された一兵卒に過ぎない横井軍曹と、士官志願して諜報将校としての訓練を受けた小野田少尉を、同列に扱うこと自体に無理がある。


 太平洋戦争の終戦間際、グアム守備隊は壊滅していたが、生き残った一部の将兵は山中に撤退しゲリラ戦を行っていた。1945(s20)年のポツダム宣言受諾によって日本は無条件降伏したが、知らされなかった横井らは、ジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで、ジャングルの小動物や草木を食べて生き延びた。

 横井庄一は、グアム派遣から約28年後の1972(s47)年1月24日、エビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところ、現地の住民に発見され保護、同年2月2日に満57歳で日本に無事帰還した。終戦時から横井は2人の兵士と共に生活していたが、約8年前に台風に巻き込まれ死亡したという。


 軍事教育で、兵士は生きて帰るのを恥と叩きこまれており、帰国時の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど」と発言し、これが「恥ずかしながら帰って参りました」と報道され、その年の流行語となった。


 帰国後は、戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されたが、横井は驚くほど素直に戦後の日本に馴染んだ。周囲の世話もあり結婚して落ち着くと、自身のグアムでのサバイバル経験から、耐乏生活評論家ないし生活評論家として全国各地を講演して回り、当時の石油ショックに伴い、節約生活について自らの経験を語ったりした。


◎冬季オリンピック札幌大会 冬季五輪が日本で初開催

*1972.2.3/ 「冬季オリンピック札幌大会」が開催される(~2.13)。


 戦争で中止になった幻の1940年東京五輪は有名だが、実は同年開催予定の札幌冬季五輪も同時に中止になっている。つまり日本復興のご祝儀として'64東京五輪、そしてその総仕上げが'72札幌冬季五輪だったわけである。


 不振というか実力とおりというか、苦戦する日本選手団の中で、一気に光がさしたのが70mスキージャンプ競技。のちに日の丸飛行隊と呼ばれた日本選手が、金銀銅を独占するという快挙を達成した。笠谷幸生・金野昭次・青地清二、三選手の名前は、我が国スキージャンプ界に永遠に刻まれることになった。ほかに、その可憐な縁起で「氷上の妖精」と呼ばれたジャネット・リンは、フリーで転倒しながらも最高点を出して、大会を通じてのアイドルとなった。


 札幌五輪直前には、アルペンスキーの第一人者 オーストリアのカール・シュランツなどの有力選手が、アマチュア規定違反で追放された。この時のIOC会長はミスター・アマチュアリズムと呼ばれたアベリー・ブランデージである。その後フアン・アントニオ・サマランチが就任し、84ロス五輪以降、商業化・プロ化を推進した流れからみると、今昔の感がある。

*札幌五輪テーマ曲「虹と雪のバラード」(トワエモア) https://www.youtube.com/watch?v=oXAHDozm-rY


◎連合赤軍「山岳ベース事件」「浅間山荘事件」

*1972.2.19/ 連合赤軍が軽井沢の河合楽器「浅間山荘」に籠城する。

*1972.3.7/ 連合赤軍逮捕者の自供から、「山岳ベース」事件が発覚、元京大生の遺体が発見され、以後12遺体が発見される。


 日本国民が一日中テレビにかじりついた浅間山荘事件、もっとも有名になったのが工事用の巨大鉄球であろう。しかしもう一方の影の主役は、日清のカップヌードル、寒空で凍える機動隊員たちが、うまそうに湯気の立ち上るカップヌードルで一時の暖をとる様子も、全国津々浦々に放映された。その結果この年、発売された前年の三十数倍の売り上げを記録したという。


 この事件によって連合赤軍は壊滅状態に追込まれるが、それまでの赤軍派の経緯を確認しておこう。そもそもは、60年安保時に日本共産党から分離した、全学連学生たちによって結成された新左翼連合体「共産主義者同盟(共産同/ブント)」にまでさかのぼる。70年安保闘争の過程でブントは分裂、解体、再結成、さらに四分五裂し、その最左翼として軍事闘争路線をとり、塩見孝也ひきいる「共産同赤軍派」が頭角を現した。

 その後赤軍派は、軍事訓練として極秘に集合していた大菩薩峠事件で、実働部隊の大半が検挙される。その過程で海外後方拠点が必要との「国際根拠地論」が台頭し、塩見議長は逮捕されたが、ナンバー2の軍事委員長 田宮高麿ら一派が「よど号ハイジャック事件」を起こした。

 同じく国際根拠地論に基づきパレスチナに向った重信房子のグループは、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と合流して「日本赤軍」を名乗り、一連のハイジャックや空港テロなど海外での破壊活動を行った。


 幹部クラスが軒並み逮捕されたり海外流出したりで、弱体化した国内赤軍派残党は、ただの中堅幹部クラスだった森恒夫が獄外の臨時リーダーとなる。そして、本来思想背景は全く異なるが、過激武闘路線だけ一致する京浜安保共闘と連携し「連合赤軍」と名乗る。この京浜安保共闘の臨時リーダー的な立場にあったのが、永田洋子であった。

 森・永田という統率経験の薄いリーダーのもと、山中に秘密軍事拠点を作るとして、実際は雪中の山小屋アジトを転々とするなかで、「山岳ベース事件」をひき起こした。12名にも及ぶ陰惨なリンチ殺人事件は、後日になってから逮捕者の供述などで徐々に明らかになる。

 森・永田は、活動資金補充のために一時下山した際に逮捕され、そして逮捕を免れた一部メンバーたちが、無目的な逃走中にひき起こしたのが「浅間山荘事件」であった。


◎沖縄返還密約の極秘文書漏洩問題

*1972.3.27/ 社会党の楢崎議員らが、国会で外務省の極秘公電を暴露、沖縄返還にからむ密約があったことが判明する。

*1972.4.4/ 外務省の機密文書を漏らしたとして、西山太吉毎日新聞記者と外務省女性事務官が国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕、起訴される。(外務省機密漏洩事件/西山事件)


 1972(s47)年3月27日、衆議院予算委員会で社会党の横路孝弘と楢崎弥之助議員が、外務省極秘公電を入手、沖縄返還で密約があったことを暴露した。この密約公表は大きな反響を呼び、世論は日本政府を強く批判し、政府も外務省極秘電文コピーが本物であることを認めた。

 1969(s44)年11月、佐藤栄作首相とニクソンアメリカ合衆国大統領との間で合意された沖縄返還は、1971(s46)年6月に沖縄返還協定が調印され、1972(s47)年5月15日に沖縄が返還されることになっていた。しかしその返還に関して、日米間に密約があったことが、明らかになった。一つは、有事の際の米軍による核兵器の持ち込み、もう一つは、軍用地の原状回復費用の肩代わりに関するものであった。


 佐藤内閣は1968(s43)年に「核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず」とする非核三原則を宣言し、ニクソンとの会談でも「核抜き・本土並み」で合意したことになっているが、実際には、有事の際に核兵器を持ち込むことを可とする密約があったこと明らかになっている。しかしこれは、それを検証する有識者員会によって「必ずしも密約とは言えない」と結論された。


 もう一つが、沖縄返還に際して発生する費用の負担の件であった。アメリカ側は沖縄に投下したすべての資金の支払いを要求したが、日本側は、軍施設の買い取りは政治問題になりかねないので、返還後沖縄に譲渡する施設のみ買い取るとした。沖縄返還協定で、返還される資産の買取りなどに支払ったとされる額は、日本側の支出額は3億2,000万ドルとなっているが、これには、アメリカの戦略的プロパガンダ放送を流すVOA(広義の軍施設)の移転費1,600万ドルが秘密裏に含まれていたという。

 さらに、基地などに接収されていた土地を沖縄に返すときの原状回復費用や補償費用は、米軍側が負担することになっていたが、実際には日本が肩代わりする密約が交わされていた。この400万ドル分の肩代わり密約が、横路議員らが入手した外務省極秘電文に書かれていたのだった。


 国会での政府追及は必至かと思われたが、政府は情報源を毎日新聞政治部記者の西山太吉と突き止め、さらに西山と外務省女性事務官の不倫関係を掴むと、佐藤首相は一転して強気に出た。そしてすばやく、一週間後の4月4日、西山と女性事務官は外務省の機密文書を漏らしたとして、国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕、起訴された。

  週刊新潮が不倫関係をスクープし、起訴状に「ひそかに情を通じ、これを利用して」と2人の男女関係を暴露する記述があるのが報道されると、一気に状況が一変した。マスコミで「情を通じ」という言葉が独り歩きし、政治ネタよりも下ネタを好む世間も、一気に両人の不倫関係に関心を向けた。


 毎日新聞は夕刊に「本社見解とおわび」を掲載、「西山記者の私行は詫びざるを得ないが、これを報道の規制にすり替えてはならないと」との主張をしたが、情報源の秘匿を守れなかった負い目もあって、腰砕けになってこの問題の追及を一切やめた。一方の週刊新潮は、ここぞとばかりライバルの新聞批判大キャンペーンを展開、他のマスコミも追随して、世論は一転、西山と女性事務官を非難する論調一色となった。

 一方、佐藤首相は機密保護法制定を臭わせるなどして、マスコミをけん制、裁判においても、審理は男女関係の問題、機密資料の入手方法の問題に終始した。起訴理由が「国家機密の漏洩行為」であるため、審理はその手段である機密資料の入手方法に限定され、密約の真相究明は東京地検側からは行われなかった。


 西山が逮捕され、密約自体の追及は完全に尻つぼみになり、また、取材で得た情報を自社の報道媒体でなく、国会議員に提供し国会における政府追及材料とさせたことで、西山はジャーナリスト生命を絶たれ、情報源の秘匿が不完全だったため、情報提供者の逮捕を招いたことで、毎日新聞社も批判の対象となった。この事件を契機に、毎日新聞も衰退をたどり、メジャーメディアとしての地位を失うことになる。


◎大阪「千日デパートビル火災」

*1972.5.13/ 大阪市南区の「千日デパートビル」で火災が発生、118人が死亡する。


 大阪千日前の千日デパートで、死者118名を出した日本のビル火災史上最悪の大惨事が起った。デパートとは名ばかりで、古い建物を改築して様々なテナントを入れた寄り合い所帯の雑居ビル、沈火後の検証で防火上の不備も幾つも発見された。出火時は土曜日の午後10時半ごろで、改装工事中の3階から出火したもよう。ほとんどのテナントは閉店しており、唯一営業中だったのは7階のキャバレー(当時はアルサロ)「プレイタウン」のみだった。

 延焼は4階までにとどまったが、合成建材や内装などから出る有毒ガスがまたたく間に充満し、土曜日の夜の多勢の客とホステスでにぎわう「プレイタウン」を襲った。結果、店内で一酸化中毒で100名近く、脱出中に落下や飛び降りで20名強が死亡した。ススでまっ黒になったホステス嬢が、消防のはしご車で救出される模様などが報道され、衝撃を与えた。


 この手の事件の跡地によくあるように、案の定、霊が出るとかさまざまな噂が発生した。実はこの地は、その昔、処刑場であり火葬場であったという。「らくだ」という落語でもそのネタが語られる。らくだという男が死に、酔っぱらった二人の仲間が、その遺体を棺桶(坐棺)に入れて、千日前の火葬場に担いでゆく。途中で棺の底が抜けて遺体を落とし、代わりに寝ていた酔っ払いを入れて運んだ。

 火葬にされかけて目を覚ました酔っぱらい、ここは何處だと訪ねると、「火屋(ヒヤ=火葬場)だ、ヒヤだ」「そうかい、ではヒヤ(冷や酒)でもう一杯」というサゲとなる。千日前とはそういう場所であった、ということらしい。


◎日本赤軍「テルアビブ銃乱射事件」

*1972.5.30/ イスラエルのテルアビブ空港ロビーで、日本赤軍を名乗る日本人ゲリラ3人が、自動小銃を乱射し多数の死傷者を出す。


 イスラエルの首都テルアビブの国際空港で、「日本赤軍派」(後日にこの名称を名乗る)3名が、乗降客で満員の旅客ターミナル内でいきなり自動小銃を乱射し手榴弾を投げつけ、一般乗降客ら26人が殺害され73人が重軽傷を負った。実行犯、奥平剛士と安田安之は現場で射殺され、岡本公三は逮捕された。


 「日本赤軍派」は、「国際根拠地論」に基づき、赤軍派の重信房子や京都パルチザンの奥平剛士らがパレスチナへ赴き同地で創設した組織。現地の「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」と合流し、この事件は PFLP の指揮下でひき起こしたが、のちに「日本赤軍」を正式名称とした。


 同時期に北朝鮮に向った「よど号赤軍派」一派は、そのまま北朝鮮当局により塩漬け状態になったが、日本赤軍派は現地過激集団と連携し、この後世界各地でテロやハイジャック事件を実行する。


 その後、イスラエル対パレスチナ・アラブの状勢変化や、各地でのメンバー逮捕で先細りとなり、最高指導者で日本赤軍の女帝とも呼ばれた重信房子も、日本に潜伏中に2000年に逮捕され、獄中から日本赤軍解散宣言を出すことになった。重信房子は20年の刑期を終え、すでに出所している。


 アルカイダやISIS(イスラム国)などが展開する現在のアラビアの状勢からすると、当時のイスラエルに対するパレスチナ解放闘争という図式は、和平も試みられるなど背景に退行した感があり、かなり分かりづらいかも知れない。

 もはやパレスチナの解放などではなく、「イスラム世界そのものの解放」が主題化されたわけである。かといって ISIS の行動が、それを可能とするものとはとても思えないのであるが。


◎「中ピ連」結成会見

*1972.6.14/ 「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合(中ピ連)」が結成され、話題となる。


 世界的な「ウーマンリブ」運動の波に乗って、薬剤師である榎美沙子らが「中ピ連」を立ち上げ、盛大に記者会見を行った。♀マークの付いたピンクのヘルに連合旗をかかげ全共闘スタイルでデモ行進、女性蔑視的な団体に押しかけたり、不倫男性の下に押しかけ吊し上げするなど、奇矯過激な活動でマスコミのネタになった。


 フェミニズム側からはあきれられ、男根主義的オヤジ連からはせせら笑われたが、それもどこ吹く風とマスコミに面白おかしく取り上げられるように、目立つ活動をエスカレートさせた。



 しかしまもなくそのスタイルも飽きられ、当時のピル(経口避妊薬)自体の品質も悪く副作用が多かったため普及しなかった。榎代表は中ピ連の解散後も「日本女性党」を結成したが、これも不発に終った。


 結局「あれは何だったのだ?」というだけの印象を残して消えていったピンクの突風だったが、榎美沙子自身もその後はマスコミから姿を消し、本来の薬剤師として地道に働いて、選挙などで作った借金を返済したあと、夫からは離婚され家も追出された。その後、榎の行方は、誰も知らない。



◎「四畳半襖ノ下張」掲載の「面白半分7月号」発禁

*1972.6.22/ 「四畳半襖ノ下張」を掲載した雑誌「面白半分」が発売禁止となる。


 この時期「面白半分」という都会風のしゃれた月刊誌を購読していた。おそらく「ニューヨーカー」誌などをモデルにしたのだと思う。同じく、週刊新潮や週刊文春などの雑誌社系週刊誌も、編集者としては意識しているはずだ。

 一方の雄であった米の読み物誌「リーダースダイジェスト」と表紙を見比べただけでも、その違いがうかがわれる。両雑誌読者層のイメージは「都会、単身者(に近い生活者)、インテリ、学生orビジネスマン、民主党支持」と「カントリー、農場オーナー及びその家族、たたき上げ、共和党支持」という感じだろうか。


 「面白半分」の表紙に記された英文副題は "Half Serious" 、つまり「残りの半分は真面目」というわけだ。この真面目不真面目の境界の微妙な扱いが雑誌の質を左右するとして、半年単位で当時の有力作家などを編集長に招くという編集方針をとった。もちろん実質的には、アイデアを出したり意見を言う程度の「編集長」だろうが。

 初代が吉行淳之介で、2代目の「野坂昭如編集長」に代ったときに、伝説的な猥褻文学「四畳半襖ノ下張」を全文掲載した。たまたま継続購読していたものが突然発売禁止処分となって、これは貴重だと今も残してある。


 戦後の文芸作品猥褻裁判は、チャタレイ事件・悪徳の栄え事件・四畳半襖の下張事件として3番目になった。「猥褻」の規定が曖昧である以上、判決も時代の流れに沿って曖昧に終わるしかない。前者2件はいずれも翻訳作品で、「下張り」は永井荷風の戯作と通説されているが、旧仮名遣い文語文で書かれている。

 これでは、戦後生まれとしては「劣情」など催しようもない。それよりも「大腰にすかすかと四五度攻むれば」などと、随所に使われる擬音語がやたらユーモラスであったりする。裁判は多くの有力作家たちが被告弁護の証人に起用されたが、ほぼ筋書き通りで有罪罰金刑となった。


◎日中国交回復

*1972.9.29/ 田中首相が中国を訪問、日中共同声明が調印され両国の国交が回復する。


 7月に成立した田中内閣は、「日本列島改造論」を掲げて、さらに高度成長を推進する方針を採った。外交では、二度にわたるニクソン・ショックへの対応が急務であった。ニクソンが頭越しに米中関係修復をしてしまったので、急遽田中角栄首相も中国へ飛ぶことになり、「日中共同声明」を発表、半世紀ぶりに日中は国交を回復することになった。


 米はベトナム戦争の後始末、中国は文化大革命の国内混乱を収拾する必要があった。晩年の毛沢東に代って周恩来首相が実質を仕切るようになり、米・日との関係を修復、その後を訒小平が引き継いで、現実路線のもと経済復興を進めることになる。しかしそこには、二度にわたる「天安門事件」という転回点があったことは忘れてはならない。


 日中国交回復の「おみやげ」として、2頭のパンダが贈られてきた。ランラン・カンカンと名付けられていたパンダは、上野動物園で公開され連日長蛇の列ができることとなった。


(この年の出来事)

*1972.2.27/ ニクソン米大統領が電撃的に中国を訪問し、米中共同声明(上海コミュニケ)を発表する。

*1972.6.17/ 米ワシントンの民主党本部に、盗聴器を仕掛けようと侵入した5人が逮捕され、その後の捜査で「ウォーターゲート事件」へと発展する。

*1972.8.26/ 第20回オリンピック・ミュンヘン大会が開催される(~9.11)。会期中の9月5日、パレスチナゲリラによってイスラエル選手が殺害される。

*1972.11.5/ 中国から贈られたパンダ2頭が、東京上野動物園で初公開される。




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