2020年12月9日水曜日

【20C_s4 1970(s45)年】

【20th Century Chronicle 1970(s45)年】


◎「進歩と調和」をテーマに大阪万国博がオープン

*1970.3.14/ 「日本万国博覧会”EXPO'70”(大阪万博)」が開催される。(~9.13)


 1970年3月14日から9月13日の半年にわたって開催された「日本万国博覧会”EXPO'70”(大阪万国博)」は、大阪府吹田市の千里丘陵で、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加して繰りひろげられた。戦後高度成長の到達点として、世界第2の経済大国になった日本を世界に披露する象徴的な博覧会であった。


 神戸に下宿していたので、両親をつれて一度だけ観に行った。アメリカ・ソ連・日本館などは長蛇の列で、ほかのマイナーな国や企業館だけを見学した。全般に、ブラウン管テレビをはめ込んだマルチスクリーンの映像だけが目立った。いまだパソコンは登場しておらず、エレクトロニクスといってもテレビ映像技術が中心だったようだ。


 ある意味で技術の頭打ち感のあった時期で、大阪万博でその後に残された技術はあまり思い当たらない。せいぜいが、タカラ・ビューティリオンで黒川紀章の提唱したユニット・ルームぐらいか。その概念が行かされて、カプセルホテルになっている。そして記憶に残されたのは、世界的芸術家岡本太郎の「太陽の塔」と、国民的歌手三波春男歌う、大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」だった。

「世界の国からこんにちは」 https://www.youtube.com/watch?v=5f1ekoSYGnI


◎女性ファッション誌「アンアン」創刊

*1970.3.20/  女性誌「アンアン」が、平凡出版(マガジンハウス)より創刊される。


 残念ながら女性向けファッション誌ということで、名前は聞いていたが中身は見たことがない。調べてみれば、旧平凡出版ということで、「平凡パンチ」女性版としてのパイロット版が出発だとか。そして、フランスのファッション誌「ELLE」の日本語版「アンアン エルジャポン」として創刊された。命名主はあの黒柳徹子、まだ日本にパンダがいないころからのパンダマニアで、ロシア・モスクワ動物園のパンダから採ったとか。


 やがて、永遠のライバル集英社が「non-no」を創刊、ファッションを中心とした若い女性の総合情報誌として競い合い、「アンノン族」という言葉が登場した。これらのファッション雑誌やガイドブックを片手に、一人旅や少人数で、いわゆる小京都と呼ばれる町などを旅行する若い女性が多く出現し、アンノン族現象と呼ばれた。


 これと連動するように、当時の国鉄(JR)は、女性の新しい旅行スタイルを提案するディスカバー・ジャパンキャンペーンを始め、山口百恵「いい日旅立ち」(1978)をCMソングとして採用した。ちなみにノンノを、アンアンにつられてノンノンだと思い込んでいたのは私だけか? ちなみにノンノは、アイヌ語の「花」から来たというのも、今はじめて知った。

「いい日旅立ち」 https://www.youtube.com/watch?v=nAxI6Y201m8


◎日航機「よど号」ハイジャック事件

*1970.3.31/ 羽田発福岡行き日航機「よど号」が、赤軍派9人にハイジャックされる。


 赤軍派では、国内武装決起のために軍事訓練していたグループが「大菩薩峠事件」で多くが逮捕され、その後「山岳ベース事件」から「浅間山荘事件」へと追い詰められてゆく。一方で、海外のベースを確保すべきという「国際根拠地論」に基づいた田宮高麿らのグループは、日航機「よど号ハイジャック事件」をひき起こし、北朝鮮への亡命を試みる。


 行き先は二転三転したが、結局は平壌に行き着き、よど号や人質なども無事に帰還、田宮以下9名は北朝鮮に亡命を受け容れられる。しかしこの事件は綿密に計画されたものではなく、北側との事前の交渉もなくすすめられたものであり、北朝鮮において本来の活動もできず、事実上、軟禁状態にされた。


 単に亡命するのなら通常の方法もあったわけで、結局彼らは北朝鮮にも厄介者扱いされ、北の謀略に協力する以外に何もできなかった。羽田を飛び立つとき勇ましく残したメッセージ「われわれは明日のジョーである」ことは適わず、ただの「おそ松くん」でしかなかったわけである。


◎プロ野球「黒い霧事件」

*1970.5.25/ プロ野球八百長事件が発覚し、西鉄の池永正明・益田昭雄・与田順欣の3選手が永久追放となる。(プロ野球黒い霧事件)


 1969(s44)年10月8日、読売新聞などが、福岡の西鉄ライオンズ(現西武)の永易将之投手らが公式戦で八百長を演じていたと報道したことが、プロ野球八百長事件が発覚する発端となった。球団側は永易から事情を聴取し、疑いが濃いとしての解雇の方針を示すが、永易はマスコミの追及を避けるように姿をくらませた。


 11月には、コミッショナー委員会が、永易と連絡が取れないままで「永久出場停止(永久追放)」の処分を下す。永易本人が姿を見せないまま、週刊誌報道などで他の何人かの名前が出たが、翌1970(s44)年3月になってからやっと、接触の取れたルポライターを通じ、永易自身の告白がマスコミに公表され出した。そして開幕前日の4月10日、永易が初めて公の場に姿を現わし、記者会見をした。


 永易は問い詰められ観念すると、自分以外に益田昭雄・与田順欣・船田和英・基満男・村上公康・池永正明の西鉄6選手と他チーム中日の田中勉・南海の佐藤公博という実名を挙げた。さらに永易は、西鉄球団幹部から550万円の逃走資金ないし口止め料を受け取っていたことも告白、一気に西鉄球団ぐるみの「黒い霧」事件となった。

 八百長の黒幕とみられる藤縄という男は、大井オートレースにも関わっており、中日のエース小川健太郎が、田中勉とともにオートレース八百長に関わり逮捕される。また永易のつながりで、東映フライヤーズのエース級森安敏明らも、野球八百長で金を受け取ったとされた。


 1970(s45)年5月25日、コミッショナー委員会が記者会見し、西鉄の池永・与田・益田の3人の投手を永久追放処分と発表した。さらに、西鉄以外のチームにも及んだ「黒い霧事件」は、7月30日、コミッショナー委員会によって一応の最終裁定が下され、西鉄ライオンズの永易・益田・与田・池永に小川・森安を加えた6選手が永久追放、その他事実上の追放や引退に追込まれた選手も含めると、20名近くが処分を受けた。

 永久追放となった6名はすべて投手で、そのうち池永・森安・小川はそれぞれのチームで現役のエース格だった。なかでも池永正明は、甲子園選抜優勝・夏準優勝と、下関商業に池永ありとうたわれた高校時代からの剛球投手。1965(s40)年、西鉄ライオンズに入団すると、いきなり20勝を挙げ新人王を獲得、故障で衰えが見えた大エース稲尾和久の後継として、西鉄の若きエースとして活躍中だった。


 同時に名前が出た益田・与田は八百長を認めたが、池永は先輩の田中勉からの金は断りきれず預かったが、八百長は絶対にしていないと否定し続けた。益田や与田が涙ながらに池永はしていないと訴えたが、コミッショナー裁定は覆らず永久資格停止となった。はるか35年後の2005年4月、野球協約の改正にともなって、日本野球機構(NPB)は池永に対する処分を解除し復権したが、そのとき池永は還暦近い歳になっていた。

 中心選手が多く関わった「西鉄ライオンズ」では、戦力の低下が致命的で、しかも球団ぐるみでの隠蔽工作も明かになったため、そのあと太平洋ライオンズ、クラウンライター ライオンズとオーナー会社やスポンサーが代り、最終的には「西武ライオンズ」として、フランチャイズも福岡から西武鉄道拠点の埼玉所沢に移転して、栄光の西鉄ライオンズは完全消滅ことになった。


 黒い霧に見舞われた当時、新人であった東尾修は、二軍でも滅多打ちに会い、野手転向を申出るほど投手としての自信を失っていたが、無条件で一軍でフル回転の登板を強いられるようになった。球団名が次々と変わる不遇時代を通じて、負けても負けても投げ続けるうち、やがてエースとされるようになり200勝投手にまで成長した。そのため、200勝投手として、生涯成績で勝ちと負けがほぼ拮抗しているのは東尾ぐらいしかいない。

 1979(s54)年、「西部ライオンズ」として埼玉に移転してからは、1988(s63)年に福岡ダイエー・ホークス(現ソフトバンク)が移転して来るまで、九州および福岡から球団が消滅した。福岡の人たちは、中西・豊田・稲尾など豪傑選手を擁したかつての強い西鉄ライオンズを惜しみ、「甦れ! 俺の西鉄ライオンズ」という歌までヒットさせた。これは球団歌や応援歌ではなく、かつての西鉄の復活を願うファンたちのためにレコーディングされた曲であった。

「甦れ! 俺の西鉄ライオンズ」 https://www.youtube.com/watch?v=FoBjRP-Qmlw


◎「スモン病」のキノホルム原因説が発表される

*1970.9.5/ 新潟大学の椿忠雄教授が、スモン病の原因には整腸剤キノホルムが関係と発表。7日、厚生省はキノホルムの使用・販売の中止を通達する。


 日本の薬害事件では、サリドマイド禍が有名だが、このキノホルムによる薬害スモンも重大な問題をひき起こした。スモンは、激しい腹痛、下肢の痺れ、脱力、歩行困難など神経性の症状が現れ、キノホルムが整腸剤として広く使用されるようになった60年代後半に多発した。


 その病理的な因果関係は解明されていないこと、日本以外では継続使用されていても発症が確認されないことなどで、現在でも使用継続されている国もある。しかし、日本では使用時期とスモン発症例が対応していることから、使用禁止とされている。



◎大阪万博参加のためマレーネ・ディートリッヒが来日

*1970.9.8/ 大阪万博の開催中に来日し、万国博ホールでマレーネ・ディートリッヒ・ショーを上演する。


 マレーネ・ディートリッヒというと、映画なら「モロッコ」、歌は「リリー・マルレーン」とあまりにもベタな記憶しかないが、いかにも世紀末を思わせる頽廃的な女優だった。しかし生まれたのは世紀末でなく20世紀になってからで、第2次大戦を挟んでドイツとアメリカ両国で活躍する。ヒットラーに気に入られながらもアメリカに亡命、映画「モロッコ」でハリウッドデビュー、のちに歌手としても活躍した。


 ドイツ出身だけに逆に、亡命後は積極的にヨーロッパ戦線の米軍を慰問した。慰問中に戦場の兵士が口ずさむ「リリー・マルレーン」を聴き、持ち歌として大ヒットさせた。本来ドイツの曲だったものを連合国軍兵士が歌うようになった経緯は、リリー・マルレーンという曲のたどった数奇な運命として以前に書いたことがあり、詳細はリンク先にまかせる。

「リリー・マルレーン」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3

"MOROCCO" TRAILER https://www.youtube.com/watch?v=AgGFytQHYso

Marlene Dietrich "Lily Marlene" https://www.youtube.com/watch?v=7heXZPl2hik


◎三島由紀夫 市谷自衛隊乱入事件(楯の会事件)

*1970.11.25/ 三島由紀夫ら盾の会のメンバーが、市谷の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入り、三島は自衛隊員に演説後に割腹自殺する。


 1970(s45)年11月25日の午前11時頃、三島由紀夫(45)は、自ら率いる「楯の会」のメンバー森田必勝(25)・小賀正義(22)・小川正洋(22)・古賀浩靖(23)の4名と共に、東京都新宿区市谷の「陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地」に到着すると、事前に連絡していたため、出迎えの自衛隊員に案内され総監室に入った。

 三島は、総監益田兼利陸将(57)に同伴して来た楯の会会員を紹介したり談笑するうち、持参して来た日本刀「関の孫六」の話題になり、やがて三島が刀身を鞘に納める音を合図に、同行の4人が総監を拘束し総監室を閉鎖した。


 室内の物音に気付いた総監側近の幕僚らが、総監室に突入を試み三島らと乱闘になった。日本刀で防戦する三島らとのもみ合いで、自衛隊員8人が負傷し、幕僚らは総監の安全も考え、一旦退散することにした。室外に退散した幕僚らに、三島は事前に用意した要求書を突き付けた。

 幕僚幹部らは三島の要求を受け入れ、駐屯地の自衛官を本館前に集合させるよう命じた。召集アナウンスを聞いた自衛官が続々と、本館正面玄関前の前庭に集まり出した。鉢巻に白手袋を着けた森田や小川が「檄文」を多数撒布し、要求項目を墨書きした垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らした。


 正午を告げるサイレンが鳴り響いたとき、三島がバルコニーに姿を現わした。三島は縦の会の制服で身を固め、額には「七生報国」の鉢巻、純白の手袋の拳を振りながら演説を始めた。しかし急きょ事情も知らずに集められた自衛隊員たちは、口々に野次や非難の声を浴びせかけ、マイクなしで始められた三島の演説は断片的にしか聞こえなかった。

 マスコミのヘリコプターも飛び交い騒然とする中で、機動隊も動き出したのに気付いたのか、三島は10分程度で演説を切り上げ、バルコニーから総監室に戻った三島は、総監に詫びるように話しかけたあと、制服のボタンを外した。総監から少し離れた場所に正座すると、気合とともに短刀を突き立て、森田が関の孫六で介錯した。


 森田は緊張からか介錯しそこね、剣道の心得がある古賀が代わって介錯をすませ、続いて追随した森田の介錯もうけ持った。残された小賀・小川・古賀の3人は、三島、森田の両遺体を整え、総監の拘束を解き、総監を支えて廊下に出ると、警察署員に現行犯逮捕された。

 ノーベル文学賞候補としても知られていた著名作家三島由紀夫が、自衛隊でクーデターを呼びかけて割腹自決したとの衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報が流され、街では号外が配られた。まもなく、生前に三島と親しかった川端康成が駆けつけ、作家デビュー時に三島の世話になった石原慎太郎(当時参議院議員)も現場を訪れた。


 三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説したあと自刃したことを知り、11月25日付けで雑記帳に、この事件への感想が簡単に記してあった。当時の私は文学にはまり込んでいた時期だが、三島作品には距離を置いた読者だった。晩年の三島の過剰な政治的言動にもかかわらず、芥川・太宰の自殺とも並べて「文学的な自殺」としてのみ捉えていた。

 それにしても思想と行動の問題として、大きな主題を受け取ったことはたしかであった。三島が東大全共闘の集会に飛び込んで、思想的にはまったく両極に属する両者にもかかわらず、ある種の共感を保持し得たのも、このあたりの主題に関係しているのであろう。

 その日の夕刻、当時の文学仲間が私の部屋を訪れて来た。西日が差し込む部屋で、「困ったことになったな」「そうだな、ほんとに困った」と語り合った記憶がある。おそらく、二人だけにしか分からないやり取りだっただろう。(私にはこのような情景が明瞭に記憶されているのだが、この時期は神戸に下宿中、友人と会ったのは別の日だったのかも知れない)


(この年の出来事)

*1970.2.11/ 東大宇宙航空研究所が国産初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功する。

*1970.5.12/ 山口県で検問の警官を刺した男が、広島市で銃を強奪、瀬戸内海汽船の定期観光船を乗っ取る。13日、狙撃隊の警官に射殺される。(瀬戸内海シージャック事件)

*1970.6.23/ 日米安保条約が自動延長される。全国で77万人が反安保闘争を展開する。

*1970.12.20/ 沖縄コザ市(沖縄市)で、米兵の運転する車の事故処理を巡って、米憲兵隊と市民の衝突が起こる。(コザ事件)


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