2020年12月7日月曜日

【20C_s4 1969(s44)年】

【20th Century Chronicle 1969(s44)年】


◎東大安田講堂に機動隊導入

*1969.1.18/ 東大に機動隊が導入され、翌19日、安田講堂の封鎖が解除される。


 1968(s43)年、過激化する新左翼系学生運動とは一線を分かち、東大や日大で始まった「全共闘運動」は、一般学生が中心になって、大学個別の問題を取り上げ、「大衆団交」という形で交渉し、それが受け入れられないときには大学の「バリケード封鎖」という形で実力行使をするという運動を展開し、その活動は全国の大学に飛び火していった。

 そして各セクトに分かれて抗争を繰り返していた新左翼系過激派学生も、全共闘活動に入り込んで、その組織力で一般学生を排除し、各大学の全共闘を支配するようになった。そして各大学固有の問題から始まった全共闘活動は、68年後半ごろには、70年安保闘争を踏まえた反体制反政府運動へとシフトしていた。


 これらの一般ノンポリ学生や新左翼セクト学生らが入り交じって過激化した全共闘活動は、全国の著名大学でバリケード大学封鎖というかたちで、大学の機能を失わせ、バリケード内でセクト同士が主導権争いの内ゲバを繰り返し、大半の大学が無法地帯と化していた。

 そのような状況下で、当時の佐藤政権も動き出し、大学への警察力の投入も不可欠と考え出していた。なかでも全共闘運動の象徴ともなっていた東大では、加藤一郎総長代行と教授会は、1969(s44)年1月、ついに機動隊の出動を要請した。当時は「大学自治」が金科玉条であり、構内に警察権力を導入するのは、大学の自殺行為と考えられていた。


 大学側の苦渋の決断として要請された機動隊は、1969(s44)年1月18日午前7時ごろから、順次、封鎖された大学構内の各棟のバリケードを解除していった。そして午後1時ごろには、まさに東大紛争のシンボルとなった「安田講堂」の封鎖解除に取り掛かった。しかし、強固なバリケードと、事前に準備された上部階からの火炎瓶や敷石の投石、ガソリンや硫酸といった劇物の散布など、学生の予想以上の抵抗に遭った。

 機動隊は強硬手段を取らない方針で臨み、消防車による放水と催涙ガスで学生の抵抗を弱め、人海戦術でバリケードを撤去する戦略で対応したが、当日中には決着を付けられなかった。そして翌日1月19日午前6時30分、機動隊による安田講堂の封鎖解除が再開された。この安田講堂の攻防の様子は、テレビ各局で実況中継され、全国民が見守ることになった。


 2日目も全共闘学生の激しい抵抗があったが、午後4時前に、突入した隊員が3階大講堂を制圧し、日も暮れた午後6時前、ついに屋上で最後まで抵抗を続けた全共闘学生90人を検挙した。警察によると、一連の封鎖解除で検挙された学生は600人以上で、そのうち東大生はわずか38人だとされるが、実際には50人以上は居たものと思われる。

 いずれにせよすでに、一般学生はほとんど全共闘運動から離れており、東大学生も少なく、各セクトが動員した都内他大学の学生や地方の大学の学生が、学内に泊まり込みながら、機動隊に抵抗していたようで、一般学生が各大学固有の問題を提起した当初の「全共闘運動」からは、かけ離れた実態となっていた。


 すでに関西などの複数大学で、各大学全共闘によるバリケード封鎖が始まっていたが、東大や都内大学に寝泊まりしていた地方からの活動家学生が、各自の大学に戻って活動を始めたため、地方の多くの大学でもバリケード・ストライキが展開されることになった。

 しかし東大安田講堂バリケードへの機動隊導入と封鎖解除は、70年安保に向けて燃え上がった反体制運動の決定的な「転回点」となった。そして東大での機動隊導入は、他大学での機動隊導入アレルギーを解消し、1969(s44)年の春から秋にかけて、大学側が次々と機動隊を導入し、大学は正常に戻って行った。しかし学生たちと大学管理者や教授陣との相互不信の溝は、埋められることはなかった。


 都内の大学キャンパスを拠点にしていた過激派学生は、すべての「城」から追出された「敗残兵」として各地に散らばり、あるいは地下にもぐり、孤立化し、内部分裂し、ますます過激なテロに走り、そして連合赤軍の顛末に見られるような自滅の末路をたどることになる。

 大学に残された後遺症も大きく、当1969(s44)年春の東大入試は国に認められず、前代未聞の東大入試が無い年になった。また、筑波移転反対闘争による激しい学生闘争のあった「東京教育大学」は、紛争解決を契機に徹底的に改組され「筑波大学」となった。


 なお、三島由紀夫が単身で東大全共闘の集会にのり込んだ有名な討論会は、1969(s45)年5月東大教養学部駒場キャンパスでのことであり、本郷キャンパスでの安田講堂事件後、全共闘運動も沈静化された時期であった。また、東大全共闘山本義隆議長は、すでに指名手配を受けており、地下に潜伏したままで討論に加わることは無かった。


◎連続ピストル射殺犯人 永山則夫逮捕

*1969.4.7/ 連続ピストル射殺事件の永山則夫が逮捕される。


 永山則夫連続射殺事件は、1968年10月から11月にかけての1ヵ月たらずの間に、東京ほかの4都市で連続して発生した拳銃による殺人事件である。永山則夫が在日アメリカ海軍横須賀海軍施設から盗んだ拳銃を使い、男性4人(警備員2人・タクシー運転手2人)を相次いで射殺し、そのあと東京に潜伏し、翌4月7日、別の侵入事件を起こし逮捕されるまで、半年にわたって逃げていた。

 裁判では、犯行時19歳の「少年」であったこと、貧窮の境遇での生い立ちの過酷さ、獄中での改心や文筆活動に基づく情状配慮など、その判決は死刑・無期・死刑と二転三転する。最高裁は二審の無期判決を破棄、差し戻す際に「永山基準」なるものを示した。


 死刑判決の適用に際して考慮すべき基準を示したものであるが、その基準は9項目に及び、しかも具体的な数値(たとえば殺人人数等)は示されていない。しかし殺人の数が複数でないこと、犯行時少年であったことなどが、死刑を回避する理由として挙げられ、そのさいに永山基準が持ち出されることが多い。

 死刑廃止論や少年犯罪者への配慮などの議論で、いずれの立場からも永山基準に言及されることも多い。永山基準が実質的な死刑への判例とみなされている所以である。なお、死刑執行反対の多くの支援者にもかかわらず、1997(h9)年8月、永山は死刑執行された。



◎新宿西口 フォークゲリラに機動隊出動

*1969.6.28/ 新宿西口広場の反戦フォーク集会に7,000人が集まり、機動隊が出動する。


 60年代半ばから新宿副都心計画が施行され、駅西口にも広大な立体ターミナルが造られた。その整備されて間もない新宿西口地下広場で、1969(s44)年6月28日「反戦フォークゲリラ事件」なるものが起った。プロアマ入り交じったフォークソング・シンガーが、反戦歌などでベトナム戦争反対を訴える集会で、その数は1万人にいたったとも言われる。

「新宿西口地下広場フォークゲリラ」 https://www.youtube.com/watch?v=9O77o8v1iP0


 自然発生的に集まったわけでは、当然ない。反戦を訴える各団体が呼びかけなど集まったのだが、プロのフォークシンガーの事務所やプロダクションも、この機会を利用しようとしたとも言われる。しかしそもそもが烏合の衆、本格的に機動隊が動員されると跡形もなく排除され、その後「広場」は「通路」へと用途変更され、集会などはできなくなった(集会は不法占拠となる)。


◎アポロ11号 初の月面着陸に成功

*1969.7.20/ アメリカの宇宙船アポロ11号が月面に着陸する。


 1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)、アポロ11号の月着陸船「イーグル」号は月に着陸し、ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、月面に降り立った最初の人類となった。2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士は、月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させ、アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再びコロンビアに合流した。

 アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。アームストロングは「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である ”That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.”」というメッセージを、地球上の人類に送った。

 アポロ11号は実質的に宇宙開発競争を終わらせ、1961年に故J・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成したのだった。


 1957年人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ、1961年ガガーリンの宇宙初飛行と、常にソ連に先行されたアメリカは、宇宙技術および軍事ミサイル技術に関して、圧倒的な遅れを見せつけられ、ソ連優勢の状況に危機感を感じていた。その年就任したばかりのJ・F・ケネディ大統領は、その劣勢を挽回するために、1960年代中にアメリカ人を月に到達させるというアポロ計画を発表したのだった。

 人類初の月面着陸は、当時の宇宙開発競争の一つのゴールであった。つまりケネディは一発逆転を宣言したのであり、そしてこの年、アポロ11号は無事に月面着陸を成功させ、ニール・アームストロング船長が月面に降り立つ姿は、衛星中継により華々しく全世界に中継された。


 60年代を通じて、アメリカは軍事・政治・経済でソ連に押しまくられ、一方でベトナム戦争をかかえ、国内では反戦運動や黒人暴動の嵐に曝されていた。アポロの成功は、そのような「アメリカ人の憂鬱」に一条の明るい光をもたらせたのであった。

「アポロ11 完全版」 https://eiga.k-img.com/images/movie/90925/video/205e5e353936e795.mp4?1561616915


◎ロックやフォークの最大の野外フェスティバル ウッドストックで開催 

*1969.8.15/ アメリカのニューヨーク郊外で、ウッドストック・フェスティバルが開催され、40万人が集まる。


 ウッドストック・フェスティバルは、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間(事実上は4日にわたる)、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた、ロックを中心とした大規模な野外コンサートである。約40万人の観客を集め、アメリカの音楽史に残るコンサートとなり、1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。

 このフェスティバルは単なるロック演奏のイベントだけではなく、当時のカウンターカルチャーを集大成した、1960年代のヒューマン・ビー・インと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、ヒッピー時代の頂点を示す象徴と捉えられている。


 ウッドストックは山地にあるリゾート地で、ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスなどミュージシャンにゆかりの町でもあった。音楽好きの4人の若者たちが、レコーディング・スタジオを設立する資金集めにと、このロック・コンサートを企画したが、当初、1万人程度の入場者を見込んでいたところ、多くの人気ミュージシャンから出演の承諾が得られ、事前にチケットが売れまくって、当日入場者は20万人を超えると予想された。

 ウッドストックでの開催予定も、町から断られてしまったが、近郊のサリバン郡ベセルの個人農場主の了解を得られ、その酪農農場が会場となった。予定外の規模や場所での開催となり、開催当日には、会場への高速道路は会場に向かう人々でごった返し、さらにこの週末は激しい雨に見舞われ、施設は大混乱し、参加者は不足した食べ物などを分け合うことになった。


 想定外の多数の観客のため、入場料金の徴収も不可能となり、主催者側の若者は、無料フェスティバルにすると宣言し、大歓声を受けた。町の住民からは、ヒッピーなどの不法集団が集まると警戒され、嫌がらせも受けたし、ヒッピーの観衆の中にはマリファナやドラッグを利用するものもいたが、結果的に、40万にも達した観客数の膨大さに比べれば、驚くほど平和的な祭典であり、暴力事件なども報告されていない。

 大観衆を前に、挨拶に立った会場提供者の農場主マックス・ヤスガーは、こんなに沢山の人を前にしたことが無いので、何を言ってよいのか分からないが、多くの人が喜んでくれたのならうれしい、と朴訥なメッセージを申し述べ、大いに拍手と歓声を浴びた。


 コンサート初日には、インドのシタール奏者「ラヴィ・シャンカール」に反戦フォークの女王「ジョーン・バエズ」、2日目には1960年代後半に一世を風靡した女性ロック・シンガーの「ジャニス・ジョプリン」やイギリスを代表するロックバンド「ザ・フー」などが登場し、最後の3日目には、烈しい雨にみまわれて何度も中断し、最終日のトリを務める「ジミ・ヘンドリックス」が登場したのは翌月曜日の朝、8時30分になってしまった。

”Joan Baez - We Shall Overcome” https://www.youtube.com/watch?v=zuwGKxpI1Xs


 多くの人が帰ってしまったまばらな観衆の前でであっても、合衆国国家を反戦歌として演奏してしまうジミの演奏は圧巻であった。かくしてウッドストック・フェスティバルは、反戦、ヒッピー、ドラッグ、ロック、フォークなど、様々な若者による60年代カウンターカルチャーを代表する歴史的イベントとなった。なおこのコンサートの模様は、名監督マーティン・スコセッシ編集のもとで公開されDVD化されている。

”Jimi Hendrix- Star Spangled Banner at Woodstock” https://www.youtube.com/watch?v=sjzZh6-h9fM


◎大菩薩峠で軍事訓練中の赤軍派が逮捕される

*1969.11.5/ 山梨県の大菩薩峠で、武闘訓練中の赤軍派53人が逮捕される。


 安田講堂解放などで拠点を奪われた過激派一部は、テロや軍事武装路線に活路を見出し地下に潜行した。その一派「共産同赤軍派」は、武装蜂起への訓練を、大菩薩峠周辺の山中で行っていたところ、察知した警察によって一括逮捕された。旧世代には、中里介山の長編時代小説「大菩薩峠」の、ニヒルな剣士 机竜之助を思い起こさせる土地での逮捕劇であった。


 事後捜査での最高幹部議長塩見孝也ら重要メンバー逮捕などを含め、致命的な大打撃を受けた赤軍派は、そののち「京浜安保共闘」と共闘を組み「連合赤軍」と名乗る。ここからアジトを転々としながら、冬の山間を移動する過程で、「山岳ベース事件」での悲惨な同志リンチ殺害事件を起こし、そこから逃亡した一部が銃をもって企業の研修用の山荘に立てこもり、「浅間山荘事件」を引き起こすことにつながった。


◎日米共同声明 「沖縄の72年復帰」を発表

*1969.11.21/ 訪米した佐藤栄作首相が、ニクソン大統領と会談し、1972年沖縄返還の日米共同声明を発表する。

 訪米した佐藤栄作首相は、ワシントンでニクソン米大統領と会談、その共同声明で、72年に沖縄の返還されることが発表された。返還までに多くの行政処理が必要であったが、米軍基地問題をはじめ、返還後もいままで残された課題も多く糸を引いている。


 写真は返還前の沖縄の街路の様子。車が右側通行しているのが分る。どうやって左側通行に切り替えたのでしょうね(笑)




(この年の出来事)

*1969.9.5/ 日比谷公会堂で、全国全共闘連合の結成大会が開かれる。

*1969.10.21/ 国際反戦デーで、社会党・共産党・総評の統一行動が全国で行われる。反日共系各派は、東京・大阪などで、烈しいゲリラ活動を展開、約1,500名が逮捕される。

*1969.10.29/ 発癌性の疑いで、厚生省は合成甘味料チクロの使用を禁止する。


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