【20th Century Chronicle 1968(s43)年】
◎反政府反体制運動が頻発
*1968.1.19/ 米原子力空母エンタープライズが佐世保に入港、反対運動が激化する。(佐世保闘争)
*1968.1.29/ 東大医学部自治会が、インターン制度廃止にともなう登録医制度に反対して、無期限ストに突入、東大紛争が始まる。6.15には安田講堂を占拠、7.5には全学共闘会議が結成される。
*1968.2.26/ 成田市役所前で、成田空港建設に反対する農民・反日共系学生が機動隊と衝突する。(成田デモ事件)
*1968.3.28/ 米陸軍王子病院が開設され、3月28日、学生デモ隊が病院内に侵入する。(米軍王子キャン プ事件)
*1968.5.27/ 日大で20億円の使途不明金が発覚、学生たちが全学共闘会議を結成する。9.30には古田会頭と翌朝に及ぶ大衆団交を行う。
*1968.6.2/ 米軍のF4Cファントム偵察機が九州大学構内に墜落、4日、学長・教職員・学生ら5,000人が抗議デモを行う。(九州大学米軍機墜落事件)
*1968.10.21/ 国際反戦デーで、各地で学生や市民の行動が激化する。(国際反戦デー/新宿騒乱)






◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム
*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。
この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。
1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。
こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。
フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。
1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。
「帰ってきたヨッパライ」 https://www.youtube.com/watch?v=ieVYEYNBN-U
さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。
「イムジン河」 https://www.youtube.com/watch?v=1-eJDL3zLCQ
そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。
「悲しくてやりきれない」 https://www.youtube.com/watch?v=XelkLDGMpGw
フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。
なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。
「日本のフォークブーム」 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930
(2021.12.07追記)
「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA
夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。
入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。
受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。
そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。
実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)
(2021.12.08追記2)
さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。
「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg&list=RD79Ld-CdgVeg&start_radio=1&t=12
この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。
一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。
本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。
写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。
『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ
野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
ぼうしにいっぱい つみゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
いくさで死んだ 悲しい父さん
私はあなたの 娘です
二十年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていて下さい はるかな父さん
いわし雲とぶ 空の下
いくさ知らずに 二十才になって
嫁いで母に 母になるの
◎金嬉老 人質籠城事件
*1968.2.20/ 清水市で2人を射殺した金嬉老が、寸又峡温泉で人質を取って籠城する。
金銭トラブルから暴力団員2名を射殺した金は、猟銃とダイナマイトで武装して、寸又峡温泉の旅館に人質13人をとって籠城した。マスコミのインタビューに対応するなど傍若無人に振る舞った金は、在日韓国人二世として受けた差別などを訴えたため、事件は複雑な様相を示した。
結局、88時間に及ぶ籠城のあと逮捕されるが、平気でライフルを撃ち放ち、マスコミを呼び寄せインタビューに答えたりして、それをテレビなどが逐一放映した。いわゆる「劇場型犯罪」の最初のケースとされる。本来は暴発的な暴力事件にも拘らず、金が在日差別問題にからめたため、警察や逮捕後の刑務所などでも、必要以上に慎重に取扱うという問題も残された。
◎キング牧師 暗殺
*1968.4.4/ 黒人運動指導者キング牧師が、メンフィスで暗殺される。
'63/11 J・F・ケネディ、'65/2 マルコムX、'68/4 キング牧師、'68/6 ロバート・ケネディが、次々と暗殺された。その背景は様々だが、たったこの5年間での暗殺の集中には、暗澹たる思いがする。やはりベトナム戦争のもとでの、アメリカ社会の混乱が反映されていると考えられる。
ワシントン大行進での" I Have a Dream "という演説は、J・F・ケネディ就任演説に並ぶ名演説として記憶されている。無抵抗主義に徹して、そののち「公民権法」を勝ち得て、さらにノーベル平和賞を受賞する。
しかしその後も実際的な黒人差別は無くならず、急進派には無抵抗平和主義を批判される不遇にも出会うことになった。そしてキング牧師暗殺が起ると、過激な黒人暴動が各地に起こり、さらに混迷を招くことになる。
"I Have A Dream Speech" https://www.youtube.com/watch?v=vP4iY1TtS3s
*1968.5.3/ フランスのパリ大学で学生と警官隊が衝突、13日には学生・労働者がゼネスト。(パリ5月革命)
この季節、先進国の間では、若者の叛乱と言われる反体制活動が同時的に頻発した。アメリカでは反ベトナム戦争、日本では反70年安保という固有のトピックスがあったが、フランスではいかにもフランスらしく、アナーキスト、社会民主主義者、毛沢東主義者、トロツキストさらには労働組合員など、ソ連スターリン主義に近いフランス共産党を除く、あらゆる反体制組織が集った。
ソルボンヌで有名なパリ大学をはじめ、多くの大学が集中する「カルチェ・ラタン」では、バリケードを築いて「解放区」と呼び、警察と乱闘となった。カルチェ・ラタンとは単に「ラテン地区」という意味で、かつて学生やインテリが占有していたラテン語を話す人たちが住んだところから来ている。いずれにせよ、パリの街には革命騒ぎが似合うようだ。
日本でも学生運動には大きな影響を及ぼし、神田カルチェ・ラタン闘争なるものもあったが、一般人には遠いフランスでの出来事かと思われる。かろうじて、新谷のり子「フランシーヌの場合」という反戦ソングで思い出す人もいるかも知れない。ちなみに、フランシーヌ・ルコントが焼身自殺したのは、5月革命がすでに沈静化した、翌年の3月30日のことであった。「フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん」と歌った本人も、その後の行動をみるとそれほど、おりこうとも思えないのだが。
「フランシーヌの場合」 https://www.youtube.com/watch?v=fIYFbDQPNJg
◎札幌医大 初の心臓移植手術
*1968.8.8/ 和田寿郎札幌医大教授が、日本最初の心臓移植手術を行う。
和田寿郎教授の札幌医大外科チームは、日本初の心臓移植手術を実施し、大々的に記者会見を行った。しかし18歳の患者は83日後に死亡、手術時の輸血による血清肝炎を発症し(売血を使っていたこの時期の輸血ではよくあった)、必ずしも直接の死因が手術にあったとは言えない。
しかし患者の死亡後、さまざまな疑惑が噴出した。疑惑は多岐にわたるが、患者は心臓移植が必須であったかどうか、ドナーの脳死判定に関する疑惑、当時の心臓移植技術における時期尚早性などが、関係医学界などから提起された。
まもなく和田医師は殺人罪で刑事告発されるが、不起訴となっている。その後日本で心臓移植が行われるのは1999年であり、和田移植手術は我が国の心臓移植医療を30年遅らせたとも言われる。
なお、当時札幌医大に在籍し後に作家となった渡辺淳一は、事件をテーマに「小説心臓移植(「白い宴」と改題)」を発表し、綿密な調査取材で定評のある吉村昭も心臓移植を追った小説「神々の沈黙」を書き、この事件にも言及した。
*1968.8.20/ チェコの改革に対して、ソ連軍が介入する。(プラハの春 鎮圧)
1月、チェコ・スロヴァキア共産党第一書記にドプチェクが就任すると、次々と改革自由化政策を推進した。4月には「人間の顔をした社会主義」を目指す新しい共産党行動綱領を決定した。
この一連の自由化の動きは、のちに「プラハの春」と呼ばれることになるが、8月20日、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が軍事侵攻することで鎮圧された。そして本格的な自由化は、1989年の「ビロード革命」にまで持ち越されることになった。
'64東京五輪で「体操の花」と歌われたベラ・チャスラフスカは、この10月のメキシコ五輪への参加が危ぶまれたが、不足した準備にもかかわらず渾身の演技をした。ほとんどの個人種目に優勝、唯一銀に終った平均台の表彰台では、掲揚されるソ連国旗から顔を背け抗議の意を示した。
「平均台の表彰式/1:20ぐらいより」 https://www.youtube.com/watch?v=SyYMcLwKreo
◎川端康成 初のノーベル文学賞受賞
*1968.10.17/ 川端康成のノーベル文学賞が決定する。
当時の日本文学理解者としての米国文学者エドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンは、ノーベル賞選考委員会に日本文学の候補者を推薦する立場にあった。彼らは日本文学へのよき理解者であり翻訳家であり紹介者であったが、西洋人としてのオリエンタリズム(西洋から見た東方)から免れていたとは言いがたい。つまり「日本らしさ」を第一義的に評価するわけで、そこで登場した名前が、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などであった(たとえば横光利一などは西洋の亜流以上には評価されない)。
ドナルド・キーンがNHKの番組で語ったところによると、ノーベル賞委員会に意見を求められ、最も評価していたのは三島だが、まだ彼は若くて先に可能性がある(実はまもなく自刃するわけだが)、谷崎は最も実績があり相応しいと推薦したが、その後、受賞する前に彼は亡くなってしまう。そんなわけで消去法的に川端の受賞に至ったというようなニュアンスで証言していた。
川端康成は批評眼にもすぐれていた。対談か何かで「目玉がごろんと転がっているだけのような批評」というようなことを語っていたかと思う。鬼太郎の目玉オヤジが文学批評するのも怖いと思うが、川端のぎろりと剥いた眼もなかなかするどいものがあった。ある時川端が寝ていると、枕元に泥棒が入り込んで来て川端の顔を覗き込んでいる。気配を感じた川端が眼を開くと、眼が合った泥棒はギョッとして「駄目ですか」と言ってすごすごと逃げて行った、などという逸話もあるという。
当時、アジアからは、インドの国民的詩人タゴールが戦前に受賞していただけで、時期的には、そろそろ次の受賞者が選ばれる気運にあり、東京五輪も成功させて復興著しい日本は、その候補を出すにふさわしいと思われていた。最終的に文学賞を決めるノーベル委員会やスウェーデンアカデミーには、日本語で直接日本文学を評価できる人物はいないので、源氏物語などの翻訳者であるエドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンが日本文学の推薦を委託されていた。
最終選考委員たちは、英語ないしはスェーデン語・ドイツ語・フランス語といった西欧語に翻訳されたものを読むので、直接日本文学を翻訳するサイデンステッカーやキーンの意見が重視されるのは当然だった。しかもサイデンステッカーは谷崎の「細雪 ”The makioka sisters”」の翻訳者であり、川端の「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」の英訳者でもある。
また当時、三島の最も新しく翻訳された作品であって、委員会で講評の対象とされた「宴のあと」は、ドナルド・キーンが翻訳している。当時の評価では、三島は才能ある若手で重要な候補だが、ジャーナリスティックな作家として見送られたようだ。たしかに「宴のあと」は、当時の有力政治家がモデルとされたとして裁判になった作品で、端的にジャーナルな話題になったわけで、この作品が選考で重視されたのは三島の不運でもあったと言えよう。
川端康成が授賞するにあたって最も重視された作品は、代表作とされる「伊豆の踊子」や「雪国」ではなく、「千羽鶴」であったそうである。選考に関わる西欧人には、踊子や芸者は旧習のもとでの一種のプロスティチュート”prostitute”と見なされ、新しい日本文学として評価するのは相応しくないと考えられたようで、市井の中の生活を描いた「千羽鶴」が取り上げられたかと思われる。そして川端自身、サイデンステッカーの英訳が、自分の受賞に最も寄与したと評価している。
スェーデンでの授賞式では、川端康成は羽織袴で登壇し、日本文化の体現者として振る舞った。そして記念講演のタイトルは「美しい日本の私―その序説」とし、サイデンステッカーが同時通訳した。その内容はともかく、「美しい日本の私」という日本語には違和感が感じられ、26年後に2人目の文学賞受賞者となった大江健三郎は、「あいまいな日本の私」という皮肉的なタイトルで受賞講演を行った。サイデンステッカーの英語訳でも、”Japan, the Beautiful, and Myself”と単語を等置してお茶を濁している感がある。
(以下はオチャラケ文だが、参考までに)
谷崎のマゾ、川端のサド、三島のゲイと、三者立派な性向をもっていて、文学とは本来、そういう本質的主題から評価されるべきだが、推薦委員の米学者は、ひたすら日本趣味だけで評価した。サドの川端は自殺、ゲイの三島は情死、マゾヒスト谷崎のみが天寿を全うするという恋愛方程式を、彼らは見事に証明してくれたが、その文学的解明は、未だ為されないままである(笑)
◎三億円強奪事件
*1968.12.10/ 東京都府中市で、白バイ警官に扮した男が、3億円を奪って逃走する。
1968(s43)年12月10日午前9時30分頃、東芝府中工場従業員のボーナス約3億円を輸送中の銀行の輸送車が、府中刑務所裏の通称学園通りに差し掛かったとき、追いかけて来た白バイが現金輸送車を停車させ、爆弾が仕掛けられたかも知れないから調べるとして、警察官が車体下を覗き込んだかと思うと、そこから煙があがった。
数日前に爆破の予告があったため、輸送車の銀行員たちはとっさに避難したところ、輸送車はそのまま移動していってしまった。そしてそこに残された白バイが偽物だと気付き、やっと警察官を装った犯人に現金を強奪されたことが判明した。
現場の擬装白バイなど遺留品は数多く残され、犯人検挙について当初は楽観ムードだったが、遺留品には盗難品や一般に大量に出回っているものが多く、しかも事件当初に雑に扱われて指紋が取れないなど、捜査に役立たなくなったものも多かった。
12月21日には、犯人の顔を見た銀行員4人の証言をもとに、モンタージュ写真が公表された。しかしのちに判明したところによると、このモンタージュ写真は、かなり粗雑に作られたものだった。通常のモンタージュ写真は、分割された顔のパーツをつなげて合成するのだが、この写真にはそのような本来の方法が取られていない。
事件直後に容疑者として浮上した人物(少年S)がいて、似ているという銀行員4人の証言を根拠とした上で、少年Sに酷似した別人物の顔写真を用い、それにヘルメットを被せただけの合成写真だった。しかも少年Sは、12月15日に青酸カリで自殺しており、その通夜に犯人を見た銀行員を密かに臨席させて、少年Sが犯人に似ているという証言を得たという。
しかしその後の捜査で、少年Sは犯人ではないと判断されている。問題のモンタージュ写真は1974年に正式に破棄されるまで、犯人像として世間にさらされ続けた。その後、膨大な捜査員が導入され、何人もの容疑者が浮上しては消えていった。結局、1975(s50)年12月10日に公訴時効が成立し、犯人不明のまま未解決事件となった。
事件が迷宮入りした原因には、捜査の初動ミスが多く挙げられるが、とりわけ大きいのは、あの「モンタージュ写真」の先入見に頼った見込み捜査にあると思われる。あの無時間的なコラージュされたような手配写真だけが、事件の印象に入り込んでしまっている。今でも多くの人が、あの写真を犯人本人だと思い込んでいるのではないか。
モンタージュ写真の公開後、膨大な情報提供が寄せられ、捜査員は逐一その情報の真偽の確認に忙殺されたはずで、そのすべてが無駄になった。もし真犯人がまったく違った顔であれば、かなりの情報が初期の捜査の対象から抜け落ちてしまうのであり、逆に真犯人の目撃情報があったとしても、通報されずに終わっている可能性が強いのである。
(この年の出来事)
*1968.1.30/ 南ベトナム全土で解放勢力が大攻勢、テト攻勢を開始する。
*1968.3.9/ 神通川流域のイタイイタイ病患者28人が、三井金属鉱業を相手に損害賠償訴訟を起こす。
*1968.7.1/ 核拡散防止条約がワシントン・モスクワ・ロンドンで調印される。(日本は1970.2.3に調印)
*1968.10.12/ 第19回オリンピック メキシコ大会が開催される。
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