【20th Century Chronicle 1967(s42)年】
◎グループサウンズ・ブームが頂点に ザ・タイガースがデビュー
*1967.2.5/ グループサウンズのザ・タイガースが、この日発売のシングル「僕のマリー」でデビューする。
それまで一般の若者が楽器をいじる機会は、プロのバンドに属したバンドボーイやハワイアンの素人バンドぐらいしかなかった。そこへ、ベンチャーズに続くビートルズの来日で、エレキギター・ブームが一気に爆発した。街中ではもちろん、田舎のにーちゃんまでもが、空き部屋や農家の納屋などでジャカジャカやりだした。
当初はベンチャーズの影響が濃く、エレクトリック・ギターにドラムスなどのインスツルメンツ・バンドが主だったが、ビートルズブームが爆発すると、それにボーカルを加えたボーカル・アンド・インストルメンタル・グループが主流となった。それこそあちこちで、雨後のタケノコのように素人バンドが誕生した。自らが作詞作曲も手がけ、音楽事務所にも所属しない素人集団が、いきなりテレビに登場したりして、それらのバンドグループは、いつしか「グループサウンズ(GS)」と呼ばれるようになった。
何よりもエレクトリック・ギター(略称エレキ)の登場が画期的で、一躍エレキ・ギターのブームを引き起こしたベンチャーズの影響で、元祖GSの一角をになった「寺内タケシとブルージーンズ」が登場した。テレビ出演でベンチャーズのヒットナンバーを披露することが多く、そのコピーバンドかと思われていたが、ブルージーンズの1964年での初のコンサートでは、なんとベンチャーズが前座をつとめるほどのメジャーであった。
寺内タケシ&ブルージーンズ「ベンチャーズメドレー」 https://www.youtube.com/watch?v=KDqC6rEacrU
一方「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」は、すでにバックバンドとして活躍していたが、ボーカルの井上忠夫をむかえて再編成、メロディーやハーモニーを重視した歌唱グループとして大ヒットした。メンバーは短髪でスーツ姿でステージをつとめ、GS=長髪=不良というイメージから免れたため、NHK紅白に連続出場を許されたが、もともとのムード歌謡路線にシフトしていった。
ジャッキー吉川とブルーコメッツ「ブルー・シャトー」 https://www.youtube.com/watch?v=jzRphgmA4J8
もっともGSらしいGSとして、その礎を築いたとされるのが「田辺昭知とスパイダース」で、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどブリティッシュ・ビート・グループに強く影響を受けたグループであった。一方で、ステージでのかまやつひろし・堺正章・井上順などの軽妙なやりとりで、コミックバンド的な人気もあった。
スパイダース「バンバンバン」 https://www.youtube.com/watch?v=_lG9InOeIAc&t=0s&list=PLeK4RoQcX95DBouW1bTIaZFQMWag0i8dD&index=8
そのような状況で、1967年ごろのGS最盛期をリードしたのは、ジュリーこと沢田研二をボーカルとした「ザ・タイガース」と、ショーケンこと萩原健一を擁した「ザ・テンプターズ」だろう。これらグループもまた、それぞれ京都や埼玉の土地の若者がグループを組んで、ダンスホールや音楽喫茶(まだライブハウスなど無かった)などで演奏していたのだが、レコードレーベルやタレントプロダクションに目を付けられ、メジャーデビューすることになる。
ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」 https://www.youtube.com/watch?v=DfSzKWWWgZM
そういう時期に颯爽と登場したのがザ・タイガースで、1967年2月に「僕のマリー」が発売されデビュー、当時テレビ音楽界を席巻していた渡辺プロに所属すると、テレビの露出でまたたく間に代表的な人気GSとなった。彼らは京都でアマチュアバンドとして結成されたが、上京後にはレコード会社やタレントプロダクションなどによるプロデュースで、いわゆる「作られたGS」としてプロデビューした。
ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」 https://www.youtube.com/watch?v=J6Ps9kFsPxA
いずれにせよ、このようにしてメジャーデビューを果たしたグループサウンズは、名を挙げ出せばキリがないほどだが、主要10グループ・サウンズといわれたリストをあげておく。
ヴィレッジシンガーズ/オックス/カーナビーツ/ゴールデンカップス/スパイダース/ジャガーズ/ブルーコメッツ/タイガース/テンプターズ/ワイルドワンズ(theなどは略)
メジャーデビューした作られたGSは、プロの作家による楽曲を提供され、広く大衆うけしてヒットを連発するが、一方で飽きられやすく、1968年後半になると衰退の兆しをみせた。その上に、GS=長髪=不良という短絡思考の大人たちの影響で、GSコンサートを観に行くと停学処分とする高校が続出したり、GSにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体ホールなどが多くなった。NHKなどは、長髪のグループには紅白などに出場を認めないといった愚行さえ行った。
1969年になると、人気グループから主要メンバーが相次いで脱退するなどして、グループの解散も増え、ムード歌謡など別路線に転向するグループなども現れ、人気は急激に下降した。同年夏を迎える頃には、完全にGSブームは終焉を迎え、ほとんどのグループが解散・自然消滅という流れをたどった。
その後、人気グループのリード・ボーカルなどは、解散後も歌手やミュージシャン、俳優、またタレントとして芸能界の第一線で活躍し続けているものも多い。また、他メンバーの多くも、俳優や作曲家、音楽プロデューサー、芸能事務所経営者等として、多くが芸能界に関わっている。
かくしてグループサウンズは立ち消えていったが、その後の数多くのシンガーソングライターたちの出現地盤を提供し、プロとアマチュアの垣根を取り払った功績は大きい。そして、同時並行的にブームを為したフォークソング・グループなどと共に、その後のニューミュージックやJポップの隆盛の基盤を築いたといえる。
◎イタイイタイ病 原因は三井金属の廃水
*1967.3.-/ 富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、患者73人、要観察者150人をイタイイタイ病と認定した。
神通川下流域である富山県婦負郡婦中町では、骨がぐしゃぐしゃに折れ縮んで、イタイイタイといって亡くなる老人が相ついだ。この地区の開業医であった萩野医師は、早くからこれをイタイイタイ病と名付け、その原因を神通川上流にある神岡鉱山から流される鉱毒ではないかと考えた。
さらに岡山大学の小林純教授の研究をもとに、1961(s36)年に萩野昇医師と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。富山県や厚生省及び文部省も独自に原因究明に乗り出し、富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、1967(s42)年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。
そして1968(s43)年5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒によるもので、カドミウムは神通川上流の三井金属神岡鉱業所から排出されたもの」と断定した。これによってイタイイタイ病は、政府によって認定された公害病の第1号になった。
実は明治10年代生まれの私の祖母がこの地区の出身で、若くして京都に出たので当人には影響なかったが、親戚知人などにはイタイイタイと言って死んでいった者が何人もいたという。萩野医師のことを話すと「ハイノ(文字が読めないから音だけで憶えてる)はんはヤブヤブといわれとったもんやが」とか言ってた。
萩野医師の名誉のためにいうが、地方の開業医はまわりからヤブ医者扱いされることが多い。現在でも医療で完治できる病気はむしろ少なく、多くは病気の進行を遅延させたり、痛みなどを緩和する対症療法しかない。いまなら簡単に大病院に任すところも、地方では数少ない地元開業医が根気よく患者に対応するしかない。で、一向に治らないということで、陰でヤブ医者よばわりすることになるわけだ。
病名の由来は、患者がその痛みに「痛い、痛い」と泣き叫ぶことから来ているという。カドミウムによる多発性近位尿細管機能異常症および骨軟化症などを主な特徴とし、長期の経過をたどる慢性疾患を発症する。カドミウム汚染地域に長年住んでいて、この地域で生産された米や野菜を摂取したり、カドミウムに汚染された水を飲用したりするなどの生活歴による。
骨形成に必要なリン酸・重炭酸やカルシウムの吸収低下で、骨量が次第に減少し骨がもろくなる。最終的には骨の強度が極度に弱くなり、少し身体を動かすだけで骨折したりする。祖母に聞くと、昔の知人には、骨が圧縮されて身長が2/3以下になって死んでいった人もいたという。
◎美濃部亮吉 革新都知事が誕生
*1967.4.16/ 統一地方選挙の東京都知事選挙で、革新統一候補の美濃部亮吉が当選する。
父美濃部達吉は天皇機関説で知られる憲法学者で、美濃部亮吉は東京帝国大学経済学部でマルクス経済学を学び、法政大学でマルクス経済学者として教鞭を執っていた。この年の都知事選挙では、社会党と共産党などの支持のもと革新統一知事として当選した。この美濃部選挙のあと、大阪、京都など大都市圏でも、同じく革新統一方式で次々と革新知事・市長が誕生した。まさに革新地方自治の時代であった。
都政では、公共インフラ投資を次々と凍結・廃止するなど住民重視の政策や、老人医療費無料化、高齢住民の都営交通無料化など福祉無料化政策を進めたが、都職員の人件費大幅膨張などを含め、放漫財政による財政赤字化が大問題となった。退任時には、実質的に都は財政再建団体となっていたりし、全国の革新自治体ブームに水をさすような結果となった。
◎アングラ劇団が次々と誕生
*1967.4.18/ 寺山修司らによって、前衛演劇グループ「天井桟敷」が結成され、旗揚げ公演を行う。
*1967.8.5/ 唐十郎主催のアングラ劇団「状況劇場」が、新宿花園神社で紅テント公演をする。
カウンターカルチャーとしてのアンダーグラウンド文化は、アメリカではヒッピー文化とも相まって、音楽、映画、現代美術を中心に大きな影響を及ぼした。そのような流れに沿って、日本では特に「アングラ劇団」なるものが特徴的に花開いた。常設の演劇場をもたずに、都会の空き地などを利用してテント劇場など、ゲリラ的に活動する小劇団が幾つも生れた。なかでも、演劇関係者以外の一般世間でも話題を振り撒いたのは、寺山修司の「天井桟敷」や唐十郎の「状況劇場」だった。
「多芸の鬼才」「サブ・カルチャーの旗手」などの異名をとった寺山修司は、「書を捨てよ、街へ出よう」などの著作で、若者たちが家・学校・会社などからドロップアウトして街中で自己表現することを煽動した。そして1967(s42)年4月18日、アングラ劇団「天井桟敷」を旗揚げし、その劇団員募集広告では、「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」とするなど話題を提供した。
一方の唐十郎は、明治大学文学部演劇学科卒業という経歴をもち、 暗黒舞踏の土方巽に弟子入りするなど、演劇における役者の肉体性に注目していた。のちに妻とする李礼仙(李麗仙)と共に「金粉ショー」などをしながらキャバレーを巡り、芝居の資金や紅テントの購入費用を調達し、1967(s42)年8月5日、新宿花園神社境内に紅テントを建て旗揚げ、「腰巻お仙 義理人情いろはにほへと篇」を上演する。
アングラ劇は、かつての見世物小屋や大道芸などと関連が深く、テント興行など観客に身近で、その観客席に乱入したり、観衆を劇中に巻き込んだりと、観客と一体化した演劇を目指した。その延長線上に市中劇・市街劇として、猥雑な都会の街なかをそのまま舞台にしてしまったりする。新宿花園神社や新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建てて公演した状況劇場、警察当局の許可なしに市街劇「ノック」を敢行した天井桟敷など、話題に事欠かなかった。
寺山修司の「天井桟敷」と唐十郎の「状況劇場」は、意図的に互いのライバル意識を喚起し合っており、とうとう1969年12月12日には、劇団員同士の乱闘騒ぎまで起こすことになる。経緯は、天井桟敷の旗揚げ公演時に、唐十郎側がパチンコ店の使い古し花輪を贈った。その意趣返しで、状況劇場の開幕祝いとして葬儀用の花輪を寺山側が贈ったとか。そして天井桟敷の劇場へ状況劇場団員が殴りこんで乱闘騒ぎに。もちろん、シャレや話題つくりの意識もあったと思われる。
市街劇「ノック」 https://www.youtube.com/watch?v=WmsW51ew-ao
カルメンマキ「時には母のない子のように」 https://www.youtube.com/watch?v=Iyf3Qy9Ro5I
「少女仮面」2016公演告知 https://www.youtube.com/watch?v=ujM3mSGkIak
◎佐藤首相東南アジアおよびアメリカ外訪阻止 羽田闘争
*1967.10.8/ 佐藤首相の東南アジア歴訪に反対して、反日共系全学連の学生らのデモ隊が警察隊と衝突、学生側に死者を出す。(第1次羽田事件)
*1967.11.12/ 佐藤首相の訪米阻止のため、新左翼各派は再び首相訪米阻止を掲げて行動を起こす。(第2次羽田事件)
ベトナム戦争において米や南ベトナムを支持する佐藤首相が、南ベトナムを主眼とした東南アジア歴訪、およびその後の訪米と、続けて外訪することになり、これを阻止するために中核派・社学同・社青同解放派からなる「三派全学連」を中心とする過激部隊が、羽田周辺に集結した。この闘争で初めて、党派ごとに色分けされたヘルメットに、ゲバ棒を抱えて闘争するというスタイルが始まった。
1967(s42)年10月8日の第1次の南ベトナム等訪問阻止行動は、一部部隊が鈴ヶ森ランプから首都高速羽田線に乱入した。他の勢力は一般道路から空港を目指し、空港の入口となる海老取川に架かる3つの橋(穴守橋・稲荷橋・弁天橋)でバリケードを築いて封鎖していた警視庁の機動隊と衝突する。
中核派部隊が向かった橋弁天橋においては、機動隊員が放置した警備車両を学生が奪い、空港へ突入しようとしたりする激しい攻防の中で、中核派の京都大学学生山崎博昭の死亡が確認された。街頭での反体制運動で死者が出たのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、学生側、警備側双方に大きなショックを与えた。
さらに同年11月12日には、佐藤首相がアメリカを訪問するということで、新左翼各派は再び首相訪米阻止を掲げて行動を起こした。三派全学連の約2,300人が東京大学教養部から、革マル派の400人が早稲田大学から、それぞれ角材やヘルメットで武装して出立し、午前10時40分頃に京浜急行電鉄の電車に強硬無賃乗車して羽田に向かった。
新左翼各派は京急本線の京浜蒲田駅に集合し、シュプレヒコールを上げて羽田空港に向けて出発したが、前回の反省から防備を固めた機動隊は、産業道路に阻止線を張り、烈しい攻防の末、催涙ガスを用いてこれを鎮圧した。
この後、佐世保・三里塚・王子とのち「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われるが、ヘルメットとゲバ棒、さらに投石や火炎瓶という新左翼セクトのゲバルト路線は、この羽田闘争を契機として、ますます拡大されていった。
◎ミニスカート 日本にも登場
*1967.10.18/ 「ミニスカートの女王」ツイギーが来日する。
ツイギーの来日で、女性週刊誌やファッション誌が一斉にミニスカートを特集した。そしてこの頃以降に、日本の若い女性がミニスカート一色に染まる状況が生じた。本格的にミニが普及したのは、大阪万博'70でコンパニオンたちがミニで活動したころからか。
この頃の高校生の時に、一人の女子生徒がミニスカートをはいて登校してきた。京都市内の男女共学の公立高校で、制服もなく女子も私服だったが、みな比較的地味な服装だった。そこへいきなりタレントなど以外では見たこともない短いミニスカートが目の前に現れて、ニキビ面の男子生徒どもがいきりたった。
男子10人ぐらいが、その女生徒の後ろをワイワイ言いながら校内を追い回してたら、とうとう泣き出してしまった。いま思うと、まだツイギー来日より前で、1966(s41)年のビートルズ来日のころ、その時のファンを見てもまだミニは見当たらない。学園祭前夜祭のフォークダンスでもこの程度の地味さ、その時のミニ女生徒は、よほど勇気があったんだなと、いまどきになって感動している(笑)
(この年の出来事)
*1967.6.5/ イスラエルがアラブ連合などに攻撃を開始、「第3次中東戦争」が勃発する。
*1967.8.3/ 「公害対策基本法」が公布・施行される。
*1967.8.8/ 「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が結成される。
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