2020年11月29日日曜日

【20C_s4 1966(s41)年】

【20th Century Chronicle 1966(s41)年】


◎大型旅客機の大事故 続く
*1966.2.4/ ボーイング727 全日空機が東京湾羽田沖に墜落する。
*1966.3.4/ ダグラスDC-8 カナダ太平洋航空機が着陸失敗、羽田空港防波堤に激突し炎上する。
*1966.3.5/ ボーイング707 BOAC機が、富士山上空で空中分解し墜落する。

 なんとひと月ほどの間に、3件の航空機大事故がひき続いて起きた。原因はそれぞれだが、DC8機事故の生存者8名を除き、乗員乗客のほぼ全員が死亡するという惨事であった。

<全日空機 羽田沖墜落事故>

 1966(s41)年2月4日、全日本空輸60便(ボーイング727)は札幌千歳飛行場を出発し、目的地である羽田空港へ向かっていたが、羽田空港に向けて着陸進入中の19時00分20秒の交信を最後に、突如通信を絶った。墜落時に起きたと思われる炎を東京湾上で目撃されていたことから、羽田沖の海上の捜索が行われた。

 深夜になってから、木更津北方7海里付近において残骸が見つかり、寒風吹きすさぶ荒れ模様の海で懸命の遺体回収が行われ、4月14日までに乗員乗客132名の遺体が発見され、残り1遺体も後日に横須賀方面の岸壁で見つかった。

 導入されてまだ間もない最新鋭機ボーイング727で、日本における初の大型ジェット旅客機の事故だったことや、乗客乗員の合計133人全員が死亡するという、単独機として当時世界最悪の事故だったことなどで、世界からも注目を集めた。原因は、操縦ミス説と機体原因説があり、最終的に不明とされた。

<カナダ太平洋航空機 羽田空港防波堤激突事故>

 全日空機事故の1ヵ月後の1966(s41)年3月4日、香港発東京経由バンクーバー行きのカナダ太平洋航空402便(ダグラスDC-8)が、羽田空港への着陸直前に墜落した。当日の夕方、羽田は視界不良だったが、少しの視界回復の隙間を縫って、20時過ぎに管制誘導による主導着陸を試みたが、機首を下げ過ぎたため空港岸壁に激突して大破、乗員乗客64名が死亡し、乗客8名のみが救出された。

<BOAC機 空中分解事故>

 カナダ太平洋航空機事故のすぐ翌日、1966(s41)年3月5日、英国海外航空(BOAC)911便(ボーイング707)が、サンフランシスコを起点に、ホノルル、羽田空港を経由して香港に向かう計画予定だが、悪天候のため1日遅れたこの日の13時58分に、羽田空港から香港に向けて離陸した。

 羽田空港を離陸し上昇中の14時15分ごろ、静岡県御殿場市上空付近で乱気流に遭遇し、機体は空中分解、富士山麓に落下した。富士山特有の強力な乱気流に取り込まれ、設計荷重を大幅に超える圧力がかかったせいで空中分解したとされた。

 提出済みのフライト計画では、羽田空港から伊豆大島経由で海上を香港に向かう計器飛行方式(IFR)だったが、機長が富士山上空へ直行する有視界飛行方式(VFR)への変更を要求し受理されていた。予定より20時間以上遅れていたため時間カットを意図したという説と、アメリカからの大口団体観光客に富士山を見せるためにコースを変えたという説とがある。

 余談だが、映画「007は二度死ぬ ”You Only Live Twice”」が当時日本で撮影中で、監督はじめ制作スタッフがこの911便に搭乗予定だったが、予定変更があって急遽キャンセルして助かったという。数時間後に遭難の知らせを受けた一行は青ざめ、「これが二度目の命だ ”We Live Twice"」と胸を撫で下ろしたという、笑えない偶然もあったとか。


◎ボストン・マラソンで日本選手が上位独占
*1966.4.19/ ボストンマラソンで君原が優勝し、1位から4位まで日本人が独占した。


 世界の代表的なマラソンの一つボストンマラソンで、1位から4位までを日本人が占めた。1位君原、2位佐々木、3位寺沢、4位岡部、この時期日本マラソン陣は、世界を牽引する勢いであった。このときの優勝タイムは 2時間17分11秒。その後も日本人ランナーは世界のマラソンをリードしたが、近年のスピードマラソン化に付いてゆけず低迷することになる。


◎ビートルズ来日
*1966.6.29/ ザ・ビートルズが来日する。


 東京オリンピックの格闘技会場として造られた武道館は、このとき初めてコンサート会場として利用された。そのため音楽演奏はまったく前提とされていなくて、音響・録音システムなどは臨時構築された。ステージも急造でぶかぶか、スタンドマイクが演奏の震動で揺れて、向きを変えて逃げてゆく。ポールがギターの合間に、マイクをつかんで引き戻す様子なども見られた。

 前座は尾藤イサオ、内田裕也、ブルーコメッツ、ザ・ドリフターズなどが務めたが、前座の演奏など誰も聞く雰囲気などなく、「ウェルカム・ビートルズ」のコーラスでは、歌詞を忘れたのか、内田裕也など口パクで済ませている。

「武道館公演 ドリフほかの前座ステージ」 https://www.youtube.com/watch?v=Xrt8Ego2kvQ

 なお、日航機のタラップを降りるときのJALの名前入りのハッピは、JALが事前に用意して、スチワーデスに仕掛けさせたらしい。美形のスッチに、これをまとって降りると日本人が喜びますと言われて、全員ご機嫌でハッピーな姿で降りたようだ(笑)

 また、来日したメンバーを追いかける女子ファンを見れば分かるが、この時点ではまだだれ一人ミニスカートをはいていない。翌1967(s42)年10月のツィギー来日で、ミニがファッションとして認識された。そして1970(s45)年の大阪万博で、コンパニオンにミニの制服を身に着けさせたあたりから、ダイコン足のオバサンまで膝をだすようになった(笑)
「来日時TVニュース」 https://www.youtube.com/watch?v=JgehLBGkbJE


◎中国 文化大革命祝賀会
*1966.8.18/ 北京で文化大革命大祝賀会が開かれ、天安門広場は紅衛兵で埋まる。


 1966年8月18日、北京で「文化大革命大祝賀会」が開かれ、天安門広場は「紅衛兵」で埋まり、「毛沢東」が歓呼に答えた。その前の1966年8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新聞)を発表し、公式に紅衛兵に対し、党指導部の実権派と目された「鄧小平」や「劉少奇」国家主席らに対する攻撃を指示する。そして、紅衛兵による官僚や党幹部への攻撃は「造反有理(上への造反には道理がある)」のスローガンで、正当化された。

 これより前の1958年から1961年にかけて、毛沢東の主導で展開された「大躍進政策」は、数千万人の餓死者を出し、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東はその失敗の責任を取る形で国家主席を辞任、実質的な権力を一時的に失った。その後任となった劉少奇主席は、1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、「三分の天災、七分の人災」と大躍進の失敗原因を追究した。

 しかし毛沢東は共産党中央委員会主席として、依然として建国の英雄としての人気は保っており、劉少奇が大躍進政策の尻拭いを担当する形であった。そして、1966年には毛沢東が、「紅衛兵」と呼ばれる学生や若者労働者を扇動動員して、「文化大革命」と称する改革運動をひき起こしたが、その実態は、毛沢東が政敵劉少奇らを失脚に追い込むための、中国共産党内部の権力闘争であった。

 実権を握っていた劉少奇国家主席や鄧小平総書記などは、「走資派」(資本主義に走る反革命分子)と呼ばれ、次々に失脚させられた。さらに毛の権威を利用して文化大革命を実質指揮して、毛の後継とされた腹心の「林彪」副主席でさえ、その後の1971年9月には失脚する。

 原理主義的な毛沢東思想は、林彪に編集された「毛主席語録(毛沢東語録)」によって、紅衛兵として動員された無知な10代の少年少女を洗脳して、妄信的な運動として進められた。毛語録が紅衛兵の大集会で振りかざされるシーンは、文革を象徴する光景となった。

 やがて文化大革命の騒動は、中央の権力争いだけではなく全国各地方に展開されてゆき、各地方の幹部、知識人、旧地主の子孫などは、紅衛兵たちに「反革命分子」と名指され、ことごとく「自己批判」と称する吊るし上げにさらされ、暴力的な迫害が加えられ殺された。文化革命の大混乱で殺戮された犠牲者は、正確な統計は取りようもなく、数百万人から一千万以上という説まである。

 しかし、毛沢東思想を狂信的に掲げて暴走した紅衛兵は、やがて派閥に分かれ互いに反革命と罵り合いながら武闘を繰り広げ、いよいよ毛沢東にも統制できなくなったため、人民解放軍を投入して紅衛兵を排除することを決定し、武力鎮圧に乗り出した。さらに毛は1968年に、「上山下郷運動(下放)」を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこむことで収拾を図った。

 1970年代に入ると、内戦状態にともなう経済活動の停滞によって、国内の疲弊はピークに達していたが、そのころ、文革を主導してきた林彪が毛沢東と対立するようになり、1971年9月には林彪による毛沢東暗殺計画が発覚し、林彪一派は飛行機で国外逃亡を試みるも事故死する(林彪事件)。

 林彪の死後、ずっと調整の立場を維持していた周恩来の実権が強くなり、また1973年には鄧小平が復活する。知識人たちの多くも都市に戻ってきて、文革は下火に向いつつあった。しかしその後も、毛に直結して文革を推進してきた毛沢東夫人「江青」ら急進原理派の「四人組」は、現実派の周恩来や鄧小平の打倒を進めた。

 1976年1月8日には、文革派と実権派のあいだにあって両者を調停してきた周恩来が死去した。その周恩来の追悼を切っ掛けに「四五天安門事件(第1次天安門事件)」が発生し、混乱に乗じて四人組は鄧小平を再び失脚させるが、続いて同年1976年9月9日に毛沢東までも死去する。政権を引き継いだ華国鋒国務院総理により、10月6日、後ろ盾を失った四人組は逮捕される。

 翌1977年7月、失脚していた鄧小平が復活し、同年8月、中国共産党は第11回大会で、四人組粉砕をもって文化大革命は勝利のうちに終結したと宣言した。毛沢東色を残す華国鋒に代わって、不死鳥のように何度も復権した鄧小平が実権を握り、文革で破壊的な状況となった国内の復興をはかり、対外的な関係も修復してゆくこととなった。


◎サルトルとボーヴォワール 来日
*1966.9.18/ フランスの実存主義哲学者サルトルとボーボワールが来日する。

 この時期、戦後の実存主義ブームも下火になり、構造主義からの批判にもさらされていた。そしてサルトルは、「アンガージュマン」(政治・社会 積極参加)を唱えて左傾化していた。しかし来日時には、そういう事情にうとい日本のインテリ層には大歓迎された。


 同伴者として来日したボーヴォワールは、代表作「第二の性」で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と宣言し、昨今のジェンダー論の先駆ともされる。サルトルとは「契約結婚」という前衛的な関係を結んだが、その後もサルトルの死までの50年間「同伴者」として歩むことになる。

 若きサルトルはサン=ジェルマン=デ=プレのカフェで、ボーヴォワールに「このコップ一杯の水からも哲学ができるんだよ」といって、彼女のナンパに成功したという話が、私の頭の中にでき上っている。実質、サルトルはボーヴォワールを「都合のよい愛人」として扱っていたのではないかという疑念がある。そしてボーヴォワールも、思想的にはフェミニズムの旗手であるにも関わらず、サルトルには「女」として従っていたのではないかと思われる。

(2022.05.31附記)
 サルトルに「ユダヤ人」という評論がある。詳しい内容は知らないが、概説で読むかぎり、サルトルは「ユダヤ人差別問題」を「差別する側の問題」に還元して捉えているようだ。しかしこれだと、黒人差別も女性差別も、すべて「する側の問題」に還元されてしまうのではないか。

 これは、サルトルの「実存主義」と同じ問題点を持つと思われる。「事象そのものへ」という現象学からスタートして、実存主義にも事実的事象を重視する意味が込められているが、サルトルはそれを「主観」に還元して捉えていたのではないか。

 つまり、ユダヤ人差別と同様に、実存も「主観側の問題」として一般化されてしまう。だからこそ、そこに見出すのが「無」であるというのは、論理的帰結でしかなく、きわめて透明な世界理解になる。だからこそ、分かりやすくて受けたのだろう。

 サルトルの資質はジャーナリストであり、そこには歴史認識が欠落している。同じく現象学のライバルだったハイデッガーが「存在と時間」を著わし、「時間=歴史」に存在を見出しているのと、対照的である。まあ、ハイデガーも「ゲルマン民族の歴史」に深入りして、神話にまで行ってしまったけどw


◎「週刊プレイボーイ」創刊
*1966.10.28/ 平凡出版の「平凡パンチ」に対抗して、集英社から「週刊プレイボーイ」が創刊される。


 「平凡パンチ」に遅れて2年後「週刊プレイボーイ」が発刊された。「月刊平凡」の平凡出版と、「月刊明星」の集英社とは、芸能雑誌でしのぎを削った関係、こちらでもライバル意識は濃厚であった。「平凡パンチ」は文化的・保守的、「週刊プレイボーイ」大衆的・反体制的というのは、そういえばそのように思える。

 しかし私のイメージでは少し違って、パンチは軽妙洒脱、都会派ボーイ的な乗りで、プレイボーイにはディープで攻撃的なにおいを感じた。大槁歩のアイヴィー若者の軽やかなイラストに対して、この初期の表紙写真をよく見れば、女性ヌードをコラージュしたもので、過剰な主張を感じさせる。


(この年の出来事)
*1966.4.20/ 日産自動車とプリンス自動車工業が合併、自動車業界の再編成が始まる。
*1966.9.3/ 荒船清十郎運輸相が、自分の選挙区に急行を停車させるように国鉄に指示したとして、国会で追及され辞任に追い込まれる。
*1966.11.13/ 全日空のYS11型機が、愛媛県松山空港への着陸に失敗して海上に墜落、50名が死亡する。(戦後初の国産機事故)


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