2020年11月28日土曜日

【20C_s4 1965(s40)年】

【20th Century Chronicle 1965(s40)年】


◎マルコムX 暗殺
*1965.2.21/ 急進的な米国黒人運動指導者マルコムXが、演説中に暗殺される。

 日本では、アメリカの黒人解放運動と聞いてキング牧師を思い浮かべる人は多いが、マルコムXという奇異な名前の人物はあまり知られていない。ガンジーゆずりの平和無抵抗主義を維持したキング牧師に対して、マルコムXは非合法的な運動も認めるような過激な演説で黒人たちの支持を集めた。

 キング牧師らの解放活動が「公民権法」の成立に大きな寄与をしたのは間違いないが、ケネディ、ジョンソンと続く政権が公民権法の制定を急いだ背景には、マルコムXらの過激な主張から切り離したいという思惑も働いたと考えられる。

 公民権法成立後も事実上の差別は無くならず、目標を達成して存在感が弱まったキングらの無抵抗主義に対して、マルコムXらの過激派の勢力が増した。やがてマルコムXの暗殺、さらに数年後キングの暗殺と、むしろ黒人たちをさらに過激に走らせる事件が相つぐことになる。

 ちなみに、ボクシング史上最大のチャンプともされるモハメド・アリは、マルコムXを信奉し、従来のカシアス・クレイというのは奴隷の名前だとして、彼から授けられたムスリム名のアリに改称した。

MalcomX speech"We declare our right on this earth" https://www.youtube.com/watch?v=zcAyDkPiTEU


映画「マルコムX」(1992/米) 監督スパイク・リー/主演デンゼル・ワシントン


◎ベトナム戦争拡大 ベ平連
*1965.2.7/ 米軍が北ベトナムのドンホイを爆撃する。(北爆開始)
*1965.4.24/ 「ベトナムに平和を!市民文化団体連合(ベ兵連)」が、初のデモ行進を行う。
*1965.7.29/ アメリカのB52爆撃機が、沖縄嘉手納基地を発進してサイゴン南郊を爆撃する。


 1964年のトンキン湾事件の報復として、ジョンソン大統領によって、ベトナム本土への直接的空爆は始まったが、1965年2月7日に、アメリカ軍事顧問団基地キャンプ・ハロウェイがベトナム解放戦線によって攻撃され、アメリカ軍将兵7名が死亡し109名が負傷するという事件が起きた。これをきっかけに、アメリカ空軍は北ベトナムのタンホイ空軍基地を空爆、本格的な「北爆」が始まった。

 J・F・ケネディ大統領の暗殺を受けて、副大統領から昇格したリンドン・ジョンソン大統領は、1964年11月の選挙で圧勝し、政権基盤を強めて1965年から新しい任期に入った。ジョンソン政権の新しい任期においても、マクナマラ国防長官やラスク国務長官など、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を推し進めた閣僚は留任しており、ベトナム戦争の進展とともに、アメリカの軍事介入は拡大していった。

 当初は南ベトナム内での、共産ゲリラ南ベトナム解放戦線(ベトコン)との内戦での、アメリカの軍事支援という建前であったが、北ベトナムの都市を米空軍が直接爆撃する北爆により、米軍が前面に出て北ベトナムと戦うという状況となった。以降、地上軍の大量投入など、泥沼化する局面に入ってゆく。

 米国国内でも、ベトナム反戦の声は拡大してゆくが、日本でも北爆の開始から、ベトナム反戦の気運が生じてきた。何よりも、沖縄の米軍基地がベトナム派遣アメリカ軍の補給基地となっており、1965年7月には、アメリカのB52爆撃機が、沖縄嘉手納基地を発進してサイゴン南郊を爆撃するという事態が生じた。

 この時期は、安保闘争の端境期で学生運動は下火だったが、いわゆる「文化人」を中心に無党派のゆるやかな市民の集まりが結成された。小田実・鶴見俊輔・開高健らが呼びかけ、「ベトナムに平和を! 市民(文化団体)連合」という長たらしい正式名称を付けて、街頭デモを主体に活動を始めた。

 「ベ平連」と略称された運動体は、一般市民が参加しやすい平和的なデモが活動の主体だったが、一方でリーダーたちは、ニューヨーク・タイムズ紙への反戦広告、反戦ティーチ・イン、支援カンパ、ベトナムに平和を日米市民会議、反戦米兵の脱走援助など、ユニークで創造力にあふれた反戦活動を展開した。

 やがて70年安保が近付くにつれて、新左翼の昂揚とともに左傾化してゆき、市民的小集団の離脱がみられ活動は下火になる。公的には、70年安保闘争が終わり、さらにベトナム和平協定の後、1974(s49)年2月に解散した。しかし、左翼政治団体から独立した市民的運動の一つの形を示し、その後の市民活動に残した功績は大きい。

 そのような初期の自由な雰囲気を引き継ぐかたちで、岩国の反戦スナック「ほびっと」や、京都のフォーク喫茶「ほんやら洞」などが開店。同様のコンセプトの店も全国に開かれ、フォークを通じて反戦・コミューン運動に関わる学生・若者らで賑わい、70年代のサブカルチャーの拠点としての役割をはたした。


◎日韓基本条約調印 国交正常化へ
*1965.6.22/ 日韓両国外相が、日韓基本条約および関係4協定に調印する。
*1965.8.14/ 韓国与党の民主共和党が、単独で日韓条約批准案を可決。25日、学生約1万人がデモ行進を行い、軍隊と衝突する。
*1965.12.11/ 参議院本会議で、自民・民社2党が日韓条約を強行採決する。


 1965(s40)年6月22日、佐藤栄作内閣は韓国の朴正煕大統領との間で、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)」を締結した。この条約により、両国の外交関係の樹立、過去の韓国併合条約などの失効などが確定し、日本は韓国を「朝鮮半島唯一の政権」であると認めた。そして日本は、無償3億ドル、有償2億ドルの経済援助を行うことを約束し、それを以て賠償問題は終わったとした。

 日韓の国交回復交渉は1951(s26)年、日本が主権を回復した直後から、吉田内閣と李承晩政権との交渉から始まった。当時の李承晩政権は、連合国の一員(対日戦勝国)としての交渉と賠償を要求しており、日本政府としてはとうてい認められる前提ではなかった。

 さらに、朝鮮戦争の最中であり、一方的な李承晩ラインの設定など、徹底的な対日敵視政策をとる李承晩政権との交渉は、ほとんど不可能に近かった。しかし東西冷戦下で、かつ南北朝鮮戦争を抱えたアメリカは、日本の自立を必要としており、日韓交渉を強力に斡旋し、国交回復交渉という形で両国間の交渉は始められた。

 日韓の国交回復交渉で最大の課題は、やはり「歴史認識」問題であった。韓国は1910(m43)年の韓国併合条約を国際法上無効であるとして、その上で、日本の植民地支配としての「賠償」を強く求めた。それに対して、日本政府は併合条約は当時の国際法上有効な条約であり、合法的な併合であるから賠償は必要ないと主張した。

 両国政府による数次の会談でも、両者の認識の違いは埋まらず、遅々として進展しなかったが、1960(s35)年4月に韓国で「四月革命」が発生し、李承晩は大統領は辞任してハワイに亡命する。さらに1961年5月、韓国で朴正煕らが「5・16軍事クーデター」を起こす。軍事政権を樹立した朴正煕は、日本の事情にも詳しく、交渉においても現実路線を取ったため、交渉は具体的な問題に踏み込んで進められた。

 国家再建最高会議議長朴正煕が、1961年11月11日に訪日し池田勇人首相と直接会談し、請求権問題は賠償的性格でなく法的根拠を持つものに限るとして、池田首相も、法的根拠が確実なものに対しては請求権として支払い、それ以外は無償援助、長期低利の借款援助を示唆することで、経済協力方式による解決が提示された。

 この日韓首脳会談が契機として、歴史認識問題や竹島の帰属問題は棚上げとなり、条約の締結に至った。最終的には韓国の朴正煕大統領が、賠償なのか支援なのかは問わず、日本からの無償3億ドル・有償2億ドルの提供を受けるということで決着することになった。

 両国とも、国内で反対運動が起きて難航したが、年内にはともに批准が済み、条約は発効した。当条約と付随協約により、日本は朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄し、当時の韓国の国家予算の2年分以上の資金を提供することで、日韓国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、日本の対韓請求権と韓国の対日請求権という両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓関係正常化などが取り決められた。

 最終的に日本は、約11億ドルの経済援助を行うことになり、韓国は日本からの受けた請求権資金・援助金で浦項総合製鉄・昭陽江ダム・京釜高速道路・漢江鉄橋・嶺東火力発電所などが建設されて、最貧国から一転して経済発展が進んだ。ただし、日韓基本条約によって日本から個人への補償金として支払われた無償援助3億ドル分は、韓国政府が経済発展資金に回したため、いまだ個人の請求権の有無が問題にされるなど、韓国側の都合で振り回される状況が続いている。


◎文豪の名にふさわしい 谷崎潤一郎没
*1965.7.30/ ノーベル賞候補にもなった文豪谷崎潤一郎(79)が没する。


 戦前から文豪と呼ばれた中では、比較的長寿の79歳没。日本文学の一つの時代が終ったとも言える。悪魔主義、耽美主義、変態文学、マゾヒズム、女性跪拝などと様々な呼び名が付けられたが、一貫して崇拝的な女性美像を追求した。谷崎の妻をめぐって友人佐藤春夫との三角関係に陥ったが、佐藤に妻を譲るという三者連名の声明文を発表、「細君譲渡事件」と騒がれたり、奔放な行動が話題を呼ぶことも多かった。

 谷崎は日本最初のノーベル文学賞候補とされ、彼の死後は三島由紀夫が浮上したが、結果的に川端康成の受賞となった。これらの名を観ると、いずれも日本的な美の追求者という側面がうかがわれ、西欧側からのオリエンタリズムの色が濃く反映していることは否めない。

 当時の日本文学推薦者のひとりドナルド・キーンは、本心では三島が最も優れていると思っていたが、日本社会の年功序列などを意識して川端を推すことにしたと、後日語っている。

 現在の著作権法では保護期間が著作者の没後50年と定められており、谷崎の作品は2015年から一般に公開できることになった。たとえば青空文庫などでは順次公開されつつあり、いつでも無料で読める。
 「春琴抄」 http://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56866_58169.html

 ところが「環太平洋パートナーシップ(TPP)協定」では、アメリカなどにあわせた「没後70年」に延長される(音楽なども同じ)。すでに期限切れには適用されないが、たとえば、従来なら2020年に切れる予定だった三島由紀夫の作品は、2040年にまで延長されることになった。


◎テケテケテケ ベンチャーズブーム
*1965.7.-/ ザ・ベンチャーズがこの年2度目の来日で、エレキギターブームが爆発する。


 日本のエレキギター・ブームを爆発させたのは、間違いなくザ・ベンチャーズであった。ビートルズもすでに日本でもブームをひき起こしていたが、その来日はこの翌年になる。ベンチャーズは、一部メンバーは以前にも来日したが、フルメンバーで来日して人気炸裂したのはこの時である。若者たちはこぞってエレキギターに飛びつき、買えないものは座敷ホウキを抱えて、口でテケテケテケと呪文のように唱えた(笑)

 翌年のビートルズ来日公演とも相まって、グループ・サウンズ(GS)なるものが、日本の全国に雨後の竹の子のように生れた。自分たちで作詞作曲、演奏しかつ歌うというスタイルはまたたく間に広がり、地方の片田舎の若者が、一躍テレビ・レコードにデビューするという現象が出現した。

 ベンチャーズは、日本に愛され、またこよなく日本を愛し、その後何度も来日し、日本人歌手には楽曲を提供して、それらは「ベンチャーズ歌謡」とも呼ばれた。

「ベンチャーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=S4f5f5z3CDM

京都の恋・渚ゆう子(ベンチャーズBest) https://www.youtube.com/watch?v=Ckz0MWo7UFs


◎スポーツ界で快挙 二選
*1965.5.18/ ファイティング原田が、ボクシング世界バンタム級で、日本人初のチャンピオンとなる。

 1965年5月18日、名古屋市愛知県体育館で、プロボクシング世界バンタム級タイトルマッチが行われた。軽量級でも最強のボクサーが集まるとされた「黄金のバンタム」で、50戦無敗の王者エデル・ジョフレ(ブラジル)の9度目の防衛戦に、元世界フライ級王者ファイティング原田が挑戦した。試合は、ジョフレが圧倒的有利と予想されていたが、2-1の僅差の判定で原田が勝利するという番狂わせが生れた。

 ファイティング原田は、1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦し、当時の世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に激しい連打を浴びせ、11Rノックアウト勝ちをおさめた。1952年の白井義男以来、10年目の世界チャンピオンだったが、3ヵ月後のポーンとのリターンマッチで、減量に苦しんで判定で敗れた。

 バンタム級に転向した原田は、1963年9月、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開だったが、6R、メデルに一瞬の隙をついたカウンターをヒットされ、3度のダウンの末にKO負けした。しかし原田はすぐに再起し、1964年10月、ライバルの東洋王者青木勝利に3R KO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権をつかんだのだった。

 ファイティング原田のラッシングパワーは、当時テレビジョンの普及とともにブームを迎えつつあったプロボクシングを、一挙に人気スポーツに押し上げた。と同時に、日本のプロボクシング界を世界レベルに引き上げ、次々と原田に続いて世界に挑戦する選手を生み出した。


*1965.10.-/ 南海ホークス野村克也捕手が、戦後初の三冠王に輝く。

 野村克也は名監督としても名を馳せているが、現役時代の生涯記録はざっと挙げても、2901安打(歴代3位)・657本塁打(歴代2位)・1988打点(歴代2位)・ 3017試合(歴代1位)・11970打席(歴代1位)とすごいものが並ぶ。さらにこの年、戦後二リーグ制になって初の三冠王に輝いた。

 1962年、当時シーズン最多本塁打52本を記録するも、翌年、王貞治が55本を打ってあっさり抜かれる。三冠王も、王が73・74年と連続獲得してその栄光は後退、ずっと更新し続けてきた通算最多本塁打・最多打点なども、ことごとく王に抜かれて歴代2位にあまんじることとなる。

 記録面では王に立ちはだかられたが、それ以上にライバル心を焚き付けられた相手は、「記録より記憶に残る男」長嶋茂雄であった。京都府北部の寒村に生まれ育ち、甲子園には無縁な地方公立高校を出て、テスト生として辛うじてプロ野球選手に潜り込んだ野村にとって、東京六大学のスター選手として華々しく巨人に入団、いきなり本塁打王と打点王の二冠を獲得して新人王、そんな長島はまばゆいばかりの存在であった。

 野村が節目の600号本塁打を達成したときの観客は七千人程度、その時のインタビューで、長嶋ら(王も含めて)をヒマワリにたとえ、そして自らをひと目につかずひっそりと咲く月見草に擬したのであった。


(この年の出来事)
*1965.3.20/ 河野一郎国務大臣から、記録性に欠けると批判された市川崑監督「東京オリンピック」が公開され、大ヒットとなる。
*1965.6.12/ 新潟大学の植木幸明教授らが、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表する。(第2水俣病)
*1965.10.21/ 朝永振一郎博士が、ノーベル物理学賞を受賞決定。


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