【20th Century Chronicle 1964(s39)年】
*1964.1.3/ 広域連続殺人事件の凶悪犯 西口彰が逮捕される。
1964(s39)年1月3日、広域連続殺人事権の犯人として指名手配中の西口彰が逮捕された。その前日、弁護士を名乗って熊本県玉名市の立願寺を訪れ、住職で冤罪事件防止に取り組む教戒師でもある古川泰龍宅に泊まり込む。しかし古川の11歳の娘が、指名手配のポスターから西口に気づいたおかげで、警察に通報されたのだった。
詐欺・恐喝などで前科4犯の西口彰は、1963(s38)年10月に福岡で2人を殺害したのに始まり、1964(s39)年1月に逮捕されるまでの3ヵ月間に、福岡・静岡・東京など各地で合計5名を、いとも簡単に殺害していた。早期から指名手配されながら、大学教授や弁護士などのインテリを装って逃走し、先々で詐欺や強盗殺人や詐欺を繰り返した。
戦後の高度成長下で、自動車普及や道路整備などによって、犯行が広範囲に及び、犯人が遠方まで逃亡・逃走しやすくなったなかで、各都道府県警の間での協力体制が整わないことから事件解決が難しくなっていた。この西口事件の反省から、警察庁は「警察庁広域重要指定事件」と指定することで、各地警察の管轄をまたがる事件に対処することとなった。
なお、佐木隆三の小説「復讐するは我にあり」は、この事件を題材にしたもので、後日、映画化され、TVドラマでも複数回取り上げられた。
*1964.4.1/ 日本がIMF(国際通貨基金)の8条国に移行する。
*1964.4.28/ 日本がOECD(経済協力開発機構)に加盟する。

これらは、経済先進国間で自由な取引を行い、相互にその利益を受け取ると同時に、発展途上国に対しては、その発展を促すよう支援する義務を負うことになっており、これらに移行することは、日本の経済が名実ともに、先進国の仲間入りをしたことになったと言える。
*1964.4.28/ 若者男性ターゲットに、週刊「平凡パンチ」創刊される。
若者男性をターゲットにした週刊「平凡パンチ」は、またたくまに、ファッションから遊びなど、若者のライフスタイルを網羅したリーディング・マガジンとなった。 当時、美大の学生であった大槁歩は、7年間余りの390号まで表紙絵を担当し、その描くイラストに登場するアイビーファッションを真似する若者が多く登場した。
◎漫画雑誌「ガロ」創刊
*1964.7.24/ ユニークな漫画雑誌、月刊「ガロ」が創刊される。
「ガロ」は、従来の貸本系のにおいを色濃く残した漫画誌だった。それまでの少年を対象にした既存の漫画雑誌では、白土三平の「カムイ伝」のような壮大な構想と思想性を濃く持った作品は掲載されづらかった。そこで貸本業界の名物編集者や白土三平が、自身の作品を含めて既存に無い作品を掲載できる漫画雑誌「ガロ」を創刊することになった。

*1964.10.1/ 東京-大阪を、4時間で結ぶ東海道新幹線が開業する。
1964(s39)年10月1日、東京オリンピックの開催を10日後にひかえて、東海道新幹線が開業した。開業当初の営業最高速度は200km/h(東京~新大阪間 「ひかり」4時間・「こだま」5時間)で、路盤の安定を待って翌年に210km/h運転(同区間「ひかり」3時間10分・「こだま」4時間)を開始した。
日本の二大都市である東京~大阪間は、1958(s33)年から在来線特急「こだま」が6時間50分で結び、かろうじて日帰り可能になったが、滞在時間がわずか2時間あまりしか取れなかった。しかし新幹線の開通により、日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、ビジネスやレジャーなど生活スタイルに著しい変化を及ぼすようになった。
1958(s33)年に新幹線は建設計画が承認され、翌1959(s34)年4月に起工式が行われた。奇しくも1ヵ月後のIOC総会において、1964(s39)年東京オリンピックの開催が決定された。当然、東京では、五輪開催に向けて首都高速など工事の嵐となるが、すでに起工されていた新幹線は、その開催に合わせて開通させることが、至上命令となった。
日本の在来線鉄道線路は、明治以来「狭軌」という幅の狭い軌道が導入されていた。しかしその線路幅ではスピードが出せない、しかも従来の東海道線は山などを避けて曲がりくねっている。そこで、「広軌」という線路幅の広い規格を採用し、しかも直線性の強いまったく新しい新幹線を敷設することになった。
これは考えただけでも大変な事業で、用地の買収から、直進するために、トンネルや高架をほぼ全線にわたって採用することになる。これだけの国家的大事業を実現するために、予算の獲得から技術的問題のクリアまで、当時の国鉄総裁で「新幹線の父」と呼ばれる十河信二の努力は、多大なものであったと想像される。
当時の国鉄が総力を挙げて取り組み、多数の技術者らの尽力により、この日1964(s39)年10月1日、午前6時前、東京および新大阪駅を、それぞれから、下り ひかり1号・上り ひかり2号が出発した。起工から5年半の奇跡的な開業であった。
計画当時、アメリカの鉄道事業の衰退などから、鉄道は斜陽産業とみなされていた。しかし日本における東海道新幹線の成功から、その後の全国への新幹線伸長は、世界中に高速鉄道を復活させる契機となったのである。
*1964.10.10/ 東京オリンピックが開幕する。
1964(s39)年10月10日、前日の雨を忘れたかのように、当日は抜けるような青空の秋晴れとなった。午後1時50分、音楽家団伊玖麿作曲のオリンピック序曲が演奏され、オリンピック旗および参加国旗が一斉に掲揚された。 天皇陛下のご臨場、さらに君が代の演奏の後、オリンピックマーチに合わせ選手団の入場となった。
選手団の入場は、古代オリオンピックの歴史に従って、ギリシャ選手団を先頭に、アルファベット順に各選手団が続き、開催国日本の大選手団が最後に入場した。各選手団には縦列行進の際、歩度・歩幅と細かな指示が与えられていたといい、とりわけ日ごろから慣らされている日本戦日本選手団は、整然と入場行進をした。
フィールド中央に縦列で整列した選手団を前に、ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長らのあいさつが続き、最後に昭和天皇の開会宣言(午後2時58分)が行われた。式の終盤に、聖火を掲げた最終ランナー坂井義則が、スタジアムの階段を駆け上がり、トーチをかざして聖火台に点火した。
1964年東京オリンピックの公式記録映画は、市川崑が総監督を務め「オリンピック東京大会 世紀の感動」として一般公開された。だが、東京五輪担当大臣で自民党の実力者だった河野一郎が、試写会を見て「こんな記録映画はない、作り直せ」と発言し、「芸術か記録か」の大論争となった。結果的には、公式の記録映画として公開されると、観客動員約2千万人という空前のヒットとなった。
競技では、陸上男子100mでボブ・ヘイズが圧勝し、水泳競技では米国のドン・ショランダーが金メダル4個獲得、体操女子ではチェコのベラ・チャスラフスカが華やかな演技で優勝するなど、話題を呼んだ。日本選手では、お家芸と言われた柔道の無差別級では、オランダのアントン・ヘーシンクに神永が敗れるという残念な結果に終わったが、女子バレーボールでは東洋の魔女と呼ばれた日本チームがソ連を破り優勝し、マラソンでは円谷幸吉が銅メダルを獲得し、メイン競技場に唯一の日の丸が掲揚された。
日本オリンピック委員会公式ペ-ジ https://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/
開会式・名場面ダイジェスト動画(NHK) https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009044614_00000
*1964.11.9/ 佐藤内閣が発足する。

その3ヵ月前の8月、佐藤栄作は池田勇人との熾烈な自民党総裁選挙に惜敗したところであったが、病床の池田の指名をうけて佐藤内閣が誕生した。名神高速・新幹線・東京五輪などの大プロジェクトを剛腕で仕切った河野一郎が、後継の筆頭候補であったが、吉田茂、岸信介など重鎮の意向で佐藤にお鉢が回って来たと言われる。実力者河野一郎はその翌年、突発死してしまう。
佐藤内閣は、結果的に7年8ヵ月におよぶ長期政権となり、その在任中には、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准・日韓基本条約の批准・国民祝日法改正による敬老の日 体育の日 建国記念の日の制定・公害対策基本法の制定・小笠原諸島および沖縄の返還実現・日米安全保障条約(70年安保)自動延長・日米繊維摩擦の解決・内閣総理大臣顕彰制定など、多くの実績を残した。
また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる「非核三原則」を表明した。佐藤は退陣後の1974(s49)年に、この非核三原則の制定などが評価されてノーベル平和賞を受賞している。
しかし後年になってから、沖縄への核持ち込みに関する密約が明らかになり、また佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたこと明るみに出るなど、平和賞受賞の根拠が疑われる事態が判明し、後年にノルウェーのノーベル平和賞委員会が刊行した記念誌のなかでも、「佐藤氏は核武装に反対ではなく、佐藤氏を選んだことは最大の誤り」と批判されている。
佐藤栄作首相は、実兄の岸信介元首相とは対照的に、「待ちの政治」と呼ばれたスタイルで、ひたすら事態が成熟するのを待つ我慢の政治で、憲法改正を懸案としていた兄の岸が、一向に憲法問題に触れようとしない佐藤に、いらだっていたという話しもある。
ライバルであった河野一郎のような剛腕で、政治世界を仕切っていくような華やかさもなく、一方で、政権は「黒い霧事件」といったスキャンダルに見舞われながら、必ずしも政権支持率は高かったわけでもないのに、まれにみる7年8ヵ月もの長期政権を続けた。
吉田門下で一番のライバルであった池田勇人は、佐藤に先んじて首相になったが、病にたおれて佐藤に政権をゆずる。党人派の大物、大野伴睦や河野一郎も、相次いで死去。ライバル不在のもと、次世代の田中角栄・福田赳夫・三木武夫・大平正芳などを、互いに競わせ育成するという、佐藤流人事掌握術で政権の求心力を維持し続けた。
そして何よりも長期の安定政権を支えたものは、「昭和元禄」などと呼ばれた、高度経済成長であった。池田の経済重視路線を批判していたにもかかわらず、自身の政権期には、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大したのだった。極端な言い方をすれば、「何もしない」でもうまくいく時代背景でもあったのである。
*1964.8.2/ 北ベトナム軍がトンキン湾で米軍間を攻撃、米空軍が報復爆撃に出動、ベトナム戦争が急拡大する。(トンキン湾事件)
*1964.1014/ ソ連最高会議とソ連共産党中央委員会が、フルシチョフ首相兼党第1書記を解任する。
*1964.1016/ 中国が、初の原爆実験に成功する。
*1964.11.12/ 米原子力潜水艦の佐世保入港し、13日反対デモが警官隊と衝突。
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