◎初のテレビアニメ「鉄腕アトム」放映
*1963.1.1/ 初のテレビアニメ「鉄腕アトム」が、フジテレビで放送開始される。
漫画「鉄腕アトム」は、1952(s27)年に月刊誌「少年(光文社)」に、「アトム大使」として連載が始められたのが初出だとされる。昭和30年代前半に、小学生時期を過ごした当方はずっと「少年」を購読していたが、何より「鉄腕アトム」が連載されていたのがその理由だった。雑誌最盛期には、「別冊ふろく」として読み切りの「アトム」が付けられていて、それが目当てで本屋へ走ったものである。
1964(s39)年、白木博次東大医学部教授が、熊大の研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを論文に発表、これが1968(s43)年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった。
1959年に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、「チッソ」は、工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係と主張し、有機水銀説に異を唱えた。当時は無機水銀から有機水銀の発生過程が理論的に説明されていなかったが、1967年になり、ようやく「チッソ」工場の反応器を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に証明された。
政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968(s43)年である。政府統一見解後の1969(s44)年6月14日には、熊本水俣病患者・家族のうち112人が「チッソ」を被告として、熊本地裁に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。 裁判は「チッソ」側の反論などで遅々として進まなかったが、熊本水俣病に関わる刑事事件は、「チッソ」吉岡元社長と西田元工場長に有罪判決、1988年3月の上告が棄却され、禁固2年・執行猶予3年の判決が確定した。患者の公式確認以来では32年ぶりの決着であった。
しかし初期の認定基準が、最強度の障害を基準にしたため、中程度や軽度の障害は認定から外される傾向が強く、わずかの補償金で一括和解で解決されてしまうことが多い。認定患者には、1973年に患者と原因企業間で締結された補償協定により、一時金一人1,600万~ 1,800万円、年金、医療費の支給などが支払われ、認定患者の数は死者を含み約3,000人となっている。
その後欧州で紹介され、英国では、ジャズインストルメントで「SUKIYAKI」として演奏された。契約で来日した関係者が、その際に食した「すき焼き」が気に入ったというだけの理由らしい。場合によっては「SUSHI」や「TEMPURA」になっていてもおかしくなかったわけだ。そしてアメリカでは、坂本九の日本語のままのオリジナル版でキャピトル・レコードから発売され、ビルボード誌で3週連続トップの大ヒットとなった。そして翌年には、百万枚を突破した。

「スキヤキ」 https://www.youtube.com/watch?v=C35DrtPlUbc
1963(s38)年5月1日に埼玉県狭山市で、高校1年生中田善枝(16)が帰宅せず、その夕刻には身代金を要求する脅迫状が届いた。警察は誘拐事件と断定し、翌2日夜、身代金受け渡し場所に多数の警察官を配備したが、現れた犯人を取り逃がしてしまう。3日には大掛かりな山狩り捜査を開始し、4日の朝、農道に埋められている被害者少女の死体が発見された。
埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させ、狭山市内の被差別部落の重点捜査で、5月23日、同部落の石川一雄(24)を傷害や暴行や窃盗などの容疑で別件逮捕する。勾留中に、女子高校生殺しの容疑で厳しく追及して自白を引き出し、強盗殺人・死体遺棄などで起訴。1964(s39)年3月、浦和地裁は半年の審理で死刑判決を下した。
しかし石川一雄が被差別部落の出身であることから、本事件は部落差別との関係を問われ、部落解放同盟や部落解放同盟全国連合会などの部落解放運動団体や、中核派・革労協・社青同解放派などの新左翼党派や、一般市民団体などが、部落差別による冤罪事件として、支援活動を展開した。*1963.6.16/ ソ連の宇宙飛行士テレシコワが、宇宙船ボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行う。

しかし実際には、ソ連では宇宙ミッション中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワには「チャイカ」(カモメ)が与えられていた。打上げ後の成功を知らせる「ヤー・チャイカ(こちらチャイカの意)」という応答が、女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本では「私はカモメ」と訳されて、テレシコワの代名詞となった。*1963.11.23/ 初の日米間宇宙中継実験が成功、最初に飛び込んで来たのがケネディ大統領暗殺のニュースだった。
日本時間11月23日早朝、最初の日米間衛星テレビ中継として太平洋越しに映し出されたのは、J・F・ケネディ大統領暗殺の臨時ニュースであった。さまざまな疑惑が残されたままの暗殺事件は、その後も何度か映画化されている。颯爽と登場し、多くの話題を提供した青年大統領だが、在任期間わずか2年10ヵ月で幕を閉じることとなった。
1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分に、J・F・ケネディ大統領はテキサス州ダラスを遊説パレード中、突然、何者かに銃撃され死亡した。1時間後にリー・ハーヴェイ・オズワルドが逮捕されたが、その2日後、ダラス警察署で移動中にジャック・ルビーに銃撃されて死亡、オズワルドは犯行は否定したままで、法廷に立つことはなかった。
翌1964年には、ウォーレン委員会が公式調査報告が公開され、事件をオズワルドの単独犯行として、大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して、数々の疑惑や反証になるライフル銃の軌道や周囲の状況証拠や証言が出るなど、長年にわたって真相についての議論が続いている。
テキサス州の州都ダラスで白昼に、多数の人々が見守る前で起こった、衝撃的な銃撃による現職大統領の死、しかも日をおかず警察署内で犯人が銃殺されるという有り得ない展開、その後に暗殺の動機も背後関係にも多くの謎を残したまま捜査が終了されたことから、数々の陰謀説が語られ続けている。
J・F・ケネディは、共和党の対立候補リチャード・ニクソンを破り、1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。就任時の年齢は43歳で、選挙で選ばれた大統領としてはもっとも若い大統領、カトリック教徒としてもアイルランド系アメリカ人としても、最初の大統領となった。
暗殺されるまでの2年10ヵ月の在任中に、ピッグス湾事件・キューバ危機・ベルリンの壁の建設・米ソの宇宙開発競争・公民権運動の高まり・ベトナム情勢の悪化など多くの歴史的事件が発生しているが、特にキューバ危機の対応では「第3次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回避したと評価されている。
ケネディは清新なイメージで、就任時からアメリカ国民に期待され、アメリカ人に最も愛された大統領として記憶されているが、その一方で、大統領選挙における陣営の不正・マフィアとの関係・マリリン モンローなど何人もとの浮き名・ピッグス湾事件やベトナム戦争における優柔不断な態度・ラテンアメリカ諸国に対する政治的軍事的干渉・就任以前の人種差別や保守的思想など、多くの批判も存在する。
*1963.12.8/ プロレスラー力道山(39)が、赤坂のキャバレーで暴力団員に刺され、15日死亡する。
戦後日本の大衆に夢を与えたプロレスラー力道山が、キャバレーでヤクザとの些細な喧嘩から、腹部を刺されあっけなく死亡した。テレビ映画「スーパーマン」の役者が自殺したり、「コンバット」のサンダース軍曹 ヴィック・モローが撮影中のヘリコプター墜落で事故死したりと、まさにダイ・ハードに思われたタフガイが、いとも簡単に消えていった。それこそ、ブラウン管の世界から肩すかしをくらうような欠落感に襲われたものだった。
1963(s38)年12月8日夜、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、力道山は暴力団大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。しかし、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり、警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。手術は無事に成功するが、その後、体調悪化し12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。享年39。
力道山は体力に自信があるせいか、かなり横暴な性格で、日ごろからあちこちでトラブルを起こしていた。この日も酩酊して、通路に足を出してイタズラしていたという説もある。言いがかりをつけられ、パンチでぶっ飛ばされた村田は、馬乗りになられ「殺される」と感じ、忍ばせていた登山ナイフでとっさに刺したという。
応急手当を受け帰宅したが、翌日症状が悪化、入院して2度の手術を受けた。手術は成功したとされたが、7日目の夜、穿孔性化膿性腹膜炎で死去する。腸壁が敗れた場合、術後は絶対安静で飲食はご法度のはずだが、一説によると、最初の術後、寿司や酒を飲食した結果、症状を悪化させたともいわれる。
*1963.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。
*1963.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。
*1963.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1963.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。













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