【20th Century Chronicle 1962(s37)年】
◎本格的テレビ時代到来
*1962.3.1/ NHKテレビ受信者契約が、1,000万台を突破し、本格的なテレビ時代に突入する。
テレビジョンが普及しだした1957(s32)年にすでに、大宅壮一は「一億総白痴化」としてテレビ批判、一方最盛期を迎えていた映画界は、テレビを電子紙芝居と見下ろしていた。しかしそんな批判はものともせず、テレビジョンはほとんどどの家庭にも設置されるほど普及した。
この時期、NHKは徐々に力をつけ、独自番組で「ジェスチャー」「私の秘密」「事件記者」「お笑い三人組」で人気を博し、民放ではNTB(日本テレビ)が、力道山の「プロレス中継」や巨人軍の「プロ野球中継」で視聴率を獲得した。
NHKのほかに民放も続々誕生したが、まだまだ番組制作力は不足しており、輸入されたアメリカのTV映画番組がそれを補完する形だった。ざっとそのタイトルを上げても、「ローハイド」「ララミー牧場」「ルート66」「ベン・ケーシー」「コンバット」など、連続ドラマがゴールデンタイムを埋めた。
西部劇「ローハイド」、ドライブ旅行記「ルート66」、戦闘進軍劇「コンバット」など、ジャンルは異なるがロード・ムービーという、連続ドラマの最適形式を踏襲する人気番組の中で、毎回、同じ手術室を中心に起こされる医療ドラマは「ベン・ケーシー」は、最先端の医療サスペンスというジャンルを開拓した。ベンの首まわりを閉じた手術着は、今でもケーシー白衣として美容外科医などに愛用されているらしい。
テレビを始めてみる老人にとっては、テレビボックスの中にもう一つの現実が入っていると思われたことだろう。向かいのお婆さんは、「ローハイド」などを見て、最近の外人さんは日本語がうまいねぇと感心していた。
その程度なら問題ないが、実際の悲劇も起きた。街頭テレビから始まったプロレス中継、この時期にも大人気だった。銀髪鬼ブラッシーが、力道山ら日本の「善玉」の頭にかぶりつくのがウリだったが、1962(s37)年4月には、たまたま始まったカラーテレビで鮮血の噴出すシーンを見た老人が、全国で4名もショック死する事故が起きたのだった。
◎三河島列車事故
*1962.5.3/ 国鉄常磐線三河島駅で列車多重衝突事故が発生し、死者、百数十人の大惨事となる。
1962(s37)年5月3日21時37分頃、東京都荒川区の日本国有鉄道(現JR東)常磐線三河島駅構内で、列車脱線多重衝突事故が起こった。貨物線から下り本線に進入しようとした貨物列車(蒸気機関車D51牽引)が、出発信号機の停止信号を行き過ぎて脱線、そこへ下り本線を進行してきた電車(6両編成)が衝突した。
さらにその現場に、上り電車(9両編成)が進入してきて、先の下り列車から線路上に降りて移動中だった乗客多数をはね、そのまま下り電車先頭車に突っ込んだ。この二重衝突事故は、死者160人、負傷者296人を出すという大惨事となった。
最初の下り貨物列車の脱線の原因は、機関士の信号現示の誤認とされた。また、貨物列車は、貨物線から高架の本線に合流するため上り勾配を進行しており、蒸気機関車の機関士席からの視界は悪く、本線への停止信号を進行可と錯覚誤認したとされる。しかも、最初の衝突の後、約6分間にわたって両列車の乗務員も三河島駅職員も、上り線に対する列車防護の措置を行わなかったことが、次の上り電車の突入の原因になった。
事故現場は三河島駅からは数百メートル離れており、駅員が直接確認することは困難であった。一方、付近の信号扱所の職員も、新月の夜の暗がりで、事故の状況を把握するのが難しい状況だった。また先に衝突した2列車の乗務員も、駅に知らせに走ったり、怪我で動けなかったりして、対応が遅れた。
この事故を機に、自動列車停止装置(ATS)が、計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、1966(s41)年までに一応の整備を完了した。それまで使われていた車内警報装置には、列車を自動停止させる機能がなく、この種の信号冒進事故を物理的に防ぐことができなかった。
民営化でJRになる前の国鉄で戦後5大事故とされるのは、死者が100人を超えた5つの事故が挙げられる。「桜木町事故(1951年)」「洞爺丸事故(1954年)」「紫雲丸事故(1955年)」「三河島事故(1962年)」「鶴見事故(1963年)」のうち、二つは連絡船での海上事故で、桜木町事故は架線ショートによる列車火災事故、三河島事故と、翌年に起こされた鶴見事故のみが、同様の二重衝突事故だった。
国鉄ではこれら5大事故のあと、自動列車停止装置(ATS)設置などの事故対策に取り組み、1983(s58)年12月には「過去10年責任事故による旅客の死者なし」という記録を達成した。1987(s62)年4月の分割民営化された各JRになって以降も、大事故は避けられていたが、2005(h17)年4月25日「JR福知山線脱線事故」が起こる。
単独列車事故としては、死者107名、負傷者562名を出す歴史的な大惨事となったが、自動列車停止装置(ATS)は、この三河島事故後に設置された旧型のままで、速度監視機能が無かったため、運転士の制限速度超過をチェックできなかった。
◎サリドマイド禍
*1962.5.17/ 大日本製薬が、サリドマイド系催眠剤イソミンの出荷を自発的に中止する。
「サリドマイド」”thalidomide”は、1957(s32)年に西独で開発され、商品名「コンテルガン」として世界で販売された。注意事項に妊婦への処方禁止もなく、各国で妊婦も多く服用した。ところが、西ドイツのレンツ博士による疫学調査(レンツ警告/1961年11月)で、新生児の奇形や胎児死亡と因果関係があると報告された。
日本では1958(s33)年1月、大日本製薬が独自の製法で開発し、睡眠薬「イソミン」として販売を開始し、1959(s34)年8月には胃腸薬「プロバンM」として神経性胃炎の薬としても発売され、これは妊婦のつわり防止に使用されることも多かった。
しかしこのころから奇形児の発生が報告されるようになり、大日本製薬は西ドイツに調査員を派遣するなどしたが、レンツ警告があっても製造を続け、やっと1962(s37)年5月、大日本製薬が製品の出荷を停止、9月18日に販売停止と製品の回収を開始(ドイツでの回収開始から294日後)したが、一部の製剤はその後も市中で出回った。
西ドイツでは、睡眠薬として市販されていたため、約3,000人と被害が大きかった。また日本では、市販睡眠薬以外に妊婦の「つわり」の症状改善のために、サリドマイドが調剤されたことから、約千人の胎児が被害にあったと推定され(死産を含む)、うち生存した309人の被害者が認定されている。
当時の日本厚生省の新薬審査と承認はかなり杜撰で、海外ですでに使用されている医薬品は簡易な審査でよいとされており、動物実験は不十分で、日本での臨床試験はなしという状況で、サリドマイドはわずか1時間半の簡単な審査で承認されたという。
1962(s37)年末までに、被害者たちはイソミンとプロバンMの製造許可に対し法務局に人権侵害を訴えるが、法務省人権擁護局は侵害の事実なしと門前払いする。1963(s38)年6月に、大日本製薬を被告として最初の損害賠償請求が提訴された。
そして被害発生から15年後の1974(s49)年10月に、やっと製薬会社および日本国政府との和解が成立した。和解確認書では、国と製薬会社は因果関係と責任を認め、損害賠償を行うとし、「(財)サリドマイド福祉センター いしずえ」の設立を約束した。
戦後日本における薬剤被害は、「サリドマイド禍(1961)」が大きな被害と深刻な話題になった最初で、その後も、整腸剤キノホルム「スモン病(1970)」、非加熱製剤による「薬害エイズ(1983)」 など、大きく話題を呼び、厚生省の管理や対応が問題となった。
◎「太平洋ひとりぼっち」 堀江青年が小型ヨットで単独太平洋横断
*1962.8.12/ 1962年5月12日、西宮を出発した堀江健一(23)青年が、小型ヨット「マーメイド号」でサンフランシスコに到着、単独無寄港太平洋横断に成功した。
1962(s37)年5月12日、23歳の堀江健一青年が、単独無寄港太平洋横断を目指して、小型ヨット「マーメイド号」で兵庫県西宮を出港した。途中連絡が途切れ家族から捜索願が出されたたりするなか、8月12日、アメリカのサンフランシスコに無事入港し、太平洋横断に成功した。航海日数は94日。
堀江がサンフランシスコに到着したとの連絡を受けた大阪海上保安監部は、アメリカで不法入国者として強制送還され、日本に着いたその場で逮捕されることになるとしていた。しかし、サンフランシスコ市長は「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れ、1ヵ月間の米国滞在を認めた。
このニュースが日本国内に報じられると、当初、迷惑な無謀冒険者扱いだった日本国内の雰囲気が、手のひらを返すように、堀江の冒険を“偉業”と称え、一気に英雄扱いの論調となった。1ヵ月後、飛行機で帰国すると大歓迎を受け、艇を係留した「くい」をみやげに両親とともに記者会見した。
堀江青年の太平洋航海の手記をまとめた「太平洋ひとりぼっち」が出版されると、世界に飛び出す若者のバイブルとされ、翌1963年には、石原プロモーションの映画製作第1回作品として、市川崑監督、石原裕次郎主演で映画化された。 https://www.youtube.com/watch?v=Kx2PBVCWMJg
(この年の出来事)
*1962.8.30/ 日本航空機製造の戦後初の国産旅客機「YS-11」が、試験飛行に成功する。
*1962.10.10/ ファイティング原田(19)歳が世界フライ級王座に初挑戦、世界フライ級王者のポーン・キングピッチ(タイ)に11RにKO勝ちでチャンピオンとなる。
*1962.10.22/ ケネディ大統領が、キューバにソ連のミサイル基地が建設中と発表。(キューバ危機)
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