【20th Century Chronicle 1961(s36)年】
◎ジョン・F・ケネディ アメリカ大統領誕生(JFK)
*1961.1.20/ ジョン・F・ケネディが、第35代アメリカ合衆国大統領に就任し、有名な大統領就任演説を行う。
ジョン・F・ケネディは、1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。ケネディは43歳8ヵ月と、もっとも若くして選挙で選ばれた大統領であり、また初めてのアイルランド系でカトリックの大統領でもあった。ケネディは就任宣誓式で、大統領の職務を遂行し合衆国憲法を守ることを宣誓し、そのあと大統領就任演説を行った。
就任演説では、冷戦で東西対立が厳しい時代に、断固として自由社会を守る決意を明らかにした。さらに「人類の共通の敵」である暴政、差別、貧困、疾病そして戦争との戦いにともに参加するように訴えた。就任演説はその多くが「自由」の価値と、自由を守り発展させるために人々がなすべき行動をアメリカ国民および世界の人々に問うものであった。
就任演説の末尾は、次のような有名な一節で締めくくった。
My fellow Americans, ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world; ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.
我が友アメリカ人よ、国があなたに何をしてくれるかを問うなかれ。あなたが国のために何ができるかを問いたまえ。世界中の我が友よ、アメリカがあなたに何をしてくれるかを問うのではなく、人類の自由のためにいっしょに何ができるかを問おうではないか。
JFケネディは、提唱する「ニューフロンティア精神」に基づき、7つの項目にわたる「ニューフロンティア政策」を提言し、これを具体化する66にのぼる特別教書をもって、議会に立法措置を勧告した。それは、教育への連邦政府支出拡大、住宅施策の促進、高齢者医療の拡充、都市の再建、そして黒人や少数民族の地位向上や公民権法の制定など、野心的な公約であった。
そして1年目には不況対策、最低賃金引き上げ、平和部隊創設および軍縮協の創設、2年目には通商拡大法を成立させ、また人種差別についての取り組みは高く評価された。しかしこれら斬新な進歩的政策は、議会の保守勢力の前に難航し、ケネディが力を入れた「公民権法」も、彼の在任中は議会を通過しなかった。
しかしそれは、就任後わずか2年10ヵ月でケネディが暗殺されたためでもあり、代わって昇格したジョンソン大統領の時期に、公民権法や老齢健康保険法、住宅都市局の設置などが次々と可決された。また、ソ連に圧倒的な差を見せつけられた宇宙開発で、ケネディは「10年以内にアメリカは人間を月に送り、無事帰還させる」と宣言し、1969年アポロ11号でそれは達成された。
JFケネディは、その3年に満たない在任期間中に、2度の米ソ直接対決の危機に直面している。この時期はソ連の軍事的優位が明らかになり、それを背景にソ連のフルシチョフ首相はきわめて強気であった。一方、ケネディは就任早々に、カストロ政権の転覆を狙いCIAなどが計画を進めた「ピッグス湾事件」の失敗で、その責を負わされていた。
1961年6月にウィーンで、ケネディはフルシチョフを相手に、一対一の首脳会談に臨んだ。議題は東西関係やキューバ、ラオス、核実験禁止、そしてベルリン問題に関してだったが、両者の対立関係を際立たせただけで、ほとんど成果なく終わった。
そしてウィーン会談から2ヵ月後の1961年8月、「ベルリン危機 (1961年)」が勃発する。その前の7月、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説で、国防費増額・陸海空三軍の増員など、西ベルリンを守り抜く決意を表明していた。
それに対してフルシチョフは、ウィーン会談から2ヵ月後の1961年8月13日、いきなり「ベルリンの壁」を建設するという強硬手段に打って出た。それまで自由に東西を往来することができたが、この日から往来が不可能となって、東西ベルリン市民は完全に分断された。
一方ケネディは、8月20日、西ドイツから陸路で東ドイツを通過する経路で、アメリカ陸軍の精鋭部隊1,600人を西ベルリンに送り込んだ。これによりケネディは、西ベルリンを断固としてに防衛する決意を示した。これには、ソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険があったが、その後の1963年6月26日、ケネディ自身が西ベルリンを訪問し、有名な演説を”Ich bin ein Berliner”(私はベルリン市民だ)とドイツ語ではじめて、西ベルリン市民を安心させることに成功した。
また、1962年10月には、さらに緊迫した一触即発の「キューバ危機」が勃発した。アメリカの喉元ともいえるカリブ海のキューバに、建設中の核ミサイル基地が発見された。10月14日、アメリカ空軍のU-2偵察機が、ソ連が核ミサイルのサイロを建設中の写真を撮影したのだった。ケネディは、16日朝に報告を受けると、緊急に国家安全保障会議を招集した。
会議は連日続けられ、いくつかあった対応の選択肢は「空爆」と「海上封鎖」に絞られた。軍関係者は「空爆」を主張したが、ケネディ大統領は「海上封鎖」を選択し決断した。10月22日午後7時、ケネディは国民に向けて演説を行い、キューバにミサイルが持ち込まれた事実とキューバ海上封鎖措置を取ることを発表した。
この演説の2日後に海上封鎖が発効し、翌10月25日、潜水艦に守られてキューバに近づいていたソ連船16隻は、急遽Uターンした。しかし、キューバ国内では、すでに持ち込まれた資材をもとにミサイル基地建設が急ピッチで進んでいた。この間、フルシチョフ首相の書簡が届き、米がキューバに侵攻しない約束のもと、ミサイルを撤去する旨の内容であり、ケネディ大統領もこれに応諾して、キューバ危機は、1962年10月27日、暴発直前に回避された。
ウィーン会談などで、フルシチョフはケネディを扱い易い若造とみていたようだが、キューバ危機では、一歩も引かない毅然とした対応をみせたケネディに、フルシチョフは怯むかたちで撤退した。ケネディとフルシチョフの両首脳は、互いの陣営を巧みに操りながら核戦争の危機をうまく回避したことにより、世界中からの尊敬を集めることとなった。
キューバ危機の経験から、米ソ両国の首脳は核戦争を回避するための道を模索し始め、1963年6月、危機管理のためのホットラインを両国間に設置し、8月には米英ソの間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結するなど、平和共存に一歩を踏み出した。しかしケネディはその年1963年11月に凶弾に斃れ、さらに翌1964年10月にはフルシチョフが失脚、両者の直接外交は長くは続かなかった。
*1961.4.12/ ソ連がボストーク1号を打ち上げ、ガガーリン少佐は人類最初の地球1周有人飛行に成功する。
1961年4月12日、ボストーク1号によって、ガガーリン少佐(中尉が宇宙周回中に2階級特進)が、初めて宇宙周回飛行に成功する。ユーリ・ガガーリンは、宇宙から帰還した後の会見で「地球は青かった」と述べ、これはあらためて水の惑星地球を客体視した言葉として、思想への影響も大きかった。この有人宇宙飛行の成功により、ソ連は宇宙開発においてさらにアメリカを引き離す事になる。

アメリカは、宇宙開発競争で圧倒的に遅れをとった事実とともに、軍事的にもソ連が優位に立ったと考えられた。就任したばかりのジョン・F・ケネディは、ソ連に対抗して、60年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表し、1969年アポロ11号でそれを達成させた。この間、アメリカの危機感は相当なものであった。
宇宙からの帰還後、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅した。その後、ガガーリンは飛行指揮官となるため、訓練の一環として飛行訓練を再開する。しかし1968年3月27日、訓練飛行中のMiG-15UTIで墜落事故を起こし、死亡する。享年34。
鉄のカーテンの内側の事故なので、正確な原因は長らく不明であり、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論も噂された。ソ連崩壊後に公開された情報によると、どうやら事故であったことは間違いないが、事故原因には諸説ある。
「地球は青かった」ともう一つ、ガガーリンが語った言葉には「神はいなかった」というのがある。しかしこれは、ガガーリンが語ったという痕跡が見当たらない。どうやら、次のような風刺のロシアンジョークが、噂のもとなったようだ。
宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティの場で、ロシア正教総主教とフルシチョフ首相とが、個別にガガーリンに問いかけた。
総主教が「宇宙で神の姿を見たか」と尋ねるとガガーリンは「見えませんでした」と答えた。神の司祭として総主教は「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように」と告げた。
そのあと、フルシチョフ首相がガガーリンに同じことを尋ねた。ガガーリンはさっきと逆に「見えました」と答えた。神を否定しているマルクス=レーニン主義ソ連のトップとして、フルシチョフは「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように」と命じた。
◎最初の西成暴動 「釜ヶ崎」の名が全国に知れわたる
*1961.8.1/ 大阪西成区のドヤ街「釜ヶ崎(愛隣地区)」で、日雇い労務者ら2,000人余りが暴動、警官隊と衝突する。
1961年8月1日午後9時頃、西成区の通称釜ヶ崎(現愛隣地区)で、タクシーが路上で人をはねて死亡させる交通事故が発生した。西成警察署は日雇い労働者風の被害者は既に死亡しているとし、遺体をそのままにして現場検証を行い、終了後に遺体を収容した。これを見ていた日雇い労働者たちは、即座に遺体を収容しなかった警察に抗議し、暴動へと発展した。
交通事故直後から続々と日雇い労働者が集まり始め、翌日未明までに近くの派出所を打ち壊し、さらに西成署に移動して署の窓ガラスを割り、そして駐車していたパトカーを破壊炎上させるなど、2,000人以上の労働者が集結して、騒動は暴動の様相をしめしてきた。
翌8月2日夜には、昨夜よりも多い4,000人が集結し、警察関係施設のみならず、電車やタクシーにも投石をして被害を与えた。そしてようやく8月3日、大阪府警は隣接府県の京都府警・兵庫県警にも応援を依頼し、約6,300人の警官隊を投入して暴動をようやく鎮圧した。1954(s29)年の大阪府警察発足以来、最大の暴動事件となった。
釜ヶ崎は現在「あいりん地区(1966年から)」と呼び変えられているが、いずれも大阪市西成区北部の一部地域の通称として使われる。この一帯は戦時中の爆撃で焼け野原となったが、戦後、社会党系の大阪市政が続き、浮浪者・貧困対策を重視した経緯から、西日本の貧困・浮浪者層が次第に集積し、釜ヶ崎一帯は「ドヤ街」となって現在に至っている。
いわゆる木賃宿(簡易宿)がドヤと称され、住居の無い日雇労務者はドヤに宿泊して生活した。さらに日々の職にあぶれてドヤ代もない浮浪者は、周辺の公園などに寝泊まりするようになる。家庭を失った単身者も多く、中には反社会系の者や障害者・老齢者も混じり、いわゆる生活弱者の吹き溜まりのような街となっていた。
この1961年の暴動を契機に、大阪府・市によって釜ヶ崎対策が発表され、「西成保健所分室」「市立愛隣会館」といった福祉施設と「市立愛隣寮」「市立今池生活館」といった施設による住宅政策の二つが推進された。さらに大阪万博開催の1970(s45)年には、現在の「あいりん労働福祉センター」が設置されている。
それでも、日雇い労働者の労働条件は低い日当で過酷、さらに手配師及や暴力団などにピンハネされるなど、鬱積した感情が高まりやすく、些細な出来事でも、暴動発生の切っ掛けとなった。1960年代だけでも、「西成暴動」と呼ばれるものが、年中行事のように8回も発生している。
これらはほぼ自然発生的な暴動であったが、1970年代に入ると様相が変化する。70年安保が自動継続されると、反対闘争の大きな名目を失い、しかも各大学の拠点を失った新左翼らが、「窮民革命論」を掲げてドヤ街に入り込み、日雇い労働者を煽動するようになった。このような仕組まれた暴動は、70年代前半に集中して13件も起こされている。
しかし70年代後半以降、暴動は散発的に3回のみとなっている。理由はさまざまだが、まずドヤ街の住人が圧倒的に少なくなった。低成長期になり日雇仕事自体が減少、他に仕事が見つけられる比較的若い層は転出してゆき、他で生活の道を見つけられない高齢者だけが残り、もはや暴動を起こすエネルギー自体が、街から消えてしまったのだろう。
近年、外国人観光客のブームが起き、大阪もインバウンドで潤うようになった。その中のバックパッカーと呼ばれる低予算で個人旅行する若者旅行者が、あいりん地区のドヤに目を付けた。一方で、宿泊する労務者がなくなったドヤ経営者は、積極的にバックパッカー向けに改築し、英語のパンフレットなども揃えて、リニューアルに成功している店がかなりあると言われる。
いずれにせよ、釜ヶ崎ないし愛隣地区は、大きく様相を変えようとしているようだ。ただし、今年(2020)の新型コロナ騒ぎで外人観光客はストップし、やっと息をついた街も、さらなる変革を迫られるのかもしれない。
◎プロ野球 驚異の投手記録
*1961.9.-/ 「中日の権藤、新人で30勝」
権藤博は、佐賀県鳥栖高校では内野手だったが、投手不在となったため投手に転向、1956年夏の甲子園県予選準決勝にまで進出する。その活躍からプロ野球の西鉄ライオンズにスカウトされたが、それを断って社会人野球に進んだ。
一方、パリーグ西鉄の稲尾和久は、この年 シーズン42勝、これはプロ野球記録で、今後も破られることはないと言われている。遡る57年の日本シリーズでは、巨人に3勝を先行されるも、残りは鉄腕 稲尾の4連勝で日本一、三原監督に「神様、仏様、稲尾様」と言わせたのは有名。
稲尾和久は大分県別府市で、7人兄弟の末っ子に生まれた。幼い頃から漁師として仕込まれ、小舟で櫓をこぐ毎日で、強靭な下半身とともにマウンドでも動じない度胸がついたと述懐している。
1956年、稲尾は地元の西鉄ライオンズを選び入団、当初は打撃投手要員だったが徐々に力を発揮し、最終的に初年度21勝6敗を挙げ、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した。翌1957には当時のプロ野球記録のシーズン20連勝を記録するなど、史上最年少でのリーグMVPに選出され、さらに翌1958年には33勝で2年連続MVPを獲得した。
稲尾の全盛期には、西鉄ライオンズの日本シリーズ三連覇に多大な貢献をし、さらにシーズン最多の42勝を挙げるなど、目を見張る活躍をした。稲尾和久は、3年連続30勝・8年連続20勝を挙げるなど「鉄腕稲尾」の名をほしいままにした。
しかし、それまでの酷使がたたって肩を故障し、1964年はプロ入り後初めて1勝も挙げられないシーズンとなった。やがてリリーフ中心のスタイルにシフトし、最優秀防御率のタイトルを獲得するなどしたが、チーム事情などで1969年限りで現役引退し、実働14年で通算276勝で現役生活を終えた。
◎映画「ウェストサイド物語」 大ヒット
*1961.12.23/ ミュージカル映画「ウェストサイド物語」が日本で封切り上映され、以降ロングラン続く。
ロングランのブロードウェイ・ミュージカルが、映画化されても大ヒット。ジョージ・チャキリスのダンスが一躍注目された。「ロミオとジュリエット」の舞台を、ニューヨークのウェストサイドに置き換えて翻案された物語。 レナード・バーンスタインの音楽が全編をつらぬく。
*1961.2.1/ 右翼の17歳の少年小森一孝が、中央公論社の嶋中鵬二社長宅を襲い、婦人に重傷、止めようとした家政婦を刺殺する。(嶋中事件/風流夢譚事件)
*1961.3.15/ 有田八郎元外相が、三島由紀夫の小説「宴のあと」がプライバシー侵害として、作者三島と新潮社を告訴する。(1964.9.28原告勝訴)
*1961.10.26/ 文部省が全国一律学力テストを実施、日教組は、教育統制だとしてボイコットなど反対運動を展開する。
*1961.12.12/ 旧軍人らによるクーデター計画が発覚、政府要人らの暗殺を計画したとして13人が逮捕される。(三無事件)






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