2020年11月16日月曜日

【20C_s3 1960(s35)年】

【20th Century Chronicle 1960(s35)年】


◎日米新安保条約(60年安保)

*1960.1.19/ ワシントンで「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。

*1960.5.19/ 19日、社会党議員を強制排除して始まった衆議院本会議は、20日午前零時過ぎに、自民党単独で新安保条約を衆議院可決。

*1960.6.10/ アイゼンハワー大統領来日の事前打ち合わせに来たハガチー大統領補佐官は、羽田空港でデモ隊に包囲され、米軍ヘリコプターで脱出。

*1960.6.15/ 安保阻止実力行使に全国で580万人(主催者側発表)が参加、全学連主流派が国会構内に突入、警官隊と衝突し東大生樺美智子が死亡する。

*1960.6.19/ 33万人のデモ隊が国会を包囲するなか、午前零時、新安保条約が自然成立する。

 1960(s35)年6月15日、安保阻止最大のデモで、全学連主流派が国会に突入し、防衛する警察機動隊・右翼団体・暴力団等と衝突、この混乱のさ中で東大生樺美智子が圧死する事故が起った。その数日後の6月19日、安保条約は参議院の議決のないまま自然成立する。10万規模のデモを官邸から見下ろした岸首相は「となりの後楽園球場には平和な民衆が5万と居る」とつぶやいたとか。

 1951(s26)年のサンフランシスコ講和条約の成立(日本主権回復)と同時に、吉田首相が単独で署名した旧日米安保条約は、日本に片務的で臨時的なものであった。日本の主権回復とともに駐留軍が撤退するため、日本の軍事的空白を防ぐために、引き続き米軍の駐留を認める必要があった。ただしそれは、米国の「駐留権」を認めるという形で、日本の防衛や駐留自体は、もっぱら米国の都合次第という条約であった。


 岸信介は、1957(s32)年2月、病に倒れた石橋湛山首相の後継に指名され、石橋内閣を引き継ぐと、1958(s33)年5月の総選挙で政権としての信任を得て、第2次岸内閣を組閣する。選挙を経て自信を得た岸首相は、アジア重視の自主外交を進めながら、一方で対米尊重の基本枠は譲らず、日米安保条約の改定に向けて、着々と条件を整えていった。

 1960(s35)年1月に、岸首相以下全権団が訪米し、アイゼンハワー大統領と合意し、1月19日、新安保条約の調印にこぎつけた。ワシントンで「新安保条約」に署名するが、その発効には国会の承認が必要であり、岸訪米団が帰国してから、本格的な反対運動が起こる。


 新条約の承認を巡る国会審議では、安保廃棄を掲げる日本社会党が徹底抵抗の姿勢を示し紛糾した。また国会外では、社会党や共産党が指導する労働者団体だけでなく、社会党や共産党の既存革新政党を批判する急進派学生らにより、「共産主義者同盟(ブント)」が結成され、ブントの主導する「全日本学生自治会総連合(全学連)」主流派が、総力を上げて反安保闘争を展開した。

 1960(s35)年5月19日、衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日未明に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な男たちを動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。本会議は、翌20日に日付が変わったころ、自民党議員だけで議決された。


 この強行採決の模様がテレビニュース等で流されると、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲は連日デモ隊で取り囲まれた。参議院での議決が為されない場合、新安保が自然承認される6月19日には、アイゼンハワー大統領訪日が予定されており、6月10日にその日程調整に来日したハガチー大統領報道官は、羽田空港を出たところでデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した(ハガチー事件)。

 過激な全学連は国会突入戦術を推進していたが、社会党は傘下の組合の時限ストやデモを組織しつつ、全学連の強硬路線には静観的な立場を取り、共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト=分派主義)」と批判した。一方、当のブント全学連は、既成政党の穏健デモを「お焼香デモ」と非難した。


 そして6月15日、安保改定阻止国民会議の呼びかけで、全国各地で560万人が集い、各地で大規模な集会やデモが実施された。国会前でも、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者を出すなどするなか、全学連主流派が指揮するデモ隊が国会内に突入、機動隊と激しく衝突する。そのさなかで、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。

 新安保条約は、衆議院議決1ヵ月後の6月19日、参議院の議決がないままに自然成立した。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。そして岸内閣は、混乱の責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日、総辞職を表明した。これらにより、安保反対運動は急速に沈静してゆく。


◎韓国 李承晩大統領失脚(4月革命)

*1960.4.27/ ソウルで李承晩大統領退陣要求デモが行われ、19日には暴動化、27日李承晩大統領は失脚しハワイに亡命。


 1960年3月15日に行われた韓国の第4代大統領選挙で、大規模な不正が行われたと反発した学生や市民が、全国各地で大規模なデモを展開し、当時の韓国大統領李承晩を引きずり下ろすことに成功した。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、「4.19革命」ないし「4月革命」と呼ばれる。

 当時、李承晩は84歳と高齢であり、後継問題も視野に入れた選挙となった。1956年の前回大統領選挙では、与党自由党の李承晩大統領に対して、野党民主党の張勉が副大統領に当選するねじれ現象となっており、李承晩は自由党の政権継続を確実にするため、大統領権限を強化して、野党や民衆運動への干渉や弾圧で、独裁的な政権運営をしてきた。


 大統領選挙で自由党は、李承晩大統領候補と側近の李起鵬副大統領候補で選挙戦に臨み、一方野党民主党は趙炳玉と張勉を正副大統領候補に立てたが、選挙運動中に趙炳玉が死去し、副大統領選挙が焦点となった。選挙戦は野党の張が優勢なまま選挙戦が進むと、政府与党は官僚機構から御用組織や暴力団まで動員して、徹底した不正選挙を行った。

 3月15日の投票日当日、慶尚南道馬山(現昌原市)で、不正選挙告発の街頭デモを起こした市民にたいして、警察が無差別発砲してデモを鎮圧、8名が死亡、50名余が負傷する事件が起こり、さらに後日、催涙弾をぶち込まれた高校生の遺体が見つかると、反政府気運は全国的に高まった(馬山事件/3・15義挙)。


 馬山事件をきっかけに各地で学生によるデモが発生し、4月18日には首都ソウル市の高麗大学の学生約3,500名が市街地をデモ行進し、国会議事堂前で座り込みをした後、午後7時頃に大学に戻り始めていたところへ、警護責任者に指示された暴徒がデモ隊に襲いかかり、学生側に重軽傷者が多数発生した。

 翌19日、ソウル市内の各大学生数万名が決起し、多数の市民も参加したデモ隊は大統領官邸である景武台を包囲したが、そのデモ隊に対し警察は無差別発砲を行い多数の死傷者を出した。これに激高した一部のデモ隊は、市内各所の警察官派出所、与党系新聞社などを襲い、同様の暴動は各地方都市に波及した。


 全国各地で発生したデモによる犠牲者の数は死者183人・負傷者6,259人にのぼり、これに対し李政権は19日午後5時、ソウル・釜山・大邱・光州の各都市に戒厳令を布告したが、軍は政治的中立を維持、デモ隊鎮圧行動は行わなかった。また、4月21日には国務委員(閣僚)や自由党党務委員が辞表を提出するなど、政権側からも内部崩壊を示し出した。

 こうした状況下の4月25日、全国27大学の教授400余名が集結し、大統領と国会議員らの辞任と再選挙の実施を求めて、整然としたデモが行われた。4月26日、学生と市民のデモは数万名に達し、国会議事堂や周辺一帯を埋め尽くした。周辺に説得された李承晩大統領は、やっと下野することを表明、翌27日、李承晩は国会に辞表を提出し、12年間の独裁に幕が下ろされた。


◎チリ大地震で津波来襲

*1960.5.24/ チリ大地震の津波が、太平洋を越えて来襲、三陸海岸から北海道南岸にかけて、大被害をもたらす。


 1960(s35)年5月23日4時11分(日本時間)、南米のチリ共和国でマグニチュード9.5という世界最大規模の地震が発生した。この地震により首都サンチアゴをはじめ、チリ全土で死者1,743名という大きな被害を出した。

 地震発生15分後に18mの津波がチリ沿岸部を襲い、17時間後にはハワイ諸島を、そして22.5時間後に日本にまで達した。日本では北海道から沖縄までの広い範囲で2~6mの津波に襲われ、大きな被害がもたらされた。


 地震発生から、およそ一昼夜かけて地球の裏側から日本に達した大津波は、東北方三陸地方のリアス式海岸では、奥にある港で最大6.1mの津波が襲い、岩手県大船渡市では53名の死者を出すなど、軒並みに大被害を受けた。

 地震直後にハワイ地磁気観測所から日本政府にも、地震の情報と同時に津波警報が伝えられたが、気象庁は津波を過小に推定し、日本の津波警報が発令が津波襲来した2時間後となってしまった。


 チリで生じた大きな津波は、平均時速750kmという高速で太平洋を横断した。このように非常に遠方で生じた「遠地津波」は、強い震動が感じられない、到達までに長い余裕時間がある、波動の周期が長い、長時間継続するなどの特色があり,近海で起こる近地津波と違って予測が難しい。

 しかも日本は、チリからみて地球の真裏近くにあり、ちょうど津波が収斂してくる場所にあたるので、むしろ他の地域に比べ津波が高くなった。遠距離だからという気のゆるみもあり、全国で死者139人、住家の流失・全壊2,830棟など大きな被害が生じてしまった。


 当時は近海での地震津波の経験データしかなく、大洋を渡って来る大津波の予測の経験がなかった。しかも、今のように津波を早期に察知するGPSや監視システムなどはなく、検潮器データも、人が定期的に見に行く仕組みだった。

 地球の反対側から突然やってきた津波で、遠隔地津波に対する認識が甘かった事が指摘され、以後気象庁は、日本国外で発生した海洋型巨大地震に対しても、ハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなど、遠地津波に備える体制がつくられた。


◎社会党 浅沼委員長暗殺

*1960.10.12/ 浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂での党首演説会で、右翼少年に刺殺される。


 1960(s35)年10月12日、東京都千代田区の日比谷公会堂で、解散・総選挙が行われる情勢のもと、自民・社会・民社の3党首立会演説会が開かれた。民社党委員長西尾末広の演説が済んだあと、午後3時頃、社会党の浅沼稲次郎委員長が演壇に立ち、「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。会場には右翼団体が多く集まっており、激しい野次を飛ばして会場は異様な雰囲気が立ち込めた。

 司会が静粛を求めいったん野次が収まると、それを見計らって浅沼は、自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。その時、暴漢が壇上に駆け上り、刃渡り30cmほどの脇差で浅沼の左脇腹を深く突き刺し、浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れた。浅沼はただちに病院に運ばれたが、ほぼ即死状態だった。ニュースなどで、事件の生々しい様子の映像が流され、日本中にショックを与えた。

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030037_00000


 取り押さえられた犯人は、17歳の右翼少年山口二矢であった。山口は、赤尾敏率いる右翼団体「大日本愛国党」の青年本部員であったが、この年の5月に脱会している。逮捕後の供述で、赤尾の関与を完全否定し、迷惑を掛けない為に脱会し、一人で実行したと証言している。山口は取調べに対し理路整然と受け答えしていたが、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、シーツで首を吊って自殺した。

 大日本愛国党関連では、翌1961(36)年2月1日の「嶋中事件(風流夢譚事件)」でも、同党に所属していた17歳の少年小森一孝が、中央公論社社長宅を襲い、社長夫人と家政婦に死傷を負わすテロ事件を起こしている。少年は党に累を及ぼさないため、事件当日に離党届を出して犯行に及んだ。大日本愛国党の党首赤尾敏は、両事件で事情聴取を受けたが、嫌疑不十分で釈放されている。


◎池田内閣 所得倍増計画

*1960.12.27/ 岸内閣のあとを受けた池田内閣が「所得倍増計画」をスタート。


 新安保条約を成立させた岸信介首相が、安保騒動の責任を取る形で退陣し、その後継として、1960(s35)年7月19日、池田勇人が内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣を発足させた。池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで約4年4ヵ月の長期政権となる。


 政治的対立が極度に高まった騒動のあと、岸に代わって内閣を組織した池田隼人首相は、政治色を払拭するため、経済に焦点を絞った「所得倍増計画」を発表した。10年間で国民所得を倍増させるというものであったが、当時は誰もが単なる目先を変えるスローガンに過ぎないと思った。ところが実際には、実質国民総生産は約6年で、国民1人当りの実質国民所得は7年で倍増を達成した。


 日本の経済史においては、1955(s30)年から1970(s45)年頃までを高度成長期あるいは高度経済成長期と呼び、この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた。なかでも特に、1960(s35)年に首相に就任した池田勇人の「国民所得倍増計画」は、まさしく高度成長体制の基盤を整備したといえる。


 首相として、目覚ましい高度成長を演出した池田勇人だが、一方で、当時の流行語にまでなった有名な発言や歴史的失言として記憶されるものが多い首相でもあった。第3次吉田内閣で大蔵大臣に抜擢された池田は、国会の質疑で「貧乏人は麦を食え」と発言したと新聞に書かれてしまう。趣旨は違ったものであったが、発言の上げ足を取られて面白おかしく新聞が取り上げられ、各方面から強い批判を受けた。また、2年後に通産大臣としての国会答弁を、新聞は意図的に曲解して「中小企業主の五人や十人自殺してもやむを得ない」と書いた。

 しかし総理大臣になると、池田は「寛容と忍耐」を政治理念に掲げ、「低姿勢」を前面に打ち出した。そして、つい本音を言ってしまう政治家とのイメージを逆手に取って、「経済のことはこの池田にお任せください」とか「私はウソは申しません」など、庶民が笑いながらも受け入れるような名言を連発した。


 所得倍増計画は予想を上回る勢いで進展していたが、1964年9月、池田は喉頭癌に罹患していることが判明した。すでに癌は相当進行していたが、病名は本人に告知されないまま、一般には「前癌症状」と発表された。高度成長を象徴する'64年東京オリンピックが、大成功で幕を閉じた翌日の10月25日に、池田首相は退陣を表明し、後継を佐藤栄作に委ねた。

 その後の高度経済成長は、池田の経済政策を踏襲した佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが、事実上、その体制を作り上げたのは池田勇人の「所得倍増政策」であった。池田は倍増計画が達成されるのを目前にして、1965(s40)年8月13日に死去。享年65。


(この年の出来事)

*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。

*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)

*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 

*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。


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